世界の引越し

「あっちを選んでたら損しなかったのに」

小さなことから大きなことまで
私たちはいろんな場面で
そんな嘆きに直面するけども

どんな場面であれ共通しているのは
世界が二手に分かれたように感じること

つまり自分はそちらとは違う世界に
置き去りにされた気分になるということだ

たとえば当たりの確率の高いクジで
外れを引いたときをイメージしてみよう

外れクジを引いた自分は
もちろん当たりクジを引いた自分ではないが
それは己の違いだけでなく
己を包む世界も丸ごと違うことになる

その賞金や懸賞品による幸福な世界があちらにはあった

それゆえ
「あっちを選んだ人が羨ましい」
「あの瞬間の選択を間違わなければ
今頃自分もあっちにいたのに」と思うが
それだけではなく同時に冷酷な疎外感のような何か

つまりその世界に入る資格が
己には与えられていないような無慈悲な残酷さを
心の奥で感じていたりするものでね

するとこれまで無限の可能性に満ちていると
思っていた自分の人生は実は惨めで貧しいものであり
いわば水槽のなかの魚のように
どんなに頑張っても
その狭い世界を越えられないのだと思ってしまう

他にもたとえば
友人には素敵な恋人がいるのに
それを横目に己はいつも孤独のままだという
寂しさを抱えているとき
私たちは次のように思ったりすることがある

──

それは別に
友人が自分よりも優れているからではなくて

たまたまその出会いがあった場に
友人がいたからであって
自分もきっかけがあればそのようになっていたはずだ

──

という具合だけども
たしかに”偶然の出会いそのもの”は
友人が優れているからでも
自分が劣っているからでもない

己を超えた何かが引き合わせるものだ

だがそうなるとどうして己には
そのきっかけが与えられないのだろう?

つまり絶望してしまうのは
その引き合わせてくれる何かに
自分は選んでもらえなかったという悲しみであり

それは自分ではどうしようもないことゆえ
ただ嘆くことしかできないが

しかしその嘆きは
単にそれを取り損ねたという損得ではなくて

己の存在そのものが否定されているような
そんな途方もない深い悲しみにあるわけだ

周りの人が旅行を楽しんでたり
念願の何かを手に入れたり実現したり
そうしていろんな経験をしているのに
自分にはそんな状況や機会が回ってこない

いったいどうすれば
その世界は訪れるのだろう?

街を探し歩いても
自己鍛錬を積み重ねても
その世界にはかすりもしない

それがどこにあるのかさえわからない

「あっちを選んでたら損しなかったのに」と
悔やんでいるときに同時に感じている闇は
まさにそのことであり

向こう側とこちら側は
まったく異なる世界として
分かれてしまっているわけで

あちらの世界には
どうやっても入ることができない
深い失望感のことにある

つまりたどり着く手段が見つからないというより
そもそも存在しないんだ

土産話で盛り上がる人たちを前に
己はただ無力感に飲まれるだけであり

そんな心の傷を重ねてきたゆえに
ちょっとした外れクジさえも
己の人生そのものが否定された感覚に打ちのめされる

この先も幸せになれないんじゃないか
幸運から見放され続けるんじゃないかという
絶望感に囚われるわけだ

 

世界の運営者

たしかに向こうの世界に入るための
直接的な方法はない

もちろんいろんな努力はできる

その努力があってこそ
それが報われることの方が多いが
しかし努力をしたからといって
向こうへの優待券が確実にもらえるわけではない

あくまで”その確率”が上がるだけだ

それゆえ努力をしてるのに
「本当にこんなことしてて意味あるのだろうか」と
誰もが虚しくなったりするのだけども

全文をお読みいただくにはご入会後にログインしてください。数千本の記事を自由にご覧いただけます。→ . またご入会や入会の詳しい内容はこちらから確認できます→ ご入会はこちらから


Notes , , , , , ,

コメント・質疑応答

  関連記事

-->