思い込みの世界と振り子

すべては思い込み

前回記したように、いまそこで手にしているiPhoneはそう思い込んでいるから、iPhoneなのであり実際はただの鉱石である。動物が言葉を話すことができたとして、スマートフォンを見せて「これは何?」と聞いてみよう。

「これが何だって?どう見ても石だよ」「石にしか見えない」と答えるだろう。そしてどこかの天才が「この地球はアイデアの宝庫だ」と、つまらない人生のあなたの隣で興奮している。

あなたのいま見てる世界はなんだ?そこには本当にテーブルやキッチンがあるのかね?服を着て靴を履いて、車の往来する道路を歩いているのかね?完全な思い込みの世界、つまり観念の中であなたは生きている。

今日一日の予定すらそうだ。会社?学校?美容室?それらは一体なんなのだろう?だがそれが何であるかを探してしまうと、真実はまた隠される。鉱石がスマホとなるようにね。

水の中にいる

すべての観念が崩壊すると、あらゆる前提が思い込みだったことがわかる。身体的な特徴も、肉体的な経験ですらもね。つまり「歩いている」ということすら観念であり、私たちは何かを見たり触れたりなどしたこともなく、一歩も動いたこともなかったのだ。

何もかもが思い込みにより”そう見えていた”だけであり、それがその世界、人生、そしてあなたである。表現するなら、ずっと水の中にいる「水」だ。水が起こす空想の世界を水中にて水自身が観ている。水は水を認識しないからそこには何もなく、ただ己自身が満たされていたのだよ。

逆向きに解釈してみる

一旦無や空の境地を知れば、今度はあらゆるものを作り出せるようになる。つまりいまそこで幸せな人になれる。世界は観念、つまりあなたのコンセプト通りにできているわけで、「それは○○だ」と見立てればそれはそうなるのだ。

同じ世界を生きているようで、人々は全く違う世界にいる。あなたの世界に登場する他者も、あなたの観念だから実在はしない。iPhoneも実在しない。先の表現で言えば「満たされた水」のひとつの空想が、あなたの世界観となる。

書棚に並べられた一冊の本。同じ場所にありながらどれも内容が違う。だがすべては書棚というひとつの場所にあり、材質も同じ。紙にインクがのっているだけということも同じ。文字を理解できない者からすれば、やはり全部同じ。虫などからすれば、本棚に本が並べられているという認識すらない。それでひとつの物体だ。だがあなたという存在は本の「内容」ゆえに、それ自体が分離された独自の世界となっている。そこに何が書かれているかではない。それをどのように解釈しているか、だ。

つまり般若心経もポルノ小説も、もとすべて同じものであり、あなたが般若心経を有り難がって読んでいるに過ぎないのだ。

ずっと振り子が揺れている

幸福や不幸、男や女、あらゆる二元性とは振り子の揺れ幅によって決まる。あなたが男性的な意識が深ければ、女性の存在が際立ってくる。街を歩く異性が気になって仕方がない。振り子は自らの動きを制御できない。大きく引っ張って、後は手を放されるだけだ。

それこそがあなたの「反応的な性質」を現している。単なる出来事への一喜一憂。他者と関われば喜怒哀楽が起こり、喜びや躍動、理不尽や惨めさなどが休みなくどんどん入れ替わっていく。それはカコンカコンと振り子が揺れているからだよ。朝が来て夜が来る。異性を意識する。一難去ってまた一難。ずっと振り子は揺れ続けている。

そこで幸せになるには

ジェットコースターのような人生に疲れ果てて「もう沢山だ」と思うなら、方法はひとつだ。ジェットコースターから降りようとするのではないよ、降りようとすること自体がさらに巨大なジェットコースターの上だからね。そうではなく、ジェットコースターに乗っていることを知るだけでいい。

何度同じ日々を繰り返して来たのかね? 誰かに何かを言われれば「理不尽」が湧き起こり、また何かを言われれば「悲しみ」が湧いてくる。あなたが自分の心の様子を眺めていれば、それらが自分の意図とは関係がなくただ浮かんできたということがわかるはずだ。

