自己管理の法 こぼれ話

自己管理の法が連載中だ
このシリーズについてよくメールを頂くのだが
本書での位置付けとしては「レベル1」としている


スピリチュアルの話は抽象概念の世界だから
聞き手の捉え方でその性質が変化するのだよ
まあその様子自体が幻想世界を象徴しているのだがね


すべてを包括した視野から観れば
物質世界も精神世界もすべて意識だ
だからハズレもアタリだと私は言う


だが多くの人は


「ハズレじゃ嫌だ、アタリがいい」
「孤独は嫌だ、恋愛したい」
「貧乏は嫌だ、金持ちになりたい」


と言う


ハズレも孤独も貧乏も
アタリも恋愛も金持ちも
すべてその「意識世界の中で起こっている夢」
これを理解しているか否かで
当然読み方は変わる


一部の読者は
「なんでこんなシリーズを続けてるのですか」と
疑問視する
現実を現実として植え付けるだけじゃないのかと
そういう主張のようだ


無論、このレベルからでないと
理解の糸口を掴めない読者が多いから
シリーズが続いているようだが、
逆にいえば疑問視しているという時点」で
物事に価値観を与えて捉えているということだ


つまり現実を現実として強化しているのは
疑問を持っている読者の方である

拈華微笑


例えばどこかの覚者と言われる人が
横領などの詐欺で告発されたとする
その弟子たちは「裏切られた」と言い出す

もし弟子の中に、
世界という幻想を眺めている境地
到達している者がいたならば
出来事に意味を与えることはない
つまり覚者がどうであろうと
それ自体を自らが生み出している
ということに気が付くのだ


これが釈迦の「拈華微笑」だ
もし彼がペテンだったとしたら
多くの信者は離れるだろう
いつもの講話もなく
ただ花を掲げる釈迦に
「これはどんな深い意味があるのだ」と
ざわめく弟子たち

何の意味もないのだよ

意味は己が作っている幻想なのだ、
つまり「釈迦」とは自分なのだと
マハーカーシャパはそれに気が付いた

仏教徒は死後に法名をつける
釈迦を意味する「釈」という文字を入れるが
それは釈迦の弟子だからという意味ではない
あなたが観てきたものが
あなただったのだよ、
つまりあなたの愛したお釈迦さんとは
あなた自身だったのだよ、ということだ


すべての物事に意味はなく
ハズレもアタリであり
己がカテゴライズしていることが
この生きている世界を作っているのだとね


すべてが最高のものなのだよ
何かの逸話であったように
「この店で一番上等の品をくれ」
「うちの商品はすべて一級品ですよ」だ


すべて一級品
だがその価値を決めてしまうのは、あなた


だから「あなたがそうならば、そうなのだ」となる

因縁生起


涅槃の書の冒頭に
「このブログを書いているのはあなただよ」と
しているのはそういうことだ
受取手がこの記述を作っている
それは抽象的な表現ではなく事実なのだよ


私は何もしていない
ただパソコンのキーが押されたり
何か文章を書いているという
そんな「起こっている様子」を眺めているだけだ


それがなぜ起こるかといえば
このブログを
読もうとする者の作り出しているストリームに
私は乗っているからだ


すべてはリンクする
あなたの今日一日の行動は
別の何かの流れから起こる


これが因縁生起、
2500年前に釈迦はそういう諸々に気が付いた
だがその「気付き」も流れのままに起こっただけだ
だから彼が特別凄いだとか
そういう話ではない


いま私がこういう知識を語るために
わざわざ2500年前に彼に起こったのだ
私の観ている世界からは、そういうことになる


そして私がこのようなことを話していることを
観ているあなたの世界がある

すべてはそのように繋がるのだよ

これが「ワンネス」だ

だがそれらに意味を付ける、区別する、
そうしてあなたの世界が確固なものとなること
それが「分離」だ
まあそのままだね

学校の先生


学校で先生があなたに勉強を教える

あなたから観れば
その先生という存在は「あなたに教えるためだけに」
その人生を歩んできたのだ
何曜日の何時間目の授業
あなたの一生のその数千分の1の時間帯
そのためだけに彼は生きてきた

