サムサーラ
自分が環境を作り
環境が自分を作っていく
美しい名言だが
これは
エゴが観念を作り
観念にエゴが縛られる、ということだ
ただし「エゴが観念を作り」の時点で
すでに別の観念に縛られたエゴがいる
つまりエゴと観念の関係は
ずっとループしているのだ
それまで興味のなかったテニス
たまたまテニスに励んでいる
フレッシュな人の姿を見たとき
あなたはテニスに興味が湧きだす
「あの人のようになるには
サボらずちゃんと練習しないといけない」
そうしてあなたはテニスという鎖に縛られていく
注意しなければならないのは
テニスではなく
「あの人のように〜」の節だ
つまりもともと
人に憧れる性質がある、
要は自分の中に不足感を抱いていた
その観念から
テニスの人を見たときにエゴが騒ぎだした
この場合、あなたにとって
テニスは苦悩でしかなくなる
なぜならば
どれだけテニスに練習時間をさいて上達しようとも
「あの人」にはなれないからだ
あなたの見た「あの人」は
その人の本当の姿ではない
あなたの印象だった
その印象とは何かといえば
「自分にないもの」だ
あなたは「自分にないもの」を永久に追い続ける
さあどうやってそれを手に入れようかね?
このループをサムサーラ(輪廻転生)という
輪廻とは何も生死の繰り返しのことではない
そもそもあなたは死なないし
生まれてもいない
あるのは心
心がその無限のループから抜け出るとき
地獄は己が作っていたと悟る
あなたがテニスのために生きるのではなく
生きるためにテニスをしているのならば
そこに不足はない
それでコンプリートとなる
Notes 世界を変える, 充実感, 唯我独尊, 幻想, 生き方, 自己想起
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昨日のJリーグの試合みたいですね。
松本山雅は研究して自分にないから追い掛けて浦和レッズは自分がサッカーにおいてどう表現するかに焦点を当てていた印象でした。
オフィシャルサイトのトップチームトピックス内で武藤選手が述べていたように結果(代表)を求めて結果(得点)に走るのはおかしな事です。
以前はそのコンプリートを求めて三千里でした。
終わるのも続けるのも自分というのはホント懐かしさを覚えます。
五月雨祭さん
あなたは死なないということを知ったら
本当にそのことを知ったら
あなたはどうするだろう
はい
いまそこに浮かんだものが
自由というものだ
あなたの本性は自由なのだ
そうでないわけがない
なぜならば
あなたの世界だからだよ
自分さん
怖くてしかたがないです
心臓がはりさけそうな気分です
思考に囚われてしまう
家族に迷惑をかけることが
とても辛い
それは経験したくない
壁にぶつかりそうです
不安が膨らんでいます
こんな時どう在ればいいでしょうか
あきさん
こんな話はどうかね
釈迦の時代だ
人殺しを続けていた盗賊がいた
細かな部分は省くが
まあ彼も自身の正義のためにやっていたことだ
ところが、
とある経緯があり
彼は釈迦の弟子となった
つまり食っていくためには
鉢を手にして
人々から乞いを受けなければならない
さあ大変
彼に夫や妻を殺された人々は
彼を滅多打ちにした
いくら出家したといえど
憎き悪魔
巨石で頭を殴りつけた
彼は生まれ育った教えや正義のため
その通りに生きただけだったが
いまではそれが重い足枷となる
毎日血まみれ
全身骨折状態
地を這いながら空腹に飢える毎日
そんなある日
難産で苦しむ女性と出会う
地獄のような苦しみにのた打ち廻る女
彼は思う
見ての通り
この世は苦なのに
その苦の世界に子を宿そうとし
その為にも苦を受けている
なんとも虚しいものよ
今日も村人の返り討ちに遭った盗賊は
血まみれと砕ける骨の音を感じながらも
その女を憐れんだ
彼は釈迦に聞いてみた
「私は彼女に何を言ってやれるだろう?」とね
すると釈迦はこう伝えた
「その女性にこう言いなさい」
「俺は人を殺したことはない
あなたも苦しんだことはない」
その話を聞いた妊婦は苦を手放し
無事に出産をした
盗賊は悟りを開いた
諸説は色々あるが
まあそんなところ
さてあなたは何を悩んでいるのだろう
度合いの話ではないよ
あなたのいう「悩み」とは
単に世界の出来事だ
氷が水になる
雨が降る
蛙が跳ぶ
その風景がそこで起こっているだけのこと
あなたはただ見ている者なのだよ
この話に深く溶けてみなさい
