新しい年をはじめよう

あなたの人生を
強力に縛り付けているものがある

それはなんだかわかるかな

あの忌々しい相手でも
いつまでも終わらない借金返済でもなく
この世で最も強力なもの

それは「潜在意識」なんだ

そこで今回の手記は
新年の掃除(=信念の掃除)として
これまで繰り返されてきた古い人生を脱して
まさに「新しい年」をひらくための
重要な準備として書いておいた

少し長いけども
導いているものを見失わないよう
ゆっくり読み進めていこう

 

バチが当たる人、当たらない人

元旦や三ヶ日は掃除をしてはならないとか
料理なんかで刃物を使ってはならないと
いわれたりするね

掃除をしたら
正月にやってきた福の神様も
いっしょに掃き出されてしまうとか
刃物を使うとその良い縁も切ってしまうとか

こうしてジンクスとして
語り継がれてきたものがたくさんある

もちろんそれらに”科学的な”根拠はない

つまり古来からの人間の思い込みなんだけども
だが科学という「最近の考え方」
またひとつの思い込みなんだ

大事なのは
ここ200年の科学という流行が現れる遥か以前
それこそ何千何万年という時のなかで
人々はまったく科学的根拠のない風習を
信じて続けてきたということにある

なぜ信じていたかといえば
信じている通りになっていた」からだ

「あれ?言ってることが反対じゃないか」
となるだろうけどもそうではない

まさに「思い込みが現実をつくる」んだ

古人も思い込みにあり
現代人のあなたも思い込みにあるわけだね

だからここで
「じゃあ正月に掃除をしたら不幸になるの?」
と”疑問”するならば
そうして疑問していること自体
すでに「科学的な思考」によるものだ

そうした”現代的な思い込み”に
あるゆえに疑問することができる

つまり”そのように”捉えている時点で
正月に掃除をしても不幸にはならないだろうし
逆に掃除をせずに過ごしたからといって
幸福にもならない

たとえば神社なんかで祀られているものに
罰当たりな行為をする人がいるとしても
「祀りもの」の力をまったく信じていなければ
その人に罰は当たらない

その代わりに
「祀りもの」の力を受け取ることもないんだ

 

誰もが常に何かを信じ込んでいる

つまり私たちは
常に「ある何か」を信じ込んでいて
そして
“その信じている通り”にこの世が現れている

信じているものが古来からの伝承であれ
緻密な科学理論であれね

“どちらも”己の信念体系であり
その信念体系(=潜在意識)によって
みえてくる現実が決定される

言いかえれば
潜在意識こそがあなたであり
あなたはあなたのなかで
あなたそのものを体験している様子にある

それがあなたの人生なんだ

しかしここで重要な点があって
それは私たちは己が何を信じているのかを
ほとんどわかっていないということにある

つまり潜在意識というのは
「私はこれを信じてる」という次元ではなく

呼吸や体の動作と同じように
もうそれが当たり前の前提に
敷かれているということだ

だから信じるとか信じないとか
そういうものではない

前にも話したが
「私は神なんか信じない、すべて迷信だ」と
ある人が言ったならば

その人は
神を信じないということを信じているのであって
つまりその人も外からみれば
迷信している様子にある

言いかえれば
無自覚に信じ込んでいる何かがあるゆえに
私たちは”各々のこの世”を体験しているわけで

もっと言えば
あなたが何かを信じているのではなく
そもそも信じられていることそのもの、
なによりも先に敷かれている無条件な前提こそ
あなたそのものなんだ

つまり人生の体験とは
それが仕事であれ人間交流であれ
料理や趣味やスポーツであれ
ふと時計をみることだってそうだが
ただひたすら
「己が存在していることの確認」の連続であり

それが可能なのは
“自分”がこの世の内側でさまよいながらも
常にその体験が成される以前に存在するもの
己が属しているからにほからならない

ゆえに潜在意識が刻々と書き続けている本を
書くと同時に読み続けているのが
私たちのそれぞれの人生だといえる

“読者”はまさか
それを己が書いているなんて気づいていない

電車が自ら走る線路を
作りながら走っているようなもの

だが電車はそのことを知らないんだ

 

