あなたはどこにも映らない

無限の豊かさを邪魔する象徴として
エゴやマインドなどと呼ばれるが
実際これを読んでいるあなた自体が
まさにエゴやマインドなんだ

だから「自我を消し去ることを観照する」
というのは間違っている

観照しているのも自我だからであり
つまり観照者すらも消えてしまうこと
それが無我となる

あなたが消えると豊かな世界となる
なぜならば足りるも足りないも
そういう概念を超越するからだね

あなたがいなくても世界は廻る
例えばあなたが学校を欠席しても
他のみんなはいつも通り授業を受けている
いつものように休み時間があり談笑する
あなたが休んだとしても
体育祭や文化祭は予定通り開催される

あなたが一家を支える大黒柱だとしても
あなたがいなければ
家族は役所でそれなりの手続きをするなり
やはり生活は進行していく

あなたが死のうが行方をくらまそうが
世界は何の動揺もなく回り続ける
逆にあなたという「悩み発生源」が
ひとつなくなるのだ
世界にとってエコロジーだとは思わないかね

あなたという「エゴ」がいなくなると
世界はひとつ「エコ」になる
あなたがネガティブに打ちのめされ
苦悩の嵐を炸裂しまくると
あなたの周りの人々も影響を受ける

だから葬儀はある種のカタルシスを放つ
遺族は心機一転、これから残されたみんなで頑張ろう
だがあなたはみんなに悲しんでいてほしい
心機一転ってなんだそりゃ
私の存在を忘れないで欲しい
幽体離脱中にあなたはそう思う

いやいや、
あなたがいなくとも世界は廻るんだ

そもそも両親の度重なる性欲処理の結果
たまたま世界に発生したカビのようなあなたが
自らに「自意識」を持つこと自体が苦しみなのだよ

さあ良い言葉が出てきた
自意識
エゴやマインドの最も大きな 側面
それが自意識というやつだ

つまり自意識過剰であるから
あなたはうまく生きられない
自意識さえどうにかすれば
無我の境地などいらない

スピリチュアルも仏道も興味がなく
ただ幸せな人生を歩んでいる人たちは
無我というよりも自意識の割合が少ないだけ

自意識は人間だけが持っている
動物は鏡に映る自らを見ても何とも思わない
人間は「他人という心の鏡」を見て
「社会という心の鏡」を見て
それを”自ら”とする
だからおかしくなる

あなたの日常には何万という鏡が置いてある
毎日その凄まじい数の鏡に映る自分を見て
あなたは自分を知っているつもりになる
それが自分だとね
だからあなたは常に気が抜けない
何万という途方もないキャラクターを
あなたは演じ続けなければならないからだ

その自意識という鏡
それがすべての元凶なのだよ

いいかい
鏡は叩き割りなさい
そこに映っているのはあなたではない
あなたはどこにも映らない

“あなた”はどこにも映らないんだ

 

 

 

 

 


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  1. 色即みっちゃん より:

    肉体があるのは制限でもあるし救いでもある…。

    肉体が消滅した瞬間に自己の観念が全開になる…。

    ネガティブな観念ならネガティブが全開となる…。

    それが地獄…。

    ポジティブな観念ならポジティブが全開となる…。

    それが極楽…。

    肉体とは制限でもあるし救いでもある…。

  2. uriko より:

    >性欲処理
    >カビ

    カイ カン・・・

    読んだ瞬間は後頭部を殴られたようなショックでしたが、
    次の瞬間爽快すぎて蒸発しそうになりました。

    >心機一転ってなんだそりゃ

    笑笑

    読んでショックを受けて自我が瀕死状態になった瞬間に感じた爽快さが自分なのかなと思いました。

    • 涅槃の書-自分 より:

      urikoさん

      よいコメントだ。

      少し解説しておけば、この手記は最後まで読むとわかるように二重の進行を持たせてある。

      もちろんなぜそんな仕掛けを入れるのかといえば、それは私たちが”人生”を完全に取り違えているからだ。

      二重の進行についてだが、よく話すことなので以前にimorderさんのところで話したものを引いておこう。

      ──

      私とあなたが1メートルほど”人間的な距離”をおいて向き合えば、そこは思考と感情の交流、つまり言葉が行き交っている次元となる。だがどんどん近づけば、そこは生命活動の世界となる。

