「私」を消す法

私を抹消するには
まず私(エゴ)を
認識しなければならない

黒い色を知るには
黒以外が必要だろう

黒い紙に同じ黒い色を落としても
それは見えない
そこには黒という概念すらない

あなたは自分がいると信じている
それが黒、つまりエゴのことだ

それは考えるまでもなく焼き付いていて
この世の前提としてはじめから敷かれている

さあどうやって
黒が黒を抹消できるのだろう

自分が自分を消す?
それはおかしいね
自分が消えたとしたら誰が消したというのか

掃除機が自分を吸ってくれる?
じゃあ誰がその掃除機を操作するのか

こうして「この世」は
己は己を処理できないようになっている
宝石が自らの輝きを知ることはないのと同じ

それがカタチの世界であり
形は”制限”を意味している

黒い紙の黒い文字
それはいつもここにありながら
その姿をみることができない

 

外側に出てはじめてそれがわかる

つまりあなたはエゴという中に
染まってしまっているから
エゴを消す=無我に到達するにもできないんだ

だからエゴを知るには距離が必要であり
エゴという運動場の中で離れるのではなく
運動場自体から離れる必要がある

つまり運動場の外があること
最初に知らなければならない

水中にいながらどうして
体が濡れていることを知ることができる?
気付いたときにはすでに水中にいて
どうしてそこが
水の中だと知ることができるのか?

だからまず黒くないものを見つけること
つまり水中じゃない場所を見つけること

そうしてはじめて
自分が黒であることや
水中にいたことがわかるのだよ

 

内側への探求

さあはじめよう
本当のあなたを探す旅だ

いつものように外の世界をみるのではなく
自分のなかを覗き込んでみよう
肉体でも心でもなく
そのさらに奥に感じられるもの

「何か」がそこにあるはずだ

いまエゴはその何かをみている
それをずっと見続けてみることだ

何をしていてもいい
むしろ何かをしながら
見続ける方が旅は短くなる

エゴはその「何か」をみている
確かにそこには何かがある

それが水槽の外
そこが運動場の外側なんだ

あなたは外の世界に
「自分を解放できる場所」を探していたが
その”外側”は内側を通じていた

つまりあなたは外側に出た
“本当の世界”に到達した

ここでひとつの逆転が起こる
なぜならいまエゴは
自らを外側からみているからだ

それまで信じていた世界は
小さく区切られたスペースだったことを知った

穏やかな平原のなかにある小さく仕切られた柵の中

あなたはその枠のなかがすべてだと思っていた
だがその”外側”が
はるか広大に開いていていたんだ

 

探し物はずっと足元に埋まっていた

あなたは自分の苦しみを
解放してくれるものを探していた

必死に幸せを求めて
楽しいことを求めて
ああなりたい、こうしたい
そんなことを毎日あくせく考えていた

それをみつけなければ
「人生の意味」がないからだろう
なんのために生まれてきたのか
なんのために毎日に支配されているのか

退屈は嫌だし理不尽は嫌だ
だからこのままじゃいけない
何かしなきゃならない

そうして散々探し回っていた
だがそれはエゴの柵のなかを歩き回っていただけ
当然なにもみつけることなどなかった

ところが自分という苦が解放される
広大なその大地は
己の「内側」を通じて広がっていたんだ

黒い紙に書かれた黒い文字を
ずっとみつけられなかったゆえに
まさか自分が自分を制限しているなんて
思いもしなかった

そこでエゴは気付いてしまう
つまり「私とは何だ?」とね

黒は自分が単なる色だったことに気付く
それはあなたが触れているコップと同じ

つまり「自分」とは
あなたではなかったんだ

 