あなたからすればそうなる

すべては主観的なものだ

だがあなたが先生という存在に人格を与えてしまう、

つまり意味を与えてしまうと
たちまちループにハマり出してしまう

「彼は人間だ、生活や考え方がある

そうだ、私も人間だ」

妄想が妄想を生み出していく

そうして他者や社会と自分自身の比較が生まれ
あなたはアイデンティティを形成してしまうのだ

あなたが関わっている時以外の先生を

あなたは知らないのだよ
いまそこにないものとは
すべて「ない」のだ
つまりあなたが経験していることだけが真実であり
このブログを読んでいることが真実だ
だけども、これを書いている私は
あなたのリアルではない

あなたは
「これを読んでいる、ということは
書いている人がいる」と関連付けてしまう

そうじゃなく
「あなたが読んでいることだけ」があるのだ
だから常に「いま」しかないのだよ

あなたの「いま」の為に
あなたの知らないところで流れが起きた
つまり私の側の主観世界
だがそれはあなたにとって真実ではないことだ
あなたが意味付けをしない限りはね

この文章のように「あなた」だとか「私」だとか
そういう書き方が分離そのものだ
そうではなく「流れ」で全部繋がっていること
それを理解しなさい

流れとは本書でよく伝えている
「循環」のことだ

買い物に出掛けると?


混乱するかもしれないが

私が「疑問視していること自体が〜」や
「このレベルからでないと糸口が掴めない読者が〜」など
そう書いていることも
「流れ」が私に起こっているだけであり
あなたがそれを読むために起こった真実だ

だが私が主張を交えて書いていれば
私は不幸の渦に堕ちる
だから私は起こるがままに任せている
私に起こることのすべては
必ず「何かの真実」だということを
私は知っているからだ

勘違いしてはならないが
「真実」とは書いている内容のことではなく
起きた流れがどこかの景色として
浮かび上がるということだ
内容とは「意味付け」であるから
そこを覗き込むと主張や解釈しか見えなくなってしまう

あなたが今日出掛けて買い物に行ったとする
あなたは「何かを買う」という能動的な名目で
行動したつもりでいるが
実際その流れが起きたのは
買い物する店のレジ係の日常の一部に出現する為
それが「真実」である
あなたの「目的」は内容だ

だからいいかい
あなたが何かを求めて生きても必ず空しくなるのは
そういうことだ

そうじゃなく
遊園地なり、デートなりでは
あなたの主張を押し通すのではなく
そこに「参加」している気持ちでいなさい

実際のところ社会というのは自己主張の場ではなく
参加をするところだ
ひとつの大きな流れ、つまりワンネスに溶ける
そのためのものだよ

あなたが人生がうまくいかないと嘆くのは
自己主張をするからだよ
自分をもっと溶かして
そこに「参加」しなさい
それまで感じられなかったような
幸せな気持ちになれるだろう

異才のアーティストを「異才」と
賞賛するのは周囲の人であり本人ではない
本人が異才であろうとすればするほど
その輝きは失せていく

可愛い彼女であるとするのは彼氏の方だ
決してあなたではない
あなたが可愛い彼女であろうとするほど
彼氏の瞳には別の女性が映っている

だからごく当たり前にそこにいればいいのだよ
自己主張をすることなく、流れるがままに在る
それが幸せの秘訣であり最良の結果になる

あなた個人という小さな存在ではなく
大きな流れという中にいるからだ
だから「参加」なのだよ

流れるように生きていく


話は戻るが
「疑問視」という主張をする読者も
その流れがあっただけであり、
その彼の話を聞いて
「疑問視している読者」とする私の見解ですらも
単に起きた流れだ

結局はすべて起こるべくして起こっているだけであり

何かを何かであると決めつけることが不幸の種となる

だからあなたの失敗や後悔なども

それらは起こるべくして起きたことであり
自分を責めるものではない
そうあることで何かが流れているのだ

だから流れを認めることだよ

あなたは不幸ではないし
そして幸福でもない
ただ流れのままにそこにいるのだ
全体の幸せに加わることだ

本書は文章であるから
主客の関係性は含める必要がある
そうでないと
あなたが読みたい文章にならないのだろう
私の指はそのように書いているようだ

もし私が私という主張を掲げるとき

「私は一体だれにこれを書いているのだろう」となる
それを突き詰めれば「自分探し」とかいう罠に落ちる
自分とは影なのだよ
物事と物事の隙間に生じる影
起こっている流れがあり
その影が己だ
だから己を追求するということは
影を掴もうとすることと同じ
決して掴むことはできない