問題は解決しようとしてはならない
そうではなく
流れに乗りなさい
思考は反発するだろう
意識をあなたから、全体へ
移すだけでいい
それで「本来」が流れだすだろう
ありがとうございます。
氷が水になるのを「苦しみ」と名付けた
雨が降るのを「問題」と呼んだ
膨れあがる心臓の感覚を「不安」として
「不安」は解決するものとした
それらはただの出来事で
よく見たらチカラを持っていなかった
流れに乗るとは出来事をただ観ているということですかね
でも怖い
ひたすら怖い
この自動反応が怖い
「解決しなければ非道いぞ」
思考の反発が激しいです
あきさん
もし何か行動を要するならば
それはそれに従うことだ
あなたのマインドが
それを止めていることとなる
だが行動を要しないならば
それに従うことだ
あなたのマインドが
単に焦らせていることになる
多くの場合
あなたの選り好みから
問題は起こる
つまり前者だ
単純な話だが
例えば今月末に支払いが必要だとする
だがそんな稼ぎはない
支払日が来るまで怯えるだろう
いま働く為に面接に行っても
給料日やら締め日やらを算段して
どうせ間に合わないと判断する
いろいろ考えているうちに
すべての気力を失っていく
よくあるパターンだ
誰もがこれを経験している
さて
給料日が後になるから間に合わない
これはマインドの算段だ
お金の動きならば確かにそうかもしれない
だがマインドが気付いていない「起こり」は
いまとは違う環境から生み出される
マインドはとても都合が良い
あらゆる解釈を
自らの都合にて変容する
あなたはそれに振り回されてきた
あなたの悩みが何かはわからないが
何事にも共通した、突破する法がある
自分をやめることだ
動きだしなさい
電話をしなさい
世界とは諸行無常
変化することが基本にある
あなた自身も世界のひとつ
常に変化することが
あなたに流れをもたらす
変化していることが
流れなのだよ
流れをとめるもの
それはエゴだ
つまり自分をやめなさい
あなたは誰でもない
過去の記録を捨てなさい
何もかもを捨てなさい
頭の中を空っぽにしなさい
動きだしなさい
タイミングはやってくる
そろそろ動かなきゃ、とあなたが思う時期がくる
5分後かもしれないし
来週かもしれない
あなたはそれを見逃してはならない
だからいまから自分を捨てなさい
流れに乗るために
準備を整えて
波を待ちなさい
ここ1カ月以上も停滞が続いているのですが
「観照を続けていればいつかは悟りに到達する」という
発想が依然として根付くあることに気づきました。
そうじゃない、それは既に達成されてるんだと
どんなに言われても聞く耳を持っていませんでした。
憎きエゴを倒すことに躍起になっていることが
かえって真実を遠ざけていたようです。
もう何もかも「辞める」ときに来ているのかもしれません。
ONEPOINTさん
もっと簡単なのだよ
街を歩いているときに
すれ違う人々の顔を観察しなさい
あなたは抵抗があるだろう
「変なやつに思われる」
「喧嘩を売られるかもしれない」
それでも観察しなさい
自分の奥底から
世界を「見る」ことをしなさい
「どう見られているのだろう?」ではなく
何が見えているか、だ
世界は「あなたの体験の場」であることを
忘れないようにしなさい
それが観照だよ
ただ「見る」ようにすればいいんですよね。
頭では分かっているのですが
何かを期待してしまっているようです。
ONEPOINTさん
世界に応答してみなさい
そのとき、あなたの意識は外ではなく
内側にある
つまり自分の目で世界を観ている
世界に応答しなさい
それがコツだ
人が話しているときは
話の内容を聞くのではなく
「話していること」に応答しなさい
自分さんいつもありがとうございます
質問があります
>あなたは最後の最後
つまり死の直前に気が付いてしまう
見てきたもの聞いてきたもの
そのすべてが私だったのだとね
だが死を目の前にして気が付くなんて
遅すぎるのだよ
涅槃の書の「旅の始まり」に書いてあった一節なんですが、肉体は死んでも本当の自分、意識の方は死なないんですよね?
じゃあなんで肉体の死を目前に気が付き、新しく産まれてくるときにはすべての記憶を消去して、すべてが私だったなんてことも忘れてこの世で生きようとするんですか?これじゃあ自ら望んでサムサーラに飛び込んでいくようなものじゃないですか
もしくはそういうことも含めて意味はなく、ただそういうものなんでしょうか?
