哲学書の読み方

最近寄せられるメールをみていると
スピリチュアルや宗教に加えて
歴史や哲学に関心が出てきている人たちが増えてる

もちろんよいことだが
そこで少し書いておきたいのだけども

たとえば科学的な専門分野は
問いに対する「答え」が書いてある

ここでいう科学とは高度な物理学もそうだし
経済、政治などの”現在的”な理論やテクノロジー関連
また体の機能や医療などに関することもそう

それらは分析の結果に
ちゃんと辻褄の合う答えが述べられている

当然その答えを理解するために学ぶわけで
そして誰にも答えが共通であるがゆえに
たとえば試験や国家資格の指標として掲げられたりする

 

1

ところがそうした科学的な知見というのは
その時々の人間の認識の結果であるがゆえに
少し時代が進めば別の答えに変わったりするもので

つまりそれまで真実だとされていたことが
新しい発見や解釈によって変わるわけだ

特に経済や特定分野における技術や知識などは
いつの間にか古いものになっていて
それに寄りかかっていたがために
それを基盤にしていたことへの支障が出たり
また新しい変化に対して意固地になってしまったり

そしてそれゆえに
常に追いつかねばならないといった不安や焦りや
そんなことを気にしなければならない怒りや虚しさに
見舞われたりする

歴史を学ぶというのは
まさにそういった人間の紆余曲折する地上世界を
“上空から知る”ということだが

つまりいま開いている歴史書のページが
古代であれ中世であれ
人間世界の移り変わりを知ることは
いま自分が置かれている状況そのものもまた
俯瞰できる眼差しが備わるということにある

 

2

哲学も同様に
“地表での答え”を知るものではない

哲学とは単なる知識ではなく
それを道具として思考するものにあるからだ

だから技術書や辞典などとは
違う読み方をしなければならないのだけども

ところが大半の人は哲学を学ぶということが
まるで物覚えを競い合うがための要素としてしか
捉えられていなかったりする

これは学校の授業がプラトンやカントを
テストの採点のためだけに利用してきた弊害であり
それは要するに哲学の授業が
まったく哲学的でなかったわけだが

だから哲学が答えあってのものとして
理解されてしまっていることから
まずは離れなければならない

言いかえれば
哲学書のどこを開いても幸せになる方法が
書かれているのではないんだ

もしそれっぽいことが書いてあるなら
それはその著者の幸福観アプローチであり
その真似をしたところでなんにもならず
つまりその著者の視点を参考(道具)にして
独自の幸せを見出さねばならない

だが結局はそうしてるんじゃないかな

 

3

つまり哲学が思考の道具であるということは
あなたの人生に役立てるものだということ

あなたが何らかの目的や理想を掲げたとき
図工や料理をするときのハサミやフライパンと同じく
その補助をしてくれる

もちろんなかには
とても考え抜かれた優れた道具もあって
有名な哲学者というのは
そうした道具の発明家だといえる

だが繰り返すようにそれは答えではない

つまり道具に縛り付けられてしまうのは
そのハサミやそのフライパンから
創り出せるものを探している様子にあり
その成果はとても限定されたものとなるだろう

そうではなくて
あなたの創るものがまずはじめにあって
そのひと手間を便利にしてくれたり
明晰にそのことを見通したりするために
それらの哲学があるんだ

 

4

たとえば科学の知識や理解が
生活に役立つことは知ってるだろう

実際図形を測るのも
料理の加熱やタイミングをみるのも
科学的な答えに依拠したものだ

だがそれらは
現代の高度に積み立てられた塔のように
直感的な自然現象から隔たれたものではないゆえに

つまりたとえ空間や熱力学の”解釈”が移り変わっても
夏場の車内が高温になること自体は変わらないから
日陰が続きそうな場所に停めたり
サンシェードをフロントガラスに置いたり
そうした予測を立てることができる

だがより高次なレベルでの科学的整合は
話したようにその一時期は保たれても
すぐに役に立たなくなったりする

身近な生活に関わることなら
経済理論にしても
テレビで著名学者が言ってたことに従ったのに
大きな損失をしたり
述べてた予想図と全然違う社会状況に
なってるじゃないかとか

