ペルソナの世界(3)

ではここで、人間について生物学的な次元(身体の次元)と、社会的な次元(言葉の次元)の関係について再び立ち返ろう。

こうしてあえて繰り返しているのには意味がある。このことをしっかりと刷り込ませ、そして己自身の問いとしてそれを見つめなければ、いま陥っている運命を克服できないからだ。

1.

さてこの「生物的」「社会的」という2つの次元が組み合わさって、あなたは「人間」をやっているわけだが、改めてこうして2つを並べてみれば、いくら周知のことだとはいえ奇妙な感覚を覚えるかもしれない。「言葉がないときの身体ってなんだ?」という奇妙さがあるからだ。ただ臓器が活動しているだけで、社会という枠を取っ払えば、正義も悪もない、目的も存在の意味さえもない。

宇宙の運動の原理は、もちろんその進行性にある。自然の光景をみればわかるように次々と展開していく。種が芽を出し、それが茎や花となる。海面は蒸発して雲となって雨として降り、川になりそして海へ還る。

だが「種」「花」「雲」「川」といった個別な区分(言葉)を取り払えば、すべては連結したひとつであることが浮かびあがり、永遠のサイクルが繰り返されていることがわかる。これらは「大いなるエネルギーの流れ」がそのまま現れている。

もちろん人間も同様に再生産(サイクル)を繰り返している。子として産まれ、成長して子を残して消滅する。つまり言葉の次元が存在しない「生物学的な意味での人間」というのは、ただ無根拠に生存し、繁殖を繰り返しているだけのカビなどと変わらない。

「カビなんて嫌だ」と言うだろうけども、ここで指定したカビというのも「言葉によって輪郭を与えられて見えているもの」だ。だから「生物学的な意味での人間=身体のみ」ということさえ、説明として用いているだけであり、身体という個体さえも実際には存在しない。あくまで言葉として切り分けられた幻想上の「身体」が見えているにすぎない。

だから言葉の次元が存在しないとき、始まりも終わりもない、生も死もない、ただ永遠性があり、まさに「アルファでありオメガである」という聖書の通り、無限のサイクルのみが果てなく広がる領野となる。仏教ならば不生不滅や諸法無我といったところだね。

2.

つまり言葉の次元が、その「言語なき世界」に重なることによって、本来の一体性を切り分けることになる。そうして自分や他者が現れる。すると「関係性」が生まれる。このように考えてみれば、もともと一体だったのだから、言葉のスクリーンを重ねても、自動的に関係性が生じるのは当然だといえる。この世の原理である、「見たら見える」というトートロジーの種明かしはここにある。

部屋を歩く、蛇口をひねる。水をコップに注いで飲む。これらも「他者(事物)」との関係にあり、それは本来の一体性の循環を、そのように表現されたものとなる。つまりこの「仕組みそのもの」が「この世」というやつだ。

だから「人-間」の世界とは、他者との自動的な(ペルソナ的な)関わりによって存在し、それが「社会的である」ということになる。背後には一体的なエネルギーの流れがあり、それが人々の交流(家庭、仕事、恋愛、交友、文化などの発展、または戦争など)として現れる。お金の流れもそうだ。「もとはひとつ」であってその流れが言葉として何らかに翻訳されて、結果的に人間の世界でそうみえているにすぎないのである。

3.

アリストテレスは「人間とは政治的(社会的)な動物だ」といったが、それは「言葉を話す動物」だということであり、言葉によって自己と世界との関係がつながれ、そして言葉という規範に従うことで「自分」や「他者」「現実」がそこに自動的に現れる。つまりペルソナの世界が生まれる。

だから言葉は切り分けるだけではなく、本来の一体性を「ネットワーク(つながり)」として再現する。だから言葉は他者とのコミュニケーションを可能にする仕組みであり、「動物の社会化」を可能にするシステムとなる。

その「つながり」は、横軸としては「社会という共同世界」として、縦軸としては1分後のあなたがいまのあなたと同一だと感じているように「刻々と過ぎていく宇宙の変化への自己同一性」として、縦横に伸びている。

あなたと私がいまこうして関わっているのは(画面や文字を通じて互いの思考が交わっているようにみえるのは)、あくまで言葉のスクリーン上でのことである。もともとは同じひとつなのだ。

だからそれが何であれ「交流できる」ということは、そのスクリーンを取り払った「向こう」には自他という区分が消えた領野があるということだ。横軸にしても、縦軸にしてもね。つまり永遠無限に「大いなる次元」は広がっている。

ゆえにどうして人は欲望を持つのかが理解できるだろう。「ひとつ」は言葉によって分断され、だが言葉は吊り下げたエサのようにして、人間を「ひとつ」へ誘っているのである。恋愛であれ物欲であれね。

4.

