クロスワードの逆順

人生は偶然の連続であり、なにかをはじめるとき、それが幸せになるか不幸になるか、成功するか失敗するかは事前にはわからない。

だけども幸福な人たちがいる。彼らは総じて「人生うまくいってるよ」と語るわけだが、この”誰にも等しい偶然の世界なか”で、その人たちはどうして平穏でいられるのだろうか。

それにはまず山中で川が流れているところをイメージしてみよう。

川は山の高いところから低いところへ流れていく。

この流れは”必然“だね。いまあなたが物を手から離してみれば床に落ちるのと同じ。

ではこの「必然的な流れ」である川の水面に、いろんな幻想が映っている様子を想像してみようか。

いわば水面は映画のスクリーンみたいなもので、そこには人間ドラマやお金の苦労なんかの物語が放映されている。

そうした人間関係や日々のドラマは必然ではなく、まるでサイコロを振って良し悪しが決まるように”偶然“の連続によって描かれていく。

テレビをつけてみれば驚くニュースが報じられたり、5分後に起こることさえ予測することができなかったり、良かれと思ってしたことが裏目に出たり、その逆もあったりする。

そしてまた「豊かに成功する道筋」などまったくみえないわけで、人生は常に暗闇のなかを手探りしている様子にある。

 

不変の法則

そんなわけだから、あなたは神頼みをしたり、スピリチュアルや占いなど「みえないものをみる方法論」を模索しているわけだ。

しかしその「みえないもの」とはなんだろう?

それはもちろん、人間関係や日々の苦悩の”解決”の道筋であり、豊かに成功する”光の道”のことだろう。

たしかに普段みえないその道をみることができるならば、あなたは安心できるだろうし、どんなことも純粋に楽しめるようになる。

言いかえれば、みえる世界が本当に愉快になるのは、みえない世界をそこにみているからなんだ。

聴こえるメロディは美しいけども、聴こえないメロディはもっと美しい。

その「うまく流れていける道」とは、まさに宇宙の不変の法則を発見することであり、つまり必然をみつけるということにある。

 

必然と偶然

ここで冒頭の例えに戻ろう。

流れる川の水面は映画のスクリーンのようにいろんなドラマを映し出している。

そのドラマは”偶然の連続”で展開しているようにみえる。

出会いも出来事もまったく予測ができないし、まさか5分後にコップを落として割ってしまうなんて思いもしなかった。仲の良かったあの人と些細なことで喧嘩に発展してしまったとしたら、どうしてあんなつまらないことを自分は口走ったのだろうかと疑問する。

商売をはじめてみるも、それが成功するか失敗するかはわからない。営業に関わるあらゆるすべてが”偶然”の産物であり、なにをどのようにすれば失敗しないかなんて、たしかに統計や先人の教えなんかで学ぶことはできるけども、しかし確実ではない。

だけどもコンビニで100円を支払えば確実に財布から100円が減る。それは”必然”である。

だが商売で100円が入ってくるかどうかは必然ではない。

そのようにして、流れる川(必然)の水面に、人生というドラマ(偶然)の世界が出現しているわけだ。

 

現実上に点在する必然

もちろんコンビニで100円払ったり、コップが落ちて割れたり、それらの光景もスクリーンに映っているものだけども、しかしそうした”自然法則”は流れる川をダイレクトに表現したものだといえる。

そもそも山中に流れる川もそうだね。

今回はそれは話の糸口にするから特別な役目を与えているけども、だがそうして宇宙や流れといった”自然なもの”さえも、また神や波動といった概念にしても、すべてスクリーンに映った映像にある。

だから”映像しか知らない己”にとって、そうしたダイレクトな必然をみるとき、つまりそのようにわかりやすい”必然”を見出すことは、宇宙の不変の法則をつかむ基本にある。

他人に暴言を吐けば嫌われたり、はじめは違和感があることでも毎日繰り返しているうちにやがて当たり前の習慣になっていたりすることも、”必然”がそのまま現れている。

商売ではなく、会社勤めならば働いた分の給料が支給されるだろう。それもまた必然的な現れだ。毎日が過ぎていくこと自体も必然の現れにある。

そうした”見かけ”の向こうに真に流れているもの(必然の流れ)を感得することが大事だということであり、だからその意味でいえば、占星術や風水術、また”数”というのは、まさにその直接性自体に秘められた効力があるわけだ。

だが問題は、どうみても偶然の連続としか思えない人生の大部分について、いったいどうやって「光の道(一方向に安定して流れているもの)」を見定めるかということだね。

 

ニュースと耳かき

そのためには、ここまでの話からもわかるように、”逆向け”にアプローチできることに気づかなければならない。

つまり「偶然の世界」に巻き込まれている内側から必然の筋道(光の道)を探そうとするのではなく、そもそも必然の流れの上に偶然の世界が現れているのだと気づいているからこそ、偶然の世界が”見かけ”にすぎないとわかるんだ。

そしてこの”見かけ”の見え方そのものに、現実が偶然の集まりにしか思えない”最大の原因”がある。

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