      思考や感情を持たない臓器の運動、細胞の活動だけある。それは自然そのものであり言葉は通用しない。

      さらにいえば、そうした細胞の活動の世界とは、もはやあなたや私という個別性すら存在しないということだ。酸素や大地の栄養とともに、細胞は活動をしているが、それは宇宙全体の活動のごく一部分を捉えているにすぎない。つまりそれは「細胞」ですらない。

      ゆえに人間の世界は言葉によって認識されていること、もっといえば宇宙全体の動きを、言葉が独自の翻訳として、それを思い描いているだけであることがわかる。

      その「思い描かれた言葉の情景」こそが人間の世界であり、その広大な”仮想空間”のなかで、無数に枝分かれしているうちのひとつのコンテクストがあなたという意識、すなわち、あなたの現実空間にある。

      ──

      さて手記の前半部は「生物的」なキーワード、つまり性欲やカビなど、そうした自然生命の活動の次元から人間の心の愚かさ(自我の迷い)を皮肉めかせて描いている。

      人は”自分”の保身のための不安や恐れに見舞われているが、それは「1メートルの人間的距離」でのみ生じている世界で演じられてるドラマにすぎないのであり、その領域を少し外れてしまえば、もうそこは巨大なひとつの生命の永遠なる循環で満ちている。

      手記は擬人的表現として自分が死んでもみんなわいわいやってるという作風にしているが、実際は「みんながいる世界」は観念として現れているゆえ、”自分が去ったあと”は、姿やカタチのない”何か”が満たされていることになる。だがそれは”いま”もそうなんだ。

      つまりその満たされた”何か”があなたなりに翻訳されたもの(つまりこれが潜在意識)が、いまみえているこの世となる。

      実際、宗教修行で感得するのは(また先日あなたがメールで話してくれたように芸術の本来の目的もそうだ)この永遠性の次元であり、そこを”我が家”としてはじめて、禅の十牛図の最後で俗世へ戻ってきたように、“本当の意味”で人間世界を生きることができるんだ。

      これは少しまえに手記で話したことだね。

      ──

      家族と喧嘩をしてもいいし
      物事がうまくいったときは
      抱き合いながら喜んでもいいんだ

      ただしひとつだけ心に留めておくことがある

      それはなにかといえば
      現世を信じ込んでいるかぎり
      この現世そのものを理解することはできない

      ということだ

      (中略)

      現世にありながら
      つまり人間的な世界を営みながら
      現世を超えるものをいつも感じ得ているからこそ
      この”現世そのもの”を理解し
      そして自由な心で変えていくことができる

      たとえば野球をしているかぎり
      勝つか負けるかしか選択がないように
      現実に浸かり込んだその内側からは
      なにも変えられない

      どれだけ足掻こうとも
      それはただ支配されているだけだからだ

      ゆえに逆説的であって
      本当の意味で世俗を生きるには
      この現世を信じ込んでいるかぎりは
      不十分だということであり

      つまり現実に振り回されて苦しんでいるならば
      それは世俗を真に生きていないわけであって

      たとえばその苦しみの”延長”で
      宗教やスピリチュアルに傾倒するほど
      大切なものをどんどん見失っていくことになる

      煩悩を離れようとするほど
      煩悩に塗れていくというわけだね

      この世を理解するということ

      ──

      そうして生命の次元から人間世界を炙り出したあとで、手記の後半は、観念世界が創り出している幻想を見破りに向かう。

      ここで大事なのは「社会」には無数の鏡が設置してあるということ、そしてそのすべてに己は“自分”をみてしまうということにある。

      目上の人、意中の相手、店の人、誰を相手にしても「自分」はどのように見えているかを気にする。それはつまり、相手を前にしながら自分をみているということだ。

      それゆえに手記ではこう話してる。

      「だからあなたは常に気が抜けない
      何万という途方もないキャラクターを
      あなたは演じ続けなければならないからだ」

      まあそうなるね。会社、家庭、立ち寄った店、いろんなところであなたは顔を持っている。

      だがどの顔が本当のあなたなのだろう?

      そう、どれもあなたじゃない。だからこそこのように締めくくっている。

      ──

      鏡は叩き割りなさい
      そこに映っているのはあなたではない
      あなたはどこにも映らない

      “あなた”はどこにも映らないんだ

      ──

      >読んでショックを受けて自我が瀕死状態になった瞬間に感じた爽快さが自分なのかなと思いました。

      よく受け取れてる。

      あと今日掲載した手記も別のアプローチでその”瀕死状態”へと導く仕掛けを与えてるのでまた読んでみてほしい。

      ありがとう。

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