「現実の重さ」から解放されるとき

“自分”はテーブルに置かれたコップと同じもの
だから片付けることもできるし
必要なときに戸棚から出してくるもの

こうして「自分」を理解するとき
あなたのなかで「私」という主観が消える

つまり「私」が世界から消えて
世界そのものが私となる

掃除機は自らを吸い込むことはできなかった
吸い込もうとしている者が「自ら」だからだ

だけども掃除機が置かれている空間を
掃除機が悟るとき
その「重さ」は消える

あなたの世界を支配しているその重さ
それは世界にかかる重圧ではなく
手のひらの上の
ビー玉の重さだったんだ

 

 

 


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  1. より:

    自分様
    新しい記事、まるで私めに書いて下さったのようで、嬉しく思います。
    じっくり読み込みます。
    ありがとうございます。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>秀さん
      あなたの思いは
      私の世界なんだ
      だから共鳴は必ず起こる

      そしてあなたの世界にあるすべてのものも
      あなたといつも共鳴している
      互いでひとつとなる

  2. ONEPOINT より:

    観察を続けているうちにダグラス・ハーディングの「頭がない方法」みたいになってきましたが
    気づいたのはまさにこの記事の通り、「私」というものが認識できるのは「私以外」があるからということでした。
    子供のころからずっと自分というものがどこから現れているのか疑問ではありました。
    科学的にみれば脳のどこの部分か突き止められるのかもしれませんが
    それよりも今の私の実感を大切にしたいと思いました。

    自分さんが様々なたとえでおっしゃっていたのはこれだったんですね。
    本当にありがとうございます。

    • 自分 -涅槃- より:

      >>ONEPOINTさん

      大切なのは日頃自分と思っているものに
      支配されないようにすることだね

      コップを手にとって感じてみよう
      私はこのコップだ
      何の自由もない
      形もこのままだ

      エゴも同じ何の自由もなく
      形もそのままだ

      だからコップもエゴも同じもの
      しかし人はエゴを己とする

      あなたがエゴの憑依から抜けるには
      まず、いまエゴを掴んでいることを
      知らなければならない

      「いま私が私だと思っているのはエゴというものだ」
      「つまり私ではない」
      「ん、では『私』とはなんだろう?」

      「私」はエゴが生み出した最大のトリックにある

      だがあなたが手品のタネを知りながら
      手品師の華麗な手捌きをみるとき
      感心はするだろうが
      騙されはしない

      一体誰が感心し
      一体誰が騙されないのだろう?

  3. harsppy10 より:

    たまたま見掛けた手記でしたが、
    現在の私にとって非常に心当たりのある手記となっています。

    私は自分が暴れ出している瞬間があることに
    ようやくその存在に気付き始めているかもしれません。

    続けます。

    • 涅槃の書-自分 より:

      harsppy10さん

      >たまたま見掛けた手記でしたが、現在の私にとって非常に心当たりのある手記となっています。

      そうだね、あなたがこの手記を「みつけたこと」そのものに最大の意義がある。

      メールでも話したように、この手記は「自分をリセットする」とはどういうことなのかについて書かれている。

      あなたへ送ったメールの回答を少し引いておこう。

      ──

      「まったくわからない」というのも、ひとつの気づきにある。なぜなら、あなたは自らの「思考の枠組み」の限界をそこにみているからだ。

      この思考の枠組みこそが、あなたの「現実の限界」でもある。つまりあなたに到来する出来事は、あなたの思考の枠組みによって解釈され、あなたの「いつもの色」に染められる。

      逆に新鮮な出来事が起こるとき、それは枠組みが「緩んでいるとき」であり、思考のフィルター通過していないからこそ、その出来事に驚きと感動を受ける。またそれゆえに、あなたの枠組みは解体され、再構築されることになる。

      このプロセスが「ものの見方」の変化であると同時に「現実の変容」なんだ。繰り返しとなるけども、あなたの現実とは、あなたの認識と解釈そのことであるからだ。

      涅槃の書をはじめてみたとき、あなたの”なか”に雷鳴と地響きがあったはずだ。

      もしそのまま解釈せずに「緩め続けて」いるならば、あなたはすでに違う枠組みとして世界を生きている。

      ──

      大事なのは、枠のなかの物事について頭を抱えることではなく、その枠があるということ自体に気づくことにある。

      だが手記で表現しているように「黒い紙に同じ黒い色で書かれた文字」のごとく、枠そのものをみつけることは、その枠内からでは不可能であり、だからこそ意識的に目を開いて生きている必要があるんだ。