なのに、わざわざあなたはそれを演じようとする。知っていてもいちいち芝居を打とうとする。ジェットコースターとは、その芝居を演じるあなたの態度のことだ。「あ、また私は怒りを演じている」そう気が付くだけでいい。

その気付きが習慣化してくると、振り子の揺れ幅がどんどん小さくなる。朝でも夜でもない時間を過ごし、男や女など感じず人と関わり、金の有りなしに囚われない生活となる。あらゆる苦悩は消え、最後に”そうでないもの”が残る。

誰もいない

さて観念の話と振り子の話、理解できたかな。すべては思い込みであり、その思い込みの中で振り回されている。ボールを投げてあなたはそのボールを全力で追い抜いて、そして当たって痛いと叫ぶ。そんなくだらないコントはもうやめよう。

観念を崩壊させた意識で、街をご覧なさい。人々は一体何を忙しく歩いているのだろう? “何をしているつもり”でいるのだろう?カフェに入れば誰かが店員と思い込んで対応してくる。椅子と見立てられた”何か”に腰掛け、壁やテーブルと思い込んでいる”何か”を眺める。

そうして世界を眺めていると、あなたはカフェなどに行ってもなく、腰掛けることもしたこともなく、誰ひとりとしていない、そんな世界にいることがわかるようになる。あなたとは、単なる視界だったのだ。その視界はまさにあなたの知るすべてを映し出していた。すべてあなたの中だった。

愛という言葉は人間的な解釈だが、それはつまり水が海に還ることを意味している。受容とは本来の様子なのだよ。


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  1. 悠久 より:

    こんにちは。

    いろんなことがいやになったとき、
    『もう死んだようにいよう、無心でいよう』
    みたいに思ったことがありました。
    そのいや~な感じの中で
    生活しようとしたのですが、
    すぐにそのいやなことは改善されて、
    引き戻されました。
    出来事に振り回され続けています。
    『どん底のまま~』
    など思っていたら、
    良いと思ってしまう出来事に
    引っ張られるのような繰り返しの中を。
    異性に対しても
    未練たらたらのときは見向きもされず、
    どうでもよくなってしまったとき
    しつこく言い寄られる。

    苦しさを感じるときに
    意識的でいようとする心が
    動き出すような気がします。
    きっかけになるような。
    好転と思えるような出来事の度
    戻りがちです。

    最近はその中間あたりです。
    たまに、ラッキーと思えたり
    ドキッとしてちょっと不安がよぎったり。
    現状や自分のことを書き出して
    過去に望んでいたことにチェックをすると
    不思議なことにかなりの割合でした。
    望んでいたから願望だとも理解できました。
    過去には理想的に見えた生活も
    そこに至ってしまえば何とも思わない
    どころか、かえって厄介にすら
    感じたこともありました。
    幸不幸の波は
    静かになってきましたが、
    たまに物足りなさを感じます。
    虚無感のような。
    苦悩すら欲しくなります。
    どん底で踏ん張りたいなど。
    悠々と生きてる奴が
    何を言ってるんだという感じですが。

    出来事に振り回される、
    エゴに支配される。
    抜けられるでしょうか。

    • -自分- 涅槃 より:

      悠久さん

      求めれば逃げていくし
      諦めると追ってくる

      あなたの言う通り
      どちらもエゴの支配にあるから
      物事がそう見えてしまうのだ
      身を引いたら引いたで
      つまらなくなる
      退屈をする

      世界をあるがままにするとは
      そうした視点を捨てるということ

      つまり自分がある限り
      あなたは身を引いているつもりが
      しっかりとそこに残っている

      退屈や虚しさというのは
      期待から生まれるものだ

      人生に何を期待するのかね?