ワモノさん
新しい手記に
あなたの知りたいことがあるかもしれない
あなたの話は
「生まれて始まり、死んで終わる」
それが前提となっている
その前提、つまりその理解の上では
あらゆる話がその色を通じてしまう
青いサングラスで風景を見ているようなもの
どれだけ赤いものがあっても青みがかる
いまはまだその観念があることを
自分で覚えておきなさい
どんな話を聞いても
その観念を通じた理解だけがある、
そのように覚えておきなさい
まず、人は死の直前に
人生の後悔をする
それはなぜかといえば
自分が体験してきたのではなく
体験がただ起こっていたと気が付くからだ
つまり、「何も恐れる必要もなかったし
好きなことをやれば良かった」だ
人は常に恐れている
だから一歩を踏み出せない
「常識外れ」のことをやりたがらない
その結果、不幸を人や社会のせいにし
自分ではどうにもならない運命だと決めてしまう
ある部分ではその通りだが
それは悲観的だ
つまり一生を通じて
人は不幸の世界にいる
それが死の直前
もう明日がこないとわかったときに気が付く
気が付くといっても
スピリチュアルのようなロジカルな気付きではなく
ただなんとなく
「もっと楽しめば良かったな、どうせこうなってるんだし」
そのような後悔の念が発端となる
大切な部分は「どうせこうなってるんだし」だ
すべては流れのままにある
あなたの年齢はわからないが
ある程度年を重ねている人は
人生は絶妙なタイミングで物事が起こってきたこと
それを知っている
だが理解まではいかない
なんとなく肌で覚えているような感じ
理屈でいえば
80歳の人が80年間、
たったの一日も衣食住を欠かさずに生きてきたのだ
そりゃドラマはあった
そのために努力もしてきた
だが衣食住においてすべてが成功してきた
それはどんな確率だろう?
練習を積んだたった一回のゲームですら
負ける可能性を含めているのに
80年間、連戦連勝だ
つまりそこまで深刻に生きてこなくとも
なんとでもなってきた、ということを
最後に気が付くのだよ
そして眠りにはいる
意識はそれ自体が自らの存在を認識しない
だから肉体が死んだら
いま得ている知識などは失われる
そもそも知識というものは
そのマインドが蓄積した観念でしかない
ただテレビの画面がそこにあるだけ
そしてまた新番組が映る
おぎゃあと産まれて
自分の思い通りにはならない理不尽を受けて
そしてまた同じように
恐れに満ちた人生を歩む
テレビはただそれを映し出している
それを何度も繰り返す
さて
ここまでは
あなたの理解に沿ったものだ
だが実際は上記の話は
ただの観念だ
いまあなたがそこで
生や死について考えている
ただそれがそこにあるのだよ
輪廻も観念だ
もちろん生も死も観念だ
あなたが本書で知り得た学びも観念だし
釈迦や悟りも観念
あなたの知っているものは
すべて観念となる
どうだろう
この話から悟れるかね?
我々はずっとプールの水中にいる
あらゆる物事や知識、観念、は
それをそのように見ているから
そのように見えているに過ぎない
だが、見ているというとき
あなたという個が起こる
意識は、あなたという個が起こらなければ
自らを観察できない
といっても、観察をする、という
そんな人間的な行為があるわけでもない
覚えておきなさい
「結果的」にそうなのだ
だからこの世は結果の世界
いまそこで完結している、となる
そこに新しい生命体が発見されたならば
構成要素があって
その生命体が構築されているのではなく
生命体にメスをいれたときに
結果としてその構成要素が起こる
それまでは未知だったのだ
未知なものは無だ
つまりなにもない
結果的に、それが起こる
あなたがいま生きている
それは結果
あなたが何かを疑問に思う
それも結果
疑問に思うから
その答えを見つける
それも結果
だが答えがあったわけではなく
疑問を作って
答えを見たから
そこに答えが起こった
世界はあなたの知っているものばかりだろう
すべてあなたの都合よく
何もかもがあるだろう?
それはすべてが
あなたの結果だからだよ
だからあなたの質問は
このコメントを生み出した
1+1=とあなたが求めて
あなたは2というコメントをここで見た
だから2がある
だがあなたがここで3と見たら
3がそこにある
なぜならば、あなたが3を見たからだ
この話で悟りなさい