さてここで重要となってくるのが、こうした「言葉上での関係性」が「どのようなルールをもって成されているのか」というところにある。つまりただ関係性があるだけなら、欲しいものは奪うだけといった無秩序なことになるだろう。

生物学的な次元が単に言葉に置き換えられたままであるならば、この世は暴力に染まった地獄絵図のようになる。だから言葉はその発展とともに、切り分けを増やして人類の発明を進展させただけではなく、切り分けられたもの同士の関係において、何らかのルールを課することにも心血を注いできた。

このルールが普遍的な法則というものだ。

ペルソナの世界は「自動的に」その役割が与えられるといったが、「普遍的な法則」とはその役割の分担を「見えない力」で私たちに従わせるもの、無意識的にそれに従ってしまう法則であるといえる。

5.

前にゲシュタルト崩壊について話したことがあるけども(連続した同じ文字を見ているときの違和感など)、あれも日頃当たり前だと感じている「人間界の規定(文章はこういうものだ、など)」を別のアプローチから捉えることによって、無条件に信じこんでいる人間世界の構造の真実を垣間見るものとなる。

たくさんあるはずだ。ずっとそれが「良いもの」や「悪いもの」だと思っていたのに、ふとしたきっかけで、己が何らかの幻想を見せられていたことに気づく。言い換えれば、人間の世界とは常に神話や宗教に包まれているといえる。どれだけ科学的な時代だ、産業の時代だ、グローバリゼーションだといったところで、その観念自体が人間世界を覆う宗教なのだ。

だからいまあなたが真実としている「あらゆる常識」が「普遍的な法則」にあたる。毎日働いて生活をすること、極端にいえば、殺人といった「タブー」なども無条件に信じ込んでいる何かがあるからだ。

だがどうしてタブーなのだろう? それは法律がそう定めているからだけではない。「なんとなくやってはならないような行為(つまりタブー)」は人間のなかに根付いている。

つまり「法律」という小さな括りを超えた、より大きな「法」が、言葉のネットワーク(人間界)には刻まれているのだ。ゆえにそれが人間に理性を与える根底にあるものとなる。法律という国や時代的なルールではなく、より大きな「法」によって「人-間」の社会は成り立っているのである。

6.

ちなみに日本語では法と法律は同じ意味で捉えられるが、たとえばフランス語では「法や法則」を示す言葉(ロワ)と、「法律や権利」を意味する言葉(ドルワ)は分けられる。そこには普遍的な人類観への意識があるからだ。現代の日本人が「他者を容認しながらも自発的に生きる」ということができないのは、こういう普遍性への言葉のレベルが弱いためでもある。

己は豊かな草原に咲く一輪の花であり、みんなが咲いているように「自分も全開に咲こう」という意志のことだね。

自分が全開に生きているからこそ、他人が全開に生きていることを「理解できる」のだ。つまりみんなが「対等」にあるからこそ、豊かな草原はより一層華やかになる。

だが現代の我が国の人々の大半は、全開に生きている者や成し遂げた者を軽蔑し、自ら陥っている不完全燃焼の沼に引き摺り込んで「対等な社会」にしようという傾向にある。

これは現代の信仰への弱さもあるが、その無信仰さえも「言葉が少ない」ことが要因にある。というより減ってしまったのだ。もともと日本語はどのような諸言語よりも、自然世界への表現が多彩で豊かだった。だが中途半端に西洋化を受け入れてしまったことで俗物に塗れてしまい、情緒豊かだった日本語の味わいは失われてしまった。

いまの若者の語彙の少なさだけが非難されることではない。もう長い間そうなのだ。

神秘的な風情に対する精神が失われて、本来その精神によって対置されていた謙譲語やら丁寧語といった聖なる言葉が、いまでは建前として他人の顔色を伺うような「沼に溺れ合う俗なる言葉」に成り下がってしまっている。

7.

しかし「言葉」とは本来、人間が人間であるという「拠り所」となる理性を与えるものだ。だから人間である以上「生物学的な次元」は狂気でしかない。

つまり言い換えれば、そもそも言葉を「与えられてしまった」から、相反する「非理性=狂気の世界」が存在してしまったのである。だから良くも悪くも、言葉を得た人間は引き返せない状態にある。言葉は大きなコインを生み出し、人間はその「表面」で暮らしているのだ。裏面に怯えながらね。

だがそれはたとえ「表面」に立っていようとも、その足元には無数の小さなコインで溢れかえっているということでもある。つまり正義があるところには必ず悪があり、幸せがあるところには必ず不幸がある。

これは何かを悪だと設定するから、己に正義が生まれ、何かを不幸だと設定するから、幸せを見出しているともいえる。自己同一化というコインの表面を保持しようとするゆえに、その裏面が存在し続けてしまうわけだ。

それが人生におけるあらゆる「恐れ」の正体であるけども、その恐れを「あえて」作り出しているのが、言葉によって制御された見えないルールであり、「法」であり、つまり普遍的な法則となる。

よってあなたは「整理整頓された平和な社会」を生きているわけである。

8.

ところが、この普遍的な法則に支配されるとき、私たちはコインという言葉の次元を超えたところにある、本来のエネルギーの流れに逆らい続けることになる。息苦しさや、得体の知れない後ろめたさに支配され続ける。

じゃあこの人生の苦しさから脱するには狂気に向かうしかないというのだろうか? そうだ。その通りだ。

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