      こう書けばエゴは「世捨て人になれというのか」
      と反応するがそうではない

      あなたが完全に自己を消滅したとき
      結果を求めることなく、
      「動きそのもの」になることが可能となる

      つまり本来与えられていた主体性や
      自在性を取り戻すことができるようになる

      そこに「期待」はない
      そこに「虚無感」はない

      なぜならば
      あなたの存在そのものが、すべてであるからだ

      主体的に生きなさい
      あなたはまだ対象の世界にいる

      いつも頭の少し後ろから世界を眺めている
      「主体」に気が付きなさい
      その自覚が最高の人生を遊び場としてくれるだろう

    • 悠久 より:

      自分さん

      いろんな出来事に
      振り回されていた頃は、
      頭の中も騒がしくて
      意識的でいることも
      とてもじゃないけどできませんでした。

      今はとても静かなので
      主体への自覚に近づけそうな気がします。
      頭の中も日々どんどん変わっているけど
      子供の時からも変わらず見ている者、
      ですか?
      なんとなく…う~ん…ムムゥ…モーチョイ?
      って感じですかね。
      正直まだよくわからないです(笑
      もっと話を聞きたいですね。
      ありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      悠久さん

      常に自分の中を覗いていなさい
      思考や感情
      隅々までの肉体の感覚

      それを続けていると
      ふと、体から離れる瞬間が起こる

      湿っぽくて
      獣の匂いが漂う

      そんな肉体を俯瞰している

      モンスター映画などで
      怪物側からの一人称を模したシーンがあるが
      あれに近いかもしれない

      激しい呼吸音
      体の熱さ

      そういったものが
      「目の前」にある

      これまでは体が基点だったが
      いまはもっと手前が観測点だ

      無論、こうした物理的な作用は
      正しい話ではないが
      イメージとしては
      そうした段階から主体に近付くのもひとつだよ

      幼少の頃や学生の頃
      そしていま

      ずっと変わらず内奥から見ているそれは
      何も変わっていないのだよ

    • 悠久 より:

      自分さん

      返信ありがとうございます。
      自分さんによる表現の
      “ 怪物側からの一人称”を聞いて、
      ふと、見ている光景がそれに重なるような
      瞬間があったような気がしました。

      でも、不安感というか
      何か、そこに居続けてはいけないような
      感覚があったようななかったようなで、
      すぐ戻っていました。

      これが長時間持続、または永続など、
      するようなことがあるのでしょうか。

      全然掴めていなくて
      何やらさっぱり、と言った状態です(笑
      精進ですねb

  2. オレンジ より:

    自分さん こんにちは。
    二歳になる前くらいの子供はよく
    「これは何?」と繰返し聞いてきますよね。
    観念を作っている時期なのでしょうね。
    その頃の子供達は自分のことも他者のことも全て「これ」と呼んでいて笑えたのですが、子供の方が見えてるのかもですね。
    しっかり染み付いた観念を崩壊させるのは無謀のようにも思えますが、自分さんが言われるよう

    >カフェに入れば誰かが店員と思い込んで対応してくる。椅子>と見立てられた”何か”に腰掛け、壁やテーブルと思い込んで
    >いる”何か”を眺める。

    こういった視点を心掛けるようにします。
    ありがとうございます。

    • -自分- 涅槃 より:

      オレンジさん

      >子供達は自分のことも他者のことも全て「これ」と
      >呼んでいて笑えたのですが、子供の方が見えてるのかもですね。

      その通りだ
      本能的な性質ではなく
      精神としての話でいけば
      幼児は大体1歳前後で一元を知る
      そして3歳までに二元性を創り出す

      イエスが幼子のようになりなさいとは
      一元性のレベルに還りなさいということだ

      あなたも私も
      これもあれも
      ぜんぶ「あ”〜」だ

      それは臨済の「一喝」だ
      どんな疑問も詮索も必要なく
      すべてはトータルの次元に在る

      >こういった視点を心掛けるようにします。

      自分の観念の集積物ゆえに
      街は多くを教えてくれる

  3. TKD34 より:

    自分さん、今日もタイムリーな記事をありがとうございます。
    別記事のコメントの返信と内容が重複しているため、こちらにコメントさせていただきます。

    >あなたとは、単なる視界だったのだ。

    独りの時には簡単にその状態でいれるのですが、他人が登場すると途端に演技が始まってしまいます^^;単なる癖でしょうか。

    >なのに、わざわざあなたはそれを演じようとする。
    >知っていてもいちいち芝居を打とうとする。
    >ジェットコースターとは、その芝居を演じるあなたの態度のことだ。

    他人と関わるような状況にいると、気がついたら演じてしまっているんですよ(笑)
    その時はのめり込んでしまって気がつけないのですが、いつも後になって気が付きます。「あっ、またやってたな」と。

    よく演じているのは、「小心者」と「無能者」と「嫉妬者」です。
    長年親しんできた役なので、その腕前はかなりのものです。

    演技中に、「また演技をしている」と気づけるような、何かいい方法などあれば教えていただきいです!

