幸福になることしかできない
思考とは何なのだろうか
それは一見有用な役割を演じる
だが結局は自然の法に逆らうための
ものでしかない
あなたを周囲から孤立させ
希望というエサを与え
「こっちが最短ルートだ」と
地獄へ案内するペテン師
思考とは未来と過去のことだ
それらなしに思考は存在できない
できない、というよりも
それ自体が思考なのだよ
あらゆるネガティブを覗いてごらん
必ず未来か過去に関係している
不安は「未来」に対するものであるし
怒りや憎しみは「過去」由来である
その未来と過去の隙間、
つまり「いま」には思考が介在しない
あなたにとって唯一の事実である、
「いまこの瞬間」には
ネガティブが存在しないということだ
苦は頭(思考)が生んだ妄想である
対して、体はすべてを受け入れている
受け入れているからこそ
大地を歩き、走り、
何かを持ってみたり
寒さに震えてみたりなど
純粋に世界と調和している
そこに痛みがあれば
それは「痛み」であり
それ以上のものではない
だが痛みを未来や過去に紐付けるとき
あなたに苦が起こる
もし痛みに思考的な解釈を一切せず
受け入れることができれば
それはエネルギーに変わる
喜びを感じさせるような眩い光になる
ヘトヘトに疲れているとき
その「疲れ」から理由や意味付けを
外してみなさい
そこにある「疲れ」に入ってみるのだ
すると肉体が、疲れをエネルギーとして
吸収していくのがわかる
身体にとって疲れは
エクスタシー以外のなにものでもない
最高の褒美なのだよ
つまり疲れとは
マインドの解釈のことであり
それすらも妄想なのだ
「いま」に於いて
人は決して不幸になることはできない
逆に、幸福になることしかできないのだ
あなたが明日のことや昨日のこと
そんなものを忘れて
目の前のことに没頭しているとき
それこそがハッピーなのだよ
幸福は掴むものではなく
真実以外のものを捨て去るときに
そこにあるのだ
Notes 充実感, 幸せになる, 幸福, 生命, 真実, 苦悩, 身体
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なんかしらんけど、ハッピーに過ごしました。
用事はいろいろあったのですが、道行く人々がなんでそんなに急いでいるのか不思議に思いました。
そして帰途について駅に降りた時、書き割りか、セットみたいだー!と、しばらく立ち止まって音や気配やらを感じていました。夕日の赤のせいもあって全てが舞台装置みたいに見えたのです。目の前でおしゃべりしている女子高生も、サラリーマンも、主婦も、老人も、柔らかで暖かみのある色彩の中で動いている。
身体が疲れて足が痛いことを味わいながら花屋に寄って、もう季節的にはおしまいの苗を買いました。店員さんともなにか話をしました。一歩一歩歩く足も周りの空気も音も湿度も何もかも楽しくて、今日何したんだっけ?と帰宅してから思い出そうとして初めて、そういえばたくさんの用事をして笑って過ごしたのだったなーと再現映像でも見るように想起されます。
今夜どうするか、明日どうするか、家族が帰ってきたらどんなふうに話をするか、などなど、そういうことも思考に浮かばないので安らぎの中にいます。
これは楽しいです。
自分さんからのコメントのお返事で、無意識を意識的に見るようになる、逆転の、というところを読みました。
すごいですね。そんな風に観るとき、もしかしたらわたしは始終微笑んで声を出さずに笑っているかもしれません。
愉快さん
例えばあなたの話を読んでいると
あなた自身を感じる
無論、あなたの話だからだ
だがこれはひとつの鍵が含まれている
つまり「あなたが体験していること」は
自分自身をあなたが観ているのだよ
夕日に染まる光景
女子高生、サラリーマン、主婦
その暖かい情景
すべてが「あなた」なのだ
繰り返すが
誰もがあなたのその話を聞いて、
「あなた」を感じるからだ
あなたも他者の話に
耳を傾けてみると良い
そこには彼があり
つまり彼は自分自身を
生きているのだとわかる
それを知らないのは
いつも当人だけなのだ
おはようございます。
>すべてが「あなた」なのだ
いまなにか思ったことがあって返信というところをタップしたら、数秒の間に「え?え?え?ちょい待って、わたしは一体どこにいるんだ?ここってどこだっけ?しっかりしないと頭働かせないと……」 と考え始めて、何を書こうとしたのか忘れちゃいました (笑)