      どういうことかといえば、ある出来事について同じ自動的な感情に流されないこと、つまり感情から離れて「自分」を俯瞰することにある。

      それは同時に「いま起きている現実に囚われていない」ということでもある。

      実際そうだね、たとえばある人の態度にいつも腹を立てていたとき、あなたが「腹を立てる自分」を俯瞰しているならば、どうしてその人に腹を立てられるのか。

      もはやその人はあなたに何の危害も加えておらず、つまり自分から離れるとき現実が変わるんだ。「自分=現実」なのだよ。

      私たちは「自分」というシャボン玉(手記でいう「柵のなか」)でこの世をみているという話をしたね。

      「個々の私たち(=個別の魂)」という無数のシャボン玉は「より大きなシャボン玉のなか」にあり、つまり「魂」は階層構造にある。(詳しい話は先日shiyさんへの回答を参照)

      先日聖書の話が出たついでに書いておけば、たとえばイエスの語る「父」や「神」というのは上位のシャボン玉のことにある。それゆえになぜ彼が「神の子」なのかといえば、シャボン玉の“構造”を小さなシャボン玉に伝えるために存在したからだ。

      だからイエスはシャボン玉の内に描かれる「内容」ではなく、その「形式」について語り続けていたのであり、そしてここが重要だが、イエスの姿というのは「大きなシャボン玉」のなかの共同幻想であり、たとえばいま”私たち”の時代の人々の誰もが「コロナ」という言葉を知り、そして「コロナ」によって様々な個々の現実が描かれているのと同じにある。

      それゆえに、イエスが登場して彼が処刑される一部始終、また彼を愚弄したり処刑した人々の姿もまた「個々の魂の内部に描かれた光景」にあるんだ。

      その意味で聖書というのは、得体のしれない他人事の物語が延々と書かれているのではなく、その一冊すべてが、あなたの心のなかをそのまま描いている。つまり”あなたのこと”なんだ。聖書はこのように読まなければならない。そしてこのように聖書を読むとき、”この現実がなんであるのか”がみえてくる。

      わかるかい、イエスも彼に反発するユダヤ人も、遡ればモーセもイザヤもダビデもヨブも彼らを信じた民衆も対立した人々も、さらには神の声さえもまた、「あなたの人生のその時々の心の様子」がその姿をもって描かれているにすぎない。この”二重の構造”を読み取る必要があるということだ。

      ここにあらゆる宗教の「教え」の真髄があり、仮にキリスト教も仏教も形式じゃないか、という反論を完全に跳ね返すことになる。

      なぜならその反論もまた形式のなかでそれをみていることを「教え」は言っているからだ。つまり聖書もまた「人間に理解される事物」であるゆえに、ひとつの形式を取らざるを得ないが、だがその自らの形式を俯瞰するためにアレゴリカルな方法(こうして二重性が現れる)を採っている。

      その自らの「採りかた」をみせているんだ。これは個々の魂がどれも同じプロセスを辿ることを意味している。だからこそ、イエスや釈迦の教えは有効なんだ。

      いまもこれを読みながら何かが心に現れているだろう?それもまた「登場人物のひとり」となる。

      その意味で度々「預言者」があなたの前に現れる。

      あなたの世界においては本書もそうかもしれないが、だがあなたが自分を解放できると感じられたすべてがそうなんだ。勇気をくれた音楽や好きな俳優の姿、心が洗われたと感じる朝の清々しい光やきれいな夕空もそうだ。

      そのすべてが、あなたにとっての「救世主」であり、すなわち、強固に固められた自我にヒビをいれてくれる存在、暗雲の空から注がれるひと筋の陽の光、この文脈でいえば「大きなシャボン玉」からの使い(=神の子)となる。