    • -自分- 涅槃 より:

      TDK34さん

      >演技中に、「また演技をしている」と気づけるような、
      >何かいい方法などあれば

      常に意識的にあることだよ
      他者と関わるときに、
      あなたは他者からの目で物事を捉えようとする
      思考もそう
      そこにあなたの主体性はない

      そうではなく

      怒鳴られようが
      殴られようが
      嫌われようが

      自分が見て
      自分が話して
      自分が聞くことだ

      それを備えなさい
      あなたは自由となる

      自分自身がそこにあるとき
      他人が少し離れたところにいると
      感じられるようになるだろう

      あなたが主体である、
      つまり先頭に立つとき
      世界の方があなたについてくるようになる

    • TKD34 より:

      先ほど自分さんからの返信を読んだ後に、筋トレをしていた時のことです。

      スクワット1セット目のインターバル中に、畳の上で完全に脱力したまま横になっていました。そして、体感覚と周囲の音だけをただ見ていました。その時ふと気がついたのです。起こっていることに境界線なんて無いって。

      でも別に新しい発見なんかじゃなく、ただ当たり前のことで、別に驚きも何もありませんでした。

      そして、2セット目のインターバル中にも同じように横になり、無境界のこれをただ見ていました。

      だんだん気持ちよくなってきたので、「いつもは3セットやるけど、今日はもうこれで終わりにしよう」という思考がやってきました。

      普段はその声に従うのですが、ふと「指示と逆のことをしてみよう」と思い立ったので、有無をいわさず3セット目に突入してみました。

      すると、どうでしょう。
      なんと、3セット目をちゃんとやり遂げることができたのです(笑)

      別にどうってことないのですが、僕にとってはちょっと新鮮な感じでした。思考の言う通りに行動しなくても、特に問題ないなって実感したので。

      それどころか、思考を無視するとアクションを起こすのがとても楽ですね。
      思考に従わずに、ただやればよかっただけなんですね(笑)

      これが、「主体である」ってことなのかなと思いました。

    • -自分- 涅槃 より:

      TKD34さん

      素晴らしい話をありがとう

      体の疲労や限界、
      そして空腹などもそうだが
      それらを認識しているのは
      体そのものではなく、マインドだ

      食べたのに腹が減る
      本当に空腹なのだろうか?

      もう限界、
      本当に限界なのだろうか?

      >思考の言う通りに行動しなくても、
      >特に問題ないなって実感したので。

      >思考に従わずに、ただやればよかっただけなんですね(笑)

      まさにその通り
      体は何をやってもどれだけ酷使されても
      常に祝福のエネルギーに包まれているのだ

      思考いつも阻止しかできない

      つまりあなたが心因的な要因から
      行動を判断しないとき
      それは主体のままに在るということだよ

      思考がいないとき、
      あなたは一体誰なのだろうね?

  4. スチックゼノール より:

    物心ついた時から、というか、覚えてる頃から。例えば保育園で「かけっこ」があります。望む望まざるに関わらず走らされます。この出来合いの舞台が嫌で、よく仮病を使いました。
    負ければ悔しい、けれど負けじとがんばるのも悔しい、そういう気持ちは未だにあります。いや、そのように人生を見ている、という見方もできるでしょう。
    負けない為に頑張るとか、努力する(やりたくないことをやる、の意)とかの態度を避けて来ました。馬鹿馬鹿しいと思ったからです。その仕組み、疑う人の少ないその仕組みに疑問を持ち続けることが私の命題なのだと思いたかったのかもしれません。
    しかし、反面、私はそういう自分が嫌で堪らないんです。
    正々堂々やりあうべきであります。ゴタクを並べのは勝手だけれど。観念すべきだと思うんです。その道しかないと観て、覚悟を決めるべきであります。けれど、こんなことに覚悟がいる奴は、周りにはいなかった。いてほしかったけど、いなかった。私だけのようでありました。
    人はよく「仕方ない」という言葉を使います。私はこの言葉の内に、私にない輝かしいものを見ます。私には未だに「仕方がない」ものは少ないんです。捨てるべきものはあまりに多いです。

