ジェンダー、恋愛、社会関係について

コメント欄で返信したジェンダー問題について語った内容なんだけども、手記として載せておいてほしいという要請がいくつかきているので、前置きの追加と多数宛にへ読み替えられるように少々の変更を加えて掲載しておくよ。

先に概要を書いておくと、私たちは気づかないうちに何かの役柄を演じている。それは自らが望んだものではなく、社会構造のなかで私たちに憑依するようにして現れるもの、つまり演じているというより演じせざるを得ない様子にある。

だがそのことに気づかずに、いまある自分が「本当の私」であると思い込んでしまうことで人生のコントロールが効かなくなる。

そのせいで毎日悲痛な事件が起こる。家庭内でのネグレクトや暴力的な虐待、会社でのパワハラ、また見ず知らずの人とトラブルが発生する。

1.

前にも話したことがあるが、幼児二人と暮らす母親がホストクラブにはまって家に帰ってこなくなり、子どもたちが空腹のまま死んでいたという痛ましい事件があった。

もちろん母親は非難されるわけだが、逮捕後の彼女は「そうする以外なかった」「他に私にどうしろというの?」という困惑しか表すことしかできなかった。

つまり彼女は人並みに幸せになりたかったわけで、だから「自分なりの都合」があったわけだ。

こういう事件があると「一体どういう神経をしていたのか」という声が当然上がるが、それはある特定の観点による主張でしかない。

実際こうした事件が起きている現場は、そういった主張とはかけ離れたまったく異質の次元にある。たとえば彼女の場合ならば、腹をすかせて待っている子どもたちの姿が「自分の都合」に完全にかき消されてしまっており、つまり「異常な神経」をしていたというわけではない。

彼女はただ「自ら作り出した欲望の夢のなか」に眠りこんでいた。夢遊病者のように生きていた。そして収監された牢獄のなかで自分が眠っていたことにようやく気づくわけだ。

しかしこれは人ごとではなく、人間は誰もがそのような状態にある。程度が違うだけにすぎない。

2.

こうした「コントロール不能」に陥って罪を犯した加害者たちは、もちろん反省をしなければならないが、大事なのは己がしたことの原因とその解決を求めることではない。それだと夢遊病の罠にかかったままであるからだ。

そうではなく「どうして己はコントロール不能だったのか」ということ、もっといえば「己はいったい誰だったのか」を俯瞰的に見つめ直さなければならないことにある。

私たちは社会生活のなかで「自分」が主体であると思っているが、まったくそうではない。現実世界における主体とは「自分」を取り込んでいる環境のほうにある。

そこに気づいているときに人生の苦悩は消滅する。つまり己自身で現実をコントロールできるようになる。コントロールしているのはその現実を超えているもの(本当の私)であるからだ。

たとえば家族がいつものように話しかけてくる。そしてあなたはいつものように「鬱陶しいな」と感じる。だがここにコントロール不能性が現れている。

どうすればコントロールできるのかといえば、

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コメント・質疑応答

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