>あなたも他者の話に
>耳を傾けてみると良い
>そこには彼があり
>つまり彼は自分自身を
>生きているのだとわかる
>それを知らないのは
>いつも当人だけなのだ
彼も、彼も、彼も…… いつもどこにでも居て、なにか口から発話していた。わたしは反射だけでそれに言葉を返していたような気がするけどなんでそうだったのか、思い出せません。
花も、プリントに書かれた文字、インク、紙、本も、鍋も、野菜も、いま手に持っているスマホも、わたしとの関係は愛です。
では、わたしは誰かの話を本当に「聴いて」みた事があったろうか。他の人間のことをどう捉えていたのだっけ。
最近、高齢の方から長時間黙って話を聞く場面がありました。その間、ふっとなんだかそのひとを愛おしく思って話の内容は後で思い出そうと思えば思い出せるけど、注意を向けていたのは別の何かだった気がします。
それから、タクシーに乗って運転手さんと話した場面を思い出すと、ほんとうに
>そこには彼があり
>つまり彼は自分自身を
>生きているのだとわかる
このとおりでした。
それぞれの運転手さん、全く別の人たちが「お見舞いですか?」と言ってなにか話し始めたときの情景を思い出すとほんとうに。
いま、換気扇、虫の声だけが聞こえます。静かな朝です。
家族が起きたら彼が彼自身の話をしている様子に注意を向けてみます。楽しみです。
ありがとうございました。
愉快さん
誰もが「いま」わかるのだ
死のときも同じ
それは何かといえば
自分が経験したこれまでのことは
「自分の経験だった」ということだ
人は他者や物など
外部に意識を置いた生き方をする
つまり内に意識が
向けられていないということ
だけども昨日までを思い出せば
すべては主観的なものだったことが判明する
そこに気が付くかどうかなのだよ
あなたは現実に少し遅れながらも
気が付いてきている
>家族が起きたら彼が彼自身の話をしている様子に>注意を向けてみます。楽しみです。
それを習慣にしなさい
好都合、不都合、幸運、理不尽、
それはすべて「自分の体験」であること、
他者はあなたのために存在しているということ
その理解をさらに深めていくことだ
そうであれば
やがてあなたの世界から
このブログは消える
あらゆるメッセージは消滅する
なぜならば
自分が自分自身に向けて送っていたものだと
理解するからだよ
おはようございます。
ご返信ありがとうございます。
家族と会話している時、後ろにあるものに意識を向けてみたら問題は問題ではなくなりました。
これを意識的にやり続けようと、その時思いました。
ところがそのあと、無意識の自動モードに戻りました。
疲れを取ろうと休んだはずがますます疲れる という数日間を過ごして、いま朝の光景を見ていたらまるで演者だけが深刻ぶっているコントを見ているような気持ちになって笑いが止まらなくなり、わたしは夢を見ているのだな、と思いました。
>もし痛みに思考的な解釈を一切せず
>受け入れることができれば
>それはエネルギーに変わる
思考的な解釈にどっぷり浸かって過ごすとどんなふうになるか。
これを自分の身体で実験したみたいな気がします。
寝ても疲れが取れないじゃないかと心の中で愚痴っていた数十分前。逆だ、と気づいた五分前。コメントを書いている今。
そういう場面を見ていました。全ては同時に起こっていることをなんとなく感じた。自分がDVDプレーヤーだという事も。
自分さんも、ここにコメントされている方々も、わたしかもしれない。わたしは誰に向かって喋っているのでしょう。ずっと独り言しか言ってないじゃないか。やはり、笑ってしまいます。
愉快さん
>まるで演者だけが深刻ぶっているコントを見ているような
よろしい
人生というドラマは
マインドが演じているに過ぎない
そこに気が付けば
あらゆるネガティブは葬られる
また希望や期待という「ネガティブ」も消える
ドラマを自由に観ることができる、
「あなた」という本質だけが残る
>自分さんも、ここにコメントされている方々も、
>わたしかもしれない。わたしは誰に向かって喋っているのでしょう。
何ら間違いはない
その通りだよ
あなたの体験するすべてが
あなたなのだ
自分に「私は誰か?」と聞いてみると良い
さらにあなたは笑うだろう
誰だわたしは?