潜在意識が書き変わるとき

つまりこれは私たちが”根本的”に
パラドクスに陥っていることを示している

なぜなら
「よし信じるぞ」という意気込みだけでは
潜在意識を書き換えることは
「できない」ということであるからだ

いまからそれを信じようというのは
「いますでにそれを信じていない」からこそ
そう思えるからであって

信じていないことを信じてしまっている世界
これまでもこれからも
やはり続いていくことになる

ところが数世紀前に科学という
新しい信念が登場し始めたころ

「そんなもの神の冒涜だ」と
言っていた人たちも
だんだん科学的な思考に染められていった

なぜなら科学は産業革命を境に
人間の基本的な生活そのものに浸透したからだ

つまりどんな深い信仰者であれ
生活が科学を基盤にしている以上
無意識のうちにそれは浸透し
知らぬ間に信念を変容させていくことになる

やがて根付いた科学的思考によって
これまで「すべて」が宇宙の恩寵として
受け取られていた人々の暮らしは
生産や労働という数値的なものに置き換えられ
つまり損得や富を計算するようになった

たとえば中世まではどの地域であっても
いまのように生産や労働に
人々が追われていたわけではない

あなたが毎日疲れて帰ってくるのは
どのような業種であれ
生産のノルマがあるからだ

音楽家ならその制作が生産であり
販売業ならその販売が生産となる

生産とは利益を生み出すこと
その利益がなければ
仕事は回転しないし生活もやっていけない

ところが以前の時代では
たしかにみんな農村で作業していたが
それはいまのような生産労働ではなかった

なぜなら彼らは
なにかを生産しているわけではなく
自然の恩寵によって与えられるものを
大地や海から単に受け取るだけだったからだ

これは現代の社会化された農家とも
まったく違う世界だった
つまり「農業」ではなかった

封建社会であり自分の爺さんも孫の代も
生まれてから死ぬまで
ひとつの領内だけが世界のすべてであって
個人同士が生き残りを賭けて取引する
現代のような経済システムはまだ現れていない

朝起きて農作をして
夜は酒盛りして眠るだけ

いわば「神のご機嫌」によって
与えられたり与えられなかったりするだけであり
生産性の効率や
個人的な富の計算は存在しなかった

いまでいうところの
差益的な利益は重要ではなかった

むしろそうした剰余(=利益)は
それを与えてくれた神に
お礼として返すのが慣しだった

それゆえに
いまの時代からすれば理解できないような
生贄の儀式(返礼をすればまたもらえる)や
山や海を祀ることが
「なによりも大事な行事」だったんだ

いまだ神社の行事なんかや
死者の弔いの精神が残されていることから
明らかなように

現代の”科学的説明”の世界にはない
みえない力や流れるものが
常に全面的に意識されていたのである

 

信仰のない現代社会

つまり古代の人々は生活が苦しくなると
いまのように生産手段を見直すのではなく
その仕事の手をとめて神に祈りを捧げていた

時間も手間も惜しむことなく
そうした自分の持ち物を捧げること
つまり「減らすこと」に意識が向けられる

いまとは逆だね

現代人は持ち物とが減りだすと
どうにか増やそうと焦りはじめる

しかし古来の人々は
全体的な恩寵として豊かさを捉えていたゆえ
たとえば雨が少ない日が続いていても
やがては大きな恵みが降り注ぐこと
すなわち「神の思し召し」を知っていた

つまりなんだかんだありながらも
彼らは絶大な安心のなかで暮らしていたわけだ

そのため人生には
「必要なものだけ」で十分だったのであり
必要なものは必要なときに必要なだけ
目の前に現れるという”神なる原則”を知っていた

だからいまの時代の人々のように
自分を着飾るために
食べていく以上の収益を求めたり
必要以上の富に囲まれることに
満悦することもない

そのようないつか朽ちていくものや
常に揺れ動くものに
安心などみていなどいなかった

そしてまた
何も起きてないのに(雨は降っていないのに)
そこにどうにかして
有を生み出そうとする苦しみも皆無だった

ところがまだ神の恵みはないのに
(まだ”そのとき”ではないのに)
どうにかして有を生み出そうとする仕組みが
現代の社会構造の基盤にあるんだ

ゆえに常に”難産”であり
そしてその生まれた有の”中身”は
常に空っぽという顛末にある

 

雨が降らないのは自分のせい?

その苦しみは現代が個人主義が基礎にあるゆえ
「自分を守らなければならない」という
強迫観念に端を発している

なんでもそうだね

恋人がほしい
あれを達成しなければならない

それができなければ
私の人生はいったいなんなの?
そんな苦悩に支配されている

常に外のなにかを求めている

それゆえ現代人は雨が降らない日も
それは自分の努力が足りないんだと
思い込んでいる

「神は死んで人間が神に代わった」
そんなことが科学革命の頃に叫ばれたが

それは自由なる精神を生み出したかにみえて
実は途方もない不自由を生み出したんだ

どうして雨が降らないのが
自分のせいなんだろう?

