すべてが偶然であると知る

遠い国のある村で暮らしているひとりの女が子を産んだ。たまたま村へ訪れていた兵隊の男と恋に落ちてしばらく暮らしていたが、彼は送られた先の戦地で死んでしまった。間もなく身籠っていたことを知り、やがて男の子が産まれたというわけだ。女は悲しんだが、彼との”証”であるこの子を大切に育てていこうと、人生を歩み始めていくのである。

よくありそうな話だけども、この「なぜありそうなのか」が今回の話で重要なところとなる。あなたの”現実”は同じ原理で創られているからだ。

前に「なぜ”この現実”なのか」という話をしたけども、今回は「なぜこの現実に“確定”しているのか」、つまり現実を現実たらしめる信念や想念はどのようにして堅く結ばれているのかについて解き明かしていこう。

その過程で「シンクロニシティ」とは何であるのか、そして「不老不死」の本当の意味もわかるようになる。

1.すべては偶然

さて、彼女にしてみれば男と出会ったことや子を授かったことは「己の運命」であるわけだが、この話を当事者ではなく、遠いどこかの出来事だと捉えるほど「すべてが偶然の重ね合わせ」だということがわかる。

その村で女が暮らしていたことも偶然であるし、そこに訪れた兵隊の彼も偶然だった。2人の出会いも恋に落ちたこともすべて偶然の出来事である。

ロマンティックな情動は一旦取り外して、これを物理的な出来事として捉えてみれば、どこかの山奥で雨が降ったり樹木が風に揺れたりといった単なる自然現象が起きただけであること、つまり「偶然それはそうだった」となる。

では彼女のいう「証」とはいったいなんだろう? 単に雨が降って風で木が揺れたことを「己の人生」という捉え直しで、価値化しているだけなのだろうか。

その通り、子どもたちが道路の白線を綱渡りの遊びに見立てるように、彼女も偶然の産物を必然的な何かに見立てているにすぎない。

だからこそ「この世」は諸行無常であり、思い通りには決していかないのである。

2.偶然と必然

もちろん男の子がその村に産まれたことも偶然である。

己がどの場所で、どういう経緯で、そして誰から産まれたのか。性別な何であり、どんな容姿で、どのような名前を与えられたのか。またどんな言語を覚えて、どういった文化や風習のなかで育ってきたのか。

これらもすべて「偶然そうだった」にすぎない。

何の理由も根拠もなく、ふと気がついたら突然そこに放り出されていたのであって、ゆえに少年は「私は〇〇という者であり、そして〇〇という場所で暮らしている」と”説明せざるを得ない“のである。

じゃあ「本当のこと」はどうやって説明できるのだろうか。彼はどうやって自分自身を正しく表明できるのだろう?

でもなんか変だね。そもそも「本当のこと」とはなんだろうか? 「説明され得ないもの」をどうやって説明できるのだろう?。

つまり少年は「本当は偶然の集まりにすぎないものの”説明として”」生きていくことになる。それ以外に”ない”からだ。

こうして「本当は偶然にすぎないもの」を”必然”だと捉えることから、彼の「物語」はスタートするわけである。これが「現実の”確定”」となる。あなたの現実世界もこうして現れている。

3.現実は必然性の中にのみ生ずる

すべて偶然であり、あらゆるものが理由もなく偶然に配置されている。

「ある村があったこと」「そこで暮らす女がいたこと」「兵隊の男がやってきたこと」「恋に落ちたこと」「男が死んだこと」「子を宿ったこと」「体が生まれてきたこと」「容姿や性別があること」「その社会で交わされる言葉があったこと」

これらを”必然的”だと捉えることで「自分の物語」は開始する。つまり現実という幻想は「必然性の中」に生ずることになる。

だから少し言い方を変えてみれば、現実とは「必然化すること」によって現れるのだといえる。また逆にいえば、あって欲しくない現実を「偶然化に戻すこと」でそれは己の人生の埒外となるわけだ。

いま南アフリカで大雨が降っているとき、それはあなたの人生とは無関係である。あなたからすれば、それは「たまたまそうであるにすぎない」からだ。

だがあなたが”自分の母親”から産まれたことも偶然ではないだろうか。その顔立ちや生まれつきの癖毛や、性別や日本語を話すこと、地元の小学校へ通ったことも、いまそこに見えるものも、そもそもいまここにいること自体、すべて偶然の配置ではないだろうか。

しかしあなたはアフリカの雨とは違って、それらは「運命的なもの」として捉えている。そしてその運命に翻弄されている。なぜならそれらを無自覚に必然化しているからである

4.”偶然の領域”に自我は存在しない

だから人生に関わる物事を突き詰めれば「自分の母親」というラベルさえも消える。目の前にいるその人は誰だろう? 家族とは、人間とは、生命とは、一体なんのことだろう? 毎日当たり前に帰ってくるこの家は本当はなんであるのか。

こうしてすべてが偶然であること「偶然の世界」に己は放り出されていることを知るとき「自我」は崩れ去る

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