と問うてみたら吹き出して、涙を流しながら大声で笑って、しばらく経ってから「知らんがな」という答え (ジョーク?) が思考から出てきたので更に笑いました。
クロノス的な時間概念は錯覚で、情報も物質も必要なときにあらわれるということを目の当たりにしました。今日の昼間、オレンジさんという方と自分さんのやり取りを読んで、ああ、わたしが書かなくても既に書いてある、と思いました。バスも電車も道路も樹木も……すべてがありました。問題などどこにもありませんでした。まやかしでした。
ありがとうございます。
愉快さん
そう、問題はどこにもない
世界はあなたの遊び場であり
すべての人々はあなたの子ども達だ
空気もいまあなたに触れている
ずっと包まれているのだよ
幸福になることしかできない
!!
なんて素敵なタイトル!
せいじさん
そう、つまり
あなたは素敵な存在だということだよ
人生はいつも輝いている
自分さん初めまして…。
いつも愛読させてもらってます。
自分自身は愛する人との死別や、
愛する人との離婚など、子供が自分の育て方の厳しさ持ってしまった確執もあります。
幸せってなんだろう…。
出会いもあれば、別れもある……。
出会いの為に別れが必要である。別れの為に出会いが必要である、
たぶん、そんなもんかも知れないと感じております。
幸せとは探してもみつからない…。
幸せとは気が付くものと感じております。
自分さん…。いつも皆に勇気や元気をありがとうございます。
みっちゃんさん
はじめまして
私たちの生きている世界とは
出来事の連続により成り立っている
出来事とは何かといえば
「生まれて消えていく」ことだ
歩道橋から往来する車の流れを
眺めているようなもの
あなたの視界には
一体どれだけの出来事が
過ぎていったのだろう
やって来ては
どこか彼方へ消えていく
追いかけることもできないし
目を背けることもできない
宇宙の巨大な循環に
すべてが飲み込まれていく
ただひとり、
自分だけがいつも取り残される
歩道橋から見下ろしたまま
ずっと立っている
事実はといえば
植物が成長するように
自然の法則が起きているだけなのだ
何度も何度も
同じことがサイクルする
あなたの肉体も同じ
爪や髪が伸びるように
その身体も滅んではまた再生する
だが人は流れに囚われてしまうから
そこにドラマを作り出してしまう
その空想世界の中に
幸福と不幸が起こる
「頭の世界」で人は四苦八苦を経験する
だがそれでいいのだよ
スピリチュアルは
そこから脱するものではない
「ドラマがそこにあること」を
知るためにあるのだ
出会いや別れ、人々との関わり
それらの「内容」に入り込まず
出来事があったことだけを
純粋に感じられるようになる
そのとき
愛だけが残る
あなたも対象も消え去り
すべてが愛で満たされるようになる
何を恐れるというのだろう?
何に嘆き悲しむというのだろう?