さらにはその少ない雨から
いかに満足できる水を見出せるかを考え
そうして「パイの奪い合い」が起こりはじめる

これが現代の人類の様相であり
つまり「恩寵」から切り離された次元
計算の次元のなかに現代という時代があるんだ

ところが実際には
雨は自然に降ったりやんだりするのであって

つまりどれだけ緻密で高度に合理化された
現代の経済社会においても
「本当に流れているのは」宇宙の恩寵であり
その流れの上で右往左往しているにすぎない

しかしやがてそうした右往左往の果てに
いよいよ本当に雨が降らない世界
信念化(現実化)することになる

気候変動や原発問題
格差社会による寛容さの欠如なんかがそうだね

足りないことを補おうと求めていた結果
その「足りないが基本」の世界となる

これは不安なことばかり考えていたら
それが現実化するのと同じ原理にある

だが後述するように
こうしてみえている不安定な世の中は
人間世界の”見かけ”において
そうみえているにすぎない

だから”本当のところ”は
いまもここに「安定した流れ」が満ちているわけで
つまり不安定に見える世界とは
己にのみ「そうみえているだけ」なんだ

 

信念世界と大いなる流れを一致させる

さて古来の人々の観点で
現代の生活を捉え直してみれば

たとえば偶然に大きな収入を得たとしても
それは決してその時々の欲望を叶えるために
やってきたのではなく
やがて到来する「枯渇した時期」を
乗り越えるために与えられたものだとわかる

宇宙のアップダウンで
毎回飢えるわけにはいかないからね

野生の動物たちが生態系のなかで
うまくやってるように
私たちは各々の信念体系のなかで
うまくやっていく必要があるんだ

だからその意味では
古代人の生贄の儀式も当然思い込みであり
人間のコントロールを超えたアップダウンを
ひとつの枠組みにおいて捉えているにすぎない

だからこそ「信じた通りに」なっていた

古代の人々、また現存する
ネイティブアメリカンやアマゾンの定住民族
オセアニアの諸部族や
そして私たち日本人の伝統にしても

その環境(信念世界)で暮らしている限り
無意識のうちにその信念は根付き
そして「現実の起こり」は
その信念に沿って現れてくるからだ

たとえば近所の神社で祀られている
岩や神木のしめ縄をちょん切ってしまうと
大体は災難に見舞われることになる

信念はそれほどに「強力」であり
だからこそ思い込みを変えるために
目の前のものを破壊しろと
軽々しく伝えられるものもはない

むしろ目の前にあるものを
破壊しなければならないと思っている時点で
すでに水槽のなかで泳がされているんだ

逆にいえば
これも古来からの言い伝えのように

笑う角には福がきたり
他人への感謝は良縁を結び
やがて自分に返ってくることになる

ここにこそ
大いなる流れと信念体系との一致があり
己の世界が最もうまく流れている状態にあるんだ

 

信念世界にのみ閉じ込められてはならない

というわけで潜在意識(=信念体系)とは
「大いなる流れ」を
己の現実としてみせる作用そのものであるけども
(そのみえている”なか”に自分もいる)

しかし神社の慣習や生贄の儀式や
また科学的な(損得計算的な)生産効率にしろ

そうした
「モノサシそのもの」に囚われてしまうと
本当にここにあるもの(満ちているもの)を
見失うことになる

なによりこの「大いなる流れ」あってこそ
それを翻訳している潜在意識の意義があるんだ

だから“原文”と翻訳文との関係
いつも頭に入れておかなければならない

・原文=大いなる流れ
・翻訳文=信念世界、潜在意識

あなたがこの現実で求めている幸福のすべて
つまり安らぎや喜びや充足というのは
原文そのもの(大いなる流れ)にある

ところが私たちそれ自体が翻訳文であり
翻訳を介してしか原文を捉えることができない

だが翻訳文はいくらでも
複雑に凝らせることはできるが
しかしその表面的な文面に囚われてしまうと
原文の動きによる”変化”が
翻訳文に常に不条理を与えることになる

たとえばどれだけ凝った造りの家を建てても
地震で大地が揺らげば
その構造が複雑であるほど収拾がつかなくなる

その凝った造りを保持するには
隅々まで同時に均等を保たなければならないが
そうして建物のなかにのみ安定を作っていると
大地が揺らいだときにその安定が仇になるわけだ

しかし原文は常に動き続けているゆえ
それはとても恐ろしいことに思え
一寸先が闇であるようになってしまう

同じ話なら先日
教会の神父を手伝うまだ若い侍者が
「この聖書の一文はどういう意味ですか」と
訪れた人に尋ねられていた

「それは日本語訳ではちょっとわかりにくいね
ヘブライ語やギリシア語の原書では
こういう意味なんですよ、
だから〇〇ということです

と答えていたがその回答は誤っている

なぜなら聖書の原語であるとされる
ヘブライ語やギリシア語もまた
“原文”への翻訳であり

そうして「この世は翻訳にすぎない」
ということをまさに聖書が伝えているからだ

だから彼のその回答でいえば
翻訳された世界のなかでの整合性を
示しているにすぎないわけで
つまり彼の教え方では
聖書の読み方に正解があることになってしまう

しかし私たち、つまり現在80億人弱の人口が
地球上に存在しているが
いったい誰の人生が正解だというのだろう?

