働くこと、幸せに生きるということ(1)

今回は2回に渡って「働くこと」の本当の意味、そしてどうすれば実践的に人生を幸せに変えていくことができるのかについて話していこう。

1.

古代の部族から現代の風習(誕生日を祝ったりなど)にいたるまで、また働くことなどの社会の基本的な基盤までを見通してみると、人間というのはある共通した性質が何千年も貫かれていることがわかる。

それはものを「交換し合う」ということだ。

実際「働く」というのはなにを意味しているのか。それは「自分のできることの提供」であり、それを受け取った側は同様に自分のできることを提供してくる。

それが現代ではあまりに体系化してしまい「働かなければ食べていけない」という脅迫観念にすり替わってしまっている。本当は逆なのであり「何かをするから何かをされる」のだ。これは仕事に限らず人間関係の感情のやりとりにおいても同じフォーマットにある。

だがそれは「与えてもらえることを期待して何かをする」というのは違う。期待という言葉は、やはり強迫観念がベースにされた思考であり、そこを崩さなければ私たちの本来の自然で気軽な在り方に到達できない。

2.

以前も話したけども、北米の先住民族に伝統として継がれてきたポトラッチ(贈答の風習)はもはや自分の力を見せつけるためのパフォーマンスになり、単なる意地の張り合いでしかない。その本来の自然的な交換の目的を見失っている。

これは先進社会の私たちも同じ傾向にあり、この「本来の人間の交換するという性質」と、体系化されることにより感じられる焦りや脅迫感の混同をやめる必要がある。人生の不幸はこうした誤った意味付け(思い込み)から生まれるのだ。

私たちが生活に必要なものを街で買うことができたり、おいしい料理を食べたりできるのは、それらの店主が博愛だからなのではなく、自分の利益を追求しているからであり、言い換えれば、彼らは自分のできることをやっているにすぎない。

我々は彼らがその力を完全に発揮してくれるからこそ、不足を満たすことができる。その返礼として私たちもできること、すなわち対価を支払う能力があるから、それを提供する。だから彼は別にお金をもらいたいからと「乞うているわけではない」のだ。

つまりここに罠がある。

3.

あなたは会社で、または自分の商売で、さらには離れたくない恋人のまえで、その見返りのために自らを施していないだろうか。もちろんご近所付き合いなどの人間関係でもそうだ。ここを逆転してしまうから人生は重くなるのである。

こうした話を「体系化した世界」からみてしまうと「じゃあ無賃金で提供し続ける危険性がある」とか「そんなに世の中甘くないだろう」という見解になる。確かにそうだ。資本主義社会は人間の欲望が原動力にあるからだ。

資本主義そのものが体系化された「ひとつの視点」であるから、その枠組みのなかからものをみる限りは、慈悲を勧めるキリスト教も仏教も、またどのようなスピリチュアルな教義も今回の話であっても、単なる理想論にしかならない。

だけどもその枠組みから離れてみれば、「人間は交換し合っている」という自然的な流れだけが起きているということがやはりみえてくる。その正体は万物を在らしめている全体のエネルギーの循環であり、人間的な見地でいえば「交換せずにはいられない」ということになる。

会話も交換であるし、お互いを見ることも交換なのだ。存在が存在を確かめ合うこと、そうして己の存在が知ること、それが私たちの観念上で「人間世界」として描き出されているものだ。資本主義社会とはそのように動いている自然界の流れのうえに、迷妄的に現れているひとつのゲームにすぎないことがわかる。

つまり自分を犠牲にして他人になにかをするという精神は、それはイエスやブッダのいっていた「慈悲ではない」ことを理解するようになる。まったく逆であり彼らはそういう自虐的であることをやめろと言っていたのだ。

「自分の持ち物をすべて捧げよ」といった教えの真意とは、自分を完全に生きろということにある。「すべてはあとから付いてくる。だから得ようとするために活動してはならない、それは完全な自分ではないだろう?」と彼らは言っているのである。

4.

ここまでで理解しなければならないのは、他者の善意というのは決して「あなたに対して何かをしてくれたこと」ではないということだ。善意というのは結果的に生まれるものであり、つまり各々が自分のできることを発揮したことで、その残像としてそこに落とされるものである。

これを間違えるから「他人は優しくない」だとか「善意を与えなければならない」とか、無理な活動で自分を苦しめなければならないことになる。つまり不幸のスパイラルにはまる。こうしたことも「体系化した世界」からものをみているからであり、まずはにでなければその思考上でしか物事を捉えることができない。

会社勤めしているならば、その給料は「辛い思いをした対価ではない」のだ。自分の価値をそこに示したことへの対価であり、あなたがどの視点でものを見ているかで世界はまったく違った印象となる。そのように考えていけば、自分がどのような職業に向いているのか、またどのような生活がベストであるのかもみえてくる。その進め方については後述しよう。

だから草花たちがそれぞれ自分を表現して豊かな自然が形成されているのと、人間の本来の在り方は何ら違いはないのだ。他者依存で生まれた「自分」を捨てて自分自身を生き始めなければ、体系化の外にある自然の偉大なる流れをすべて見逃してしまうことになる。それをしっかり理解することだ。

5.

さて「自分のできること」をすることが、この自然世界で恵みを享受しながら存在するための、いわば入場の要件のようなものであることがみえてきた。自然界の「自給自足」のサイクル(=豊かさの循環)に組み込まれるためには、あなたが「自分らしくあることが絶対条件」だというわけだ。

繰り返すけどもここで「自分のできることが、とてもお金になるとは思わない」とか「どうやってこれを商売にすればいいのだろうか」ということに頭を抱えるのは、やはり体系から抜けられていないから注意しなければならない。

「自分を貫くことはワガママだと思われるのではないか」とか「他人を振り回してもいいんだ」とかそういうのも他者依存の考え方だ。そうした発想が浮かんでこないほどに、自分自身を生きなければならない。

Xの話をしているからといって、それはXについてのことだけに関わるのではない。いまいる会社のなかでも、日頃の人間関係のなかでも「自分自身を生きる」からこそ、あなたは恵まれるのであり、それはお金や善意を意識している次元よりもっと高次のレベルに意識を置くということにある。

6.

では背後にある自然の流れが人間の「意味世界」ではどのように映るのか。それは大きく分けて2つある。まずは誰もが陥っている資本主義の社会がそのひとつだ。

食べるために労働し、労働の対価は食べるために消費される。つまり生存するために労働し、労働するために生存する。このループのなかでは、生存することや労働することを「問題としない」ような、重荷が完全に降ろされた瞬間はどこにも入り込む余地がない。

労働の疲れを回復するために休養があり、休養はまた労働に赴くためにある。この体系化された枠組みは肉体的や時間的な拘束だけではなく、思考や感情といった精神までガチガチに縛られてしまう。

ゆえにその枠外の世界について「そんな楽観的な生き方がうまくいくはずがない」といった見方しか持つことができない。それは彼らにとって絶対的な真理であり、どこも間違えてはいない。その通りなのだ。だからこそ方向転換をしようとしても「必ず失敗」する。なぜなら「枠外に出ること=失敗」が彼らにとって正しいことであるからだ。

だけどもそれは平安時代のひとが携帯電話を知らないように、自分の価値基準を信じるあまりに、そこからはみ出たものがすべて嘘に聞こえているだけでしかない。

嘘を信じるのではなく、自分の常識を崩さなければならないということだ。そうでなければ労働地獄や人間不信のスパイラルからは抜け出すことはできない。

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  1. buruku10 より:
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    • 涅槃の書-自分 より:
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