すべてはあなたの中にある
その真実こそが
あなたの探していたものだ
忙しいなか返信ありがとうございます…。
渦中の最中に居るときは、全てが闇のなかだと思ってます。
時がたち…。その渦を少し離れた場所から見れる自身もあります。感情と理性の分離なのでしょうか…。
物事には常に対極があると感じています。
喜びには悲しみ、真実には嘘、不条理には真理など…。
故に物事は常に+-0…。
全ては0に還る為に流れていると感じています。
0とは無、無とは本来あるべきものの愛の姿だと感じています。
大いなる循環に感謝です。
みっちゃんさん
人は現状から抜け出る自由ばかり求めるが
その現状の中に自由を見出さなければ
本当の自由は到来しない
苦悩があるとき
そこから目を背ける限り
ゼロにはならない
不幸も同じ
その「不幸」を身に纏うことで
不幸の中で自由が起こる
つまり不幸は消える
今日本当に恥をかきました。
私の名前はずーっと変わらないので、一生どこかで笑われているのではないかと思うと恥ずかしいです。
外にも出たくないです。
これでも過去や他人はないのでしょうか。
そう信じたいです。
さゆりさん
あなたが恥をかき
それを笑うのは「あなた」ではない
あなたが笑うとき
あなたは笑うのだよ
だから他人が笑ったとしても
それはあなたが笑っているのではない
この話が分かるかな?
あなたが「あなた」であれば良いのだよ
あなたは他人の誰かではない
あなたが見て
あなたが聞いて
あなたが歩くのだよ
だがいまのあなたは
誰かの視線で自分を見て
誰かが話していることを聞いて
どこかへ向かうために歩いている
そうではない
「誰か」や「どこか」は実在しない
誰かが話をしているのではなく
あなたが話を聞いているのだ
どこかへ向かうのではなく
あなたがそこへ向かっているのだ
常に主体的でありなさい
それがすべての幻想を見破るお守りとなる
今とっても疲れています。疲れと感情は別なんですね。疲れていても、幸せはいつもあるのですね。
口笛さん
肉体のレベルに意識を向けることだ
あなたが見たり触れたりするものは
すべて悟っている存在といえる
なぜなら、それはそれだからだ
だが「あなた」だけが違う
いつも様々な変化をしている
「明日のこと、過去のこと」
「これはどうしよう」
そんなときは確固たるリアルに向き合うことだ
つまり身体を感じなさい
あなたが何を悩もうが苦しもうが
心臓は鼓動を続け
呼吸はそこにあり
髪や爪は伸びていく
自然に溶け合うことだ
すると「疲れ」とは単なる解釈であり
それは循環のエネルギーだったことが
わかるようになる
涅槃さん、ご返信ありがとうございます。
勇気が出ました。
だけど、人間関係で救いようもない自分の醜い部分を発見してしまったらどうしたらいいのでしょうか。
ずっと胃が痛くて、死さえ考えてしまいます。
みんなに知られる本当に恥ずかしいことや、万が一ヒットラーレベルの罪を犯してしまったらどうなるのでしょうか。
これだけはいくら消したくても過去が消えないような気がします。
さゆりさん
あなたのそのように
過去に囚われる限り
当然「過去」は作られる
いいかい
これはポジティブシンキングでも
自己啓発でもない
あなたがその過去とやらを
「いま」作り出しているから
それが現象化するのだよ
すべて忘れてごらん
心からすっかり消し去るのだよ
たとえ誰かがその件について
話をしてきたとしても
あなたが忘れる方向にあれば
それは何の力も持たない
あなたの中に過去という材料が
少し残っているから
誰かが話してきたりするし
それに関係することが目に留まる
捨て続けることだ
世界はあなたの概念だ
そうして創り変えられる
他のことに目を向けなさい
新しい風を吹かせなさい
他者は実在しない
すべてあなたが生み出しているのだ
それを見破りなさい
昨夜は久しぶりにぐっすり眠れました。思考から離れて今の身体の感覚を感じると、疲れていても至福がそこにあるのがわかります。
身体が弱く疲れやすいタイプなのですが、これならどんな時も安らいでいられそうです。
口笛さん
よろしい
身体は「神」に最も近い扉だ
無論、神とはあなたのことであり
至福はいつもそこから降り注いでくる
エゴという闇を
意識の光で照らしなさい
いつでもその暖かい膝元に
帰ることができる
自分さん。はじめまして。
八方塞がりで苦痛まみれの数ヶ月前に、こちらに辿り着きました。
意味も分らないままただひたすら読み続けました。
現状は相変わらず酷い状態のままですが、少し不思議です。
「椅子に見られている」という瞑想をした時からです。
何かが自分の中に入って来て肩の力が抜けました。
とても心地良くて、言葉にするなら「愛」とか「幸せ」とかそんな感じです。
またすぐに元に戻ってしまうのですが…苦しくなる度に実践しています。
この状態にある時は、現実問題がどうでもいいように思えて来ます。
これが内側を灯すということなのでしょうか。
私は今足を痛めていて歩くのさえ苦痛になっていたのですが、
痛みを受け入れるとはどういうことなのでしょうか?