また人類史の研究上では
これまで存在した人口(紀元前5万年前〜)は
1080億人とされるが
たしかにそのなかに偉人も聖者もいたけども
それぞれ生き方も考え方も違う
ではいったい誰の人生が正解だというのか

もし正解者がいるならば
その人とまったく同じ思考や生き方を
しなければならなくなる

だが人生とはそんなものだろうか

たとえ苦難があったり
誰かに後ろ指を差されたとしても
己が自らの人生を愛していたなら
それはひとつの正解なのではないだろうか

なによりそうして
「人生を愛している」ときというのは
己が翻訳世界に
閉じ込められていないからこそであり
原文そのものを眼差している

そのあり方こそが
「本当の意味での正解」なんだ

つまり私たちという個々の魂が
ひとつひとつの翻訳なのであり
“原文”に対する様々な「見え方」バリエーションにすぎない

聖書はこうした
多面的な構造そのものを伝えているわけで
決して内容を字面通りに受け取れと
いってるのではない

すべては比喩アレゴリーとして書かれているのであって
だが先日の手記でも話したように
私たちの現実そのものが「比喩」なんだ

 

──

たとえば釈迦はいろんな比喩を用いて話したが、まさに彼のそのあり方に大きな意図があったんだ。

それは彼の巧みな「比喩を用いて話している内容」の先に真理があったのではない。彼が真に伝えていたのは「私たちの”知るすべて”が比喩なんだよ」ということにある。つまり”最初から”彼は答えを提示していたんだ。

──

 

つまりその若い侍者の教え方は
西洋で長らく続いていた教会支配のあり方と
同じことをやっているといえる

そしてその結果
「人間に自由を、神からの解放を」という
誤ったスローガンによって
西洋はさらに苦しむことになった

これはあなたの毎日も同じであり
昨日のあなた、去年のあなた
それらは常に
“原文”に対する翻訳として現れている

つまりあなたが「新しい翻訳」をするとき
これまで不幸だと思えていたことが
幸福となったりもする

これは言いかえれば
原文それ自体は幸福でも不幸でもないということ

だがまさに”それゆえ”に
原文自体は本当の意味での幸福にあるんだ

だから翻訳(潜在意識)を
変える必要があるといえるのだけども
むしろ自在に変えられるのだと
「知っていること」こそが最大の鍵となる

なぜならそうして知っているというのは
翻訳世界が翻訳として現れていること

つまり「この現実」を前にしながら
この現実上の方法論ではない”変容の法”を
この現実において
みつけているということだからだ

八方塞がりの現実でも
腹の立つ相手がそこにいても
その苦悩が”解消”するのは
その相手を言葉や態度で封じることではないんだ

 

神との共存

しかし話しているように
そうしたモノサシ、すなわち潜在意識は
ほいほいと簡単に書き換えられるものではない

そこで古代の思考が
だんだん科学的思考に染まっていったように
うまく自分を「騙す」必要がある

その意味でいえば現代の科学的思考よりも
古代から続いてきた「風習」のほうが
明確に「人間の信念体系」を捉えていたといえる

なぜなら豊かさの享受において
人間的な「理屈」を土台にしていないからだ

人間の理屈から離れたところに
吉凶があるわけで
それゆえに古代の人々はあるがままに委ねていた

むしろあるがままに委ねるがゆえに
“それに応じた”知恵を持っていたんだ

その知恵は決して現代のような
神から切り離された人間側での都合でなく
神と一緒に歩んでいくためのアイデアであり

それゆえに不確定な一寸先の闇も
彼らはそれを信じることで乗り越えてきた

たぶん現代人が過去にタイムスリップしたら
ほんの数百年前でさえ
恐怖に怯えて一歩も外を歩けないだろう

なぜならそこには信じられるものが
自分しかいないからだ

 

“自分”をうまく騙す

というわけで一年のはじまりは
「本当の意味での掃除」からはじめよう

それはもちろん
潜在意識のクリーンアップにある

だけども話しているように
うまく自分を騙す必要がある

そうして自分をうまく騙すには
まず「自分は常に騙されている」のだと知ること

つまり「あらゆるすべて」が
この現実が本物であるかのように
あなたに信じ込ませているんだ

それは机の上の小さなホコリさえもそうで

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