それはあなたの生活も同じことだ

だから個人としての己はいらないのだよ
それがある限り、
あなたは起こる出来事を認めることはできない
つまり委ねることができない

何かにつけ「これはきっとこうだ」と

意味付けをし続ける限り
あなたは輪廻の出口を抜けることができない

大切なのは
起こる出来事をカテゴライズしないことだ
すべてあなたの思い出なのだからね


さて最後に加えておくが
私はこの書を続けるつもりで
まったく書いていない
勝手に書かれていくのだよ

あなたも商売をするなり
恋愛をするなり
何をするにしても
流れに任せなさい

あなたが躍起になって
予測して計算して鞭を打って
努力をするものじゃない
それが逆に仇になる

川に流されるのだ
藻掻けば沈むから
何もしないのだよ
そうすれば体は勝手に浮き出し
そして流れていく


もう一度最初から読み返してみなさい
また違う理解になっているだろう


Notes, タオ, マインドハック

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  1. Fumi より:

    こんにちは。

    この記事を読んで、いかに言葉に縛られているか、やっと納得できました。
    幸も不幸も、善も悪も、正も誤も、全ては観念で主観ですね。
    こんな色眼鏡は外して、ありのままを見ることにします。

    • 涅槃の書-自分 より:

      Fumiさん

      やあこんにちは。

      >幸も不幸も、善も悪も、正も誤も、全ては観念で主観ですね。こんな色眼鏡は外して、ありのままを見ることにします。

      その通りだ。それは言いかえれみれば、あなた自身が幸福や善や真実を創り出せるということでもある。

      だから大事なのは自分自身に規律をつくること、ポリシーというやつだね。その規律に従って生きることだ。

      あなたにとって、優しさとはなんだろう?
      あなたにとって、思いやりとはなんだろう?

      たとえ誰かに笑われても、馬鹿にされても、誰にも認められなくとも、あなたが己の規律に従って生きるなら、外野の意見はあなたに何の影響も及ぼさない。

      自律的であること、すなわち”己自身”を生き始めるとき現実世界も変わりはじめる。なぜなら、この世とはあなたの信じている通りに現れているからだ。

      忌み嫌うものを生み出して、自らでそれを避けているのである。

      ゆえにすべての創造主であるあなたが、自らで安らぎ、自らを癒し、そうして自らを拠り所に生きることによって、揺れ惑う世界は消え去っていく。

    • Fumi より:

      ご返信ありがとうございます。

      >規律に従って生きることだ。

      以前でしたら、この言葉を聞くと「とりあえず健康的な生活をすればいいのかな」程度の解釈でした。
      でも、今ならこの言葉を本当の意味で理解できている気がします。
      何の意味もない世界は真っ白なキャンバスと同じで、そこに自分で好きに色づけしていけばいい・・・、こんなに楽しいことはありませんね。

      まだまだ自我に囚われてしまうことはありますが、少しずつ自分の世界を創っていきます。
      こんな素敵なことに気づかせてくれた自分さんに感謝です。

    • 涅槃の書-自分 より:

      Fumiさん

      >何の意味もない世界は真っ白なキャンバスと同じで、そこに自分で好きに色づけしていけばいい・・・、こんなに楽しいことはありませんね。

      その通り。”真実”とは己の望みのことだ。この世はあなただけが体験しているものだからだね。

      だから真実が”言えない”のは、自分で自分がコントロールできないときにある。物事や他者の言動に支配されて、その反動としての意味を探し求めているとき、あなたは真実を見失う。

      だから自分がまだ足りないからだとか、利口でないからだとか、そうなのではない。

      むしろ物事や他者に反応する己が”足りて”しまったり、要領よく立ち回っているだけであるのは、”真実”からより遠退いていることになる。

      その意味で、真実を語ることができるのは「すでに真実のなかにいる者だけ」となる。

      そのためには己を偽る世界から抜け出さなければならない。

      だがそれは他人に言い放題になることでも、わがままを押し通すことでもない。それもまた反動にすぎないからね。

      ゆえにあなた自身、己が何を望むのかをまず見つけることだ。そしてその望みの通りに生きること。

      それが「キャンバスに描く」ということだね。

  2. shiy より:

    個別の窓から見える風景は多彩で

    カラフル♪

    思い出がまた出来たね♪

コメント・質疑応答

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