思考せずに痛みを感じるということでしょうか?
受け入れるということが良く分らないので教えていただきたいです。
宜しくお願いします。
はなこさん
はじめまして
生とは何かといえば
出来事を経験”できること”だ
だが多くの出来事の中で
人は慣れてしまい退屈が起こる
その退屈が
「もっと良いことがあればいいいのに」
「あの人は自分より良い思いをしている」
など、希望や絶望
そして自他の比較に陥っていく
そうして本来の「体験」は塞がれて
独り善がりの世界を形成する
つまり「外側」という檻に囚われてしまう
自分を固持するほど
意識は外に向いているということだ
なぜならあなたは実在せず
あなたが自分と思っているものは
外側の集積であるからだよ
だから意識を内側に向ける、とは
そうしたエゴの消滅を意味する
体験は純粋な体験として起こり
そこに解釈は消える
>私は今足を痛めていて歩くのさえ苦痛になっていたのですが、
>痛みを受け入れるとはどういうことなのでしょうか?
>思考せずに痛みを感じるということでしょうか?
まず治療が可能ならば
それを続けることだ
その体験を眺めていなさい
痛みというのは
「痛み」以外の何でもない
だが痛みから、理不尽ごとに転化するから
人は痛み=苦悩となる
受け入れるというのは
苦悩を作らないということ
すなわち、痛みの中に入り
痛みと溶け合い
痛みをそのままに知ることにある
あなたが意識的な暮らしを深めていくと
「痛み」すら体験なのだとわかるときがくる
その自覚のうえで
痛みととも暮らし
痛みを治療していくことだ
それは苦悩ではない
苦悩ではないことを悟ることが
「それを受け入れる」だよ
身体が疲れて横になっていたら、疲れが取れた。疲れだけにフォーカスするから疲れるが、身体機能には疲れと同時に回復もある。
おなじ回復にフォーカスすれば、心地よい
鯤さん
>疲れだけにフォーカスするから疲れるが、
>身体機能には疲れと同時に回復もある。
>おなじ回復にフォーカスすれば、心地よい
良いコメントだ
ありがとう
「疲れ」とはマインドが関わっている表現であり
だが医学でいう「身体機能」とは
「身体を感じること」の別表現だ
>おなじ回復にフォーカスすれば、心地よい
「疲れ」には対極する「非疲れ」がある
これはマインドと身体という二元対立
その天秤をひとつに見据えるとき
ヒーリングだけが残る
つまり身体にとって「疲れ」とは
癒やしを意味する
それらはエネルギーの循環であり
常に身体は喜んでいるのだ
マインドが起こす天秤の傾きには
あなたの通り、
対極を観ることでイーブンとなる
その均衡点が超越となる
お久しぶりです
先日唐突に気がついて腑に落ちたのですが、僕が僕と思ってた思考は良いも悪いもなく五感付きの映画(人生)の実況者なんだと気づきました
スピリチュアルに手を出してからどうしてもどこか思考を敵視したり、疎ましく感じてしまってたのですが何とも他愛ないモノだと納得して安心しました
気分の良し悪しで実況者が稲川淳二になったり明石家さんまになったりしてるだけなんだな、みたいな感じです
うまく言語化できないけどそんな可愛らしいものと感じました
多分これが僕なりの感じ方、腑に落ち方なんだと思います