またウイルスなどの感染や免疫
その波及する影響にしても
“正解”が刻々と変化するがゆえに

その時々の政府やメディアの話を
鵜呑みにしてしまうと
ときにいろんな荷物を背負ってしまうことになる

ここで言ってるのは
それが間違いかどうかのことではないから注意しよう

正しいか間違いかはその時々の”答え”であるからね

そうではなくて判断の基準が
その移ろいやすいものを基準にしていたこと
気づかねばならないということであって
だから他のどんなこと
(投資や高額なローン契約、恋愛や結婚観など)も
同じにある

先にも話したように
こうしたことを先回りして
冷静に見つめることができるのが
歴史を学ぶということであり

少なくとも近視眼的で何もみえていないよりは
判断や選択のゆとりは広がるだろう

なぜなら人類は似たようなことを
何度も繰り返して
やはり同じように情報や感情に振り回されて
似たような顛末を経験してきたわけで

そうした高層を行き交う移ろいやすい情報ではなく
先の高温の車内のように
実際的な自然そのものに足を下ろして
むしろ本当の意味での”正しい答え”で
世の中の動きをみつめることができるということだ

もちろん個人的な窮地に陥ったときも
先人たちがどのようにそれを耐え
そして乗り越えてきたかその手引きを教えてくれる

 

5

そして哲学は
現実という素材を自在に加工できる道具であり

たとえばソクラテスのように
「死もまた善きこと」と
毅然とした態度で死に向き合う生き方は
生をより鮮明なものにしてくれるだろうし

また現代の思想家や哲学者たちの
様々な見識を学んでみれば
どういう仕組みで人間の世界が動いているのかが
さらに高い次元から明確になる

ではその理解において
どのような道具を手にすることができるだろうか?

それはたとえばこの競争社会のなかで
「いかに上位に立って勝ちパターンを見つけるか」
ということではないはずだ

それはビジネス書など
“現在的な答え”が述べられている本の内容にある

むしろその移ろいゆく答えによって
一時の成功は結局は負担になるということを
あなたは学んでいるがゆえに

つまりその逆で世の中を正しく知るからこそ
「いかにそこに巻き込まれないようにするか」を
考えるようになるだろう

その渦中のなかでの勝った負けたが
生のすべてになってしまっている”自分”という
盲目性にメスを入れるということだ

そして時代や現在という”表面的な均衡”が
より奥深い調和のごく浅い一面として
脆く現れているのだと気づくようになる

するとその奥深い調和にこそ
己の生の基盤を見出すだろう

それに伴って
じゃあ実生活をどのように営んでいこうかと
ゼロから再設計するようになるわけで

そのときこそ
科学的なその時々の答えをうまく使えばいいんだよ

“この時代”、”この現在”の答えなのだからね

 

6

つまり哲学書や思想書の”使い方”というのは
現在的な答えを求める科学の読み方をしてる限りは
みえてこないのであって
それはまたスピリチュアルや宗教も同じであること

その意味で文系や文化遺産が
どんどん隅に追いやられていく昨今の現状を
あやぶむ声が多いわけで
意図的であるかどうかは別として
世の状況にただ翻弄されているだけの人々
増える一方となる

たとえば上で人の幸福を真似ても
本当の幸福にはならないと話したけども
ところが自らで幸福を見出すことを知らず
人と同じようであるのが自分の幸福であるのだと
思い込んでいる人たちがすでに大勢いる

それはとても不幸なことだろう

もちろん学科としては
経済なんかは本来は文系の枠組みだけども
しかしもはやアダムスミスに由来する
社会や倫理の思想というより
数値や統計学としての実証科学であるわけで

つまり経済は人間の意思が介入するから文系である
という認識が失われて
むしろ数値として人間を動かすシステムとしてのみ
捉えられている様子にある

こうしたことから
“文化”がたとえ数値的な利益を産み出さなくても
なぜ大事なのかがみえてくるわけで

そして現状があやぶまれるところの
根本にあるものなんだね

だからまずはあなた自身

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