      しかし繰り返しておくが、神の子も救われる者も「あなた」である。すべてはあなたのなかで起きている。

      それゆえ再び暗雲に覆われるとき(”形式”を外側からみず”内容”に囚われて自我が凝固するとき)あなたのなかの救世主は”今回もまた”処刑される。

      福音書を読むとき「夜」や「眠り」という言葉に注意してみることだ。たとえば「弟子たちが眠っているときイエスは祈っていた」とあれば、それは単に光景を記しているのではない。

      この観点でこの世をみたとき、実はあらゆるすべての存在があなたを誘うためにのみ存在していることがみえてくるようになる。眠りを覚ますこと、つまりすべての責任は相手ではなく、己にあると悟るからだ。

      こうしてあなたが神の子に導かれて自我という枠組みを解き放つとき、ひとつ上位のシャボン玉に次元上昇する。これがアセンションとよばれるものとなる。

      だけどもshiyさんのところでも話しているように、こうした”上昇”はたびたびあなたも体験している。

      ──

      だからたとえばスポーツ観戦や音楽フェスティバルのように観客が一丸となるとき、またチームワークを実感しているとき、それは小さなシャボン玉を解放して、ひとつ上位のシャボン玉と調和している様子にある。

      みんなとひとつであるという、揺るぎない感じ、包まれている感じ、日頃の不安や焦りなど「まあいいか」と思える自信あふれた感じ、それらは個別の小さなシャボン玉を解放して「(ひとつ上の)高次の意識」に到達したからにある。

      ──

      あとあなたに送ったメールでもうひとつ重要なところがあるので引いておこう。

      ──

      個々の魂はより大きな魂のなかに包含されているゆえ、こうして交流ができるのだけども、それはつまり、私たちは本元は「ひとつの存在である」ということなんだ。

      あなたのなかに様々な感情があるだろう。喜怒哀楽、期待や絶望など、それと同じように、”私たち”という「一者」のなかの様々な思念こそが、個々の魂としてある。

      じゃあ魂は「その色」だけの存在なのかといえばそうではない。無限の色を生み出す「一者」のなかに己はあり、つまり己を解放しなければならない。

      ──

      一者(大きなシャボン玉)のなかの様々な思念、感情の現れが「個々の魂である」だと話しているけども、さらにその個々の魂として現れているあなた(小さなシャボン玉)の”なか”の様々な思念、感情が姿をもって現れているのが、いまある現実に現れている他者や物事なんだ。

      すべてはこうしてアナロジーにあり、そしてフラクタルな構造にある。

      よってあなたが「あなたのなかの他者や物事」に縛られないとき、すなわち「自分」を俯瞰するとき、”同じ”他者や物事は現れなくなる。それは同時に「大きなシャボン玉のなかでのあなたという小さなシャボン玉が解消された」ということでもある。

      だから「自分=現実」であること、そしてあなたが「自分=現実」の執着を離れるとき、“大きなシャボン玉のあなた”は、新しいシャボン玉として「小さな世界」を再び生み出すことになる。

      もちろんそこでもその世界に囚われたら本末転倒だが、しかしあなた(大きなシャボン玉)は「カルマ」を解消したわけであり、以前よりは苦しみが軽減されたもの、言いかえれば、大きなシャボン玉をより深く実感した世界で暮らしているようになる。

      だからこそ、意識的に目覚めている人、瞑想的な人、自然や他者の存在を愛している人というのは、”それゆえにそう”だというトートロジーにある。
同じく陰鬱で不幸な世界の魂は、”そうだからこそそう”なんだというわけだね。

      だから同じ自分を繰り返さないことだ。反動する自分、ついついやってしまう自分を離れて眺めること、しばらくは「耐える自分」があなたに課せられるだろうけども、そうしているうちに「現実」が変わっていく。

      つまり耐えさせる物事が”そもそも”起きなくなる。

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