テレビの実況者が何を言っても僕本体は楽しいだけ、みたいなと言いましょうか
それ以後思考の変な癖がとれて快適ですし、観察対象が思考から肉体に移った結果、会話も含めた僕の肉体はいつも万事順調に全てに対応してるなと関心しました
まったくもってお陰様です、楽しいです、ありがとうございます
長文失礼しました
ps
先日のナンパはコンビニでジュースを買う簡単さと、ディズニーランドの楽しさで成功しました
世界と繋がってれば何事も全部こんな感じで可能なんだろうなと思いました(笑)
あの時の覚醒者さん
>気分の良し悪しで実況者が稲川淳二になったり
>明石家さんまになったりしてるだけなんだな、みたいな感じです
実によろしい
さらにいえば、あなたの知るメディアの彼らも
あなたが認識している時点で
それはあなたなのだよ
あなたの中で様々な演者がいるが
そうした各演者の定義すら
あなたの一面を意味している
だから堂々巡りで
すべてあなたがあなたを観ている、となる
ナンパの世界も同じ
そこで映し出された光景は
あなたの一面だ
好奇心もあれば不安もある
そうして自分自身を体験している
だが「外側」に囚われるとき
つまり、自分の一面だけに囚われ
それを吸収する力を失っているとき
あなたは現実に翻弄される
あなた自身に迷わされる
だから体験と体験者はワンセットであること
それを理解しているとき、
>先日のナンパはコンビニでジュースを買う簡単さと、
>ディズニーランドの楽しさで成功しました
>世界と繋がってれば何事も全部こんな感じで
>可能なんだろうなと思いました(笑)
その通りとなる
難しいことは何もなく
ただ感じたままに応答するだけで良いのだ
お返事ありがとうございます。
何故かわかりませんが、
お返事コメントを読んで涙が溢れました。
何となく何処かで気付いていたように思えます。
痛みは苦悩ではないのですね。
歩行時にどうしても痛みが走るため、
仕事にも影響していて苦痛に思っていました。
今後は痛みは痛み。それ以上でも以下でもない。
と捉えながら、治療も続けていきたいと思います。
今日少し不思議なことがありました。
身体に意識を向けながらお米をといでいたら、
自分の手がまるで自分のものではないように見えました。
何だか恐いと感じたらすぐに元の視界に戻りましたけど。
私が見ているものは本当にそうなのだろうか。
ちょっと疑問に感じました。
まだ眺めるという感覚がよく分りませんが、
身体に意識を向けることから癖付けていきたいと思います。
瞑想をしていると、時々わけもなく楽しい気持ちになります。
思考が止むだけで人は幸せな気持ちになれるのですね。
ありがとうございます。
はなこさん
>身体に意識を向けながらお米をといでいたら、
>自分の手がまるで自分のものではないように見えました。
>何だか恐いと感じたらすぐに元の視界に戻りましたけど。
それが「いま」という境地だ
あなたの質問している「眺める」のこと
その体はあなたが動かしているのでは
ないのだよ
私も料理をするがね、
キッチンは最高の瞑想場となる
また「思考が静止」したとき
それを少しずつ伸ばせるよう
コツを掴んでみることだ
あなたが怖いとしたならば
思考が動いたということだ
だから何もせず
体が動いている様子に入りなさい