    • -自分- 涅槃 より:

      スチックゼノールさん

      >負けない為に頑張るとか、
      >努力する(やりたくないことをやる、の意)とかの
      >態度を避けて来ました。
      >馬鹿馬鹿しいと思ったからです。

      つまり「努力しないこと」を努力してきたのだね

      瞑想でよく陥るところに
      「思考しないでいよう」と懸命に思考する人がいる

      彼は「思考しない自分がいました」と言うが
      それすらも思考であるのだ
      思考を離れたことがないから
      思考の中で無思考を捉えようとする

      ゆえに彼に、それも思考だよと言っても
      理解ができない
      海の生物に、海について教えるのと同じ

      あなたは観念から自由になりたいのだろう
      ならば、そこから離れようとするのではなく
      向き合うことだ

      幼稚園のかけっこで
      懸命に頑張った彼や彼女は
      いまも観念の海を自在に泳いでいるかもしれない

      用意されたお楽しみに
      素直に喜んでいるかもしれない

      あなたからはバカに見えるかもしれない

      だがいいかい
      そこに自由があるのだよ

      現状から離れて
      外側に自由を探すのではなく
      そこに残るのだ
      その中に自由を見つけること、
      それが自由だ

      人生は巨大な遊びであることを
      あなたはとうの昔に忘れてしまった
      だから何をやるにしても
      意味や理由を見つけ
      その解釈の檻で叫ぶしかない

      >人はよく「仕方ない」という言葉を使います。
      >私はこの言葉の内に、私にない輝かしいものを見ます。
      >私には未だに「仕方がない」ものは少ないんです。
      >捨てるべきものはあまりに多いです。

      それだけあなたは観念が多いのだ
      つまり制限の檻の中から
      常に外側に目が向いている

      そしてもうひとつ
      他人は実在しない
      それもあなたの観念だよ

      ゆえに他人があなたに送るメッセージとは
      (それが間接的なものであっても)
      すべてあなたの心の何かに関係がある

      誰かを真似て
      すべてを捨てたとしても
      何も捨てていない

      昨日の手記でも書いたが
      壊したと思い込んでいるだけで
      何も壊れていない

      大事なのは
      いまそこで自由を見つけることだ
      状況を取り巻く要素は一切関係がないのだよ

      いま目の前にあること
      いま自分がやっていること
      それだけを知りなさい

      頭ではなく体に任せなさい

      いま以外のことは
      どうでも良いのだよ
      目の前に来た時に対応すれば良いのだ

  5. 色即みっちゃん より:

    きまったレールでグルグルまわるコースター。

    まわる景色に飽きたら、はい!次っ!

    次に乗り込むコースター、同じ場所。やはりグルグルまわってる~。

    姿、形を変えながら、やはり同じ場所をグルグルとまわってる…。

    輪廻…。

    グルグルまわるのが嫌ならばレールのコースをかえるしかない…。

    夕日の光に僕が照らされる。僕の心も照らされる…。

    足元には影…。

    影が夕日も僕も、僕の心までもつくる…。

    • -自分- 涅槃 より:

      色即みっちゃんさん

      そうではないよ
      別のコースを探すのではなく
      同じコースの中で
      自由になるのだよ

    • 色即みっちゃん より:

      涅槃さんこんばんは~。

      流れ無理やり変えてもやろうと思いました…。(笑

      エゴですね…。(汗

    • -自分- 涅槃 より:

      色即みっちゃんさん

      あなたが色々と思いを馳せることも
      生というステージなのだ
      ゆえに何もかもが”正しい”のだよ

      例えばあなたが何かを伝え
      それは誤りだと言われたとする
      この2行

      人は物事を一語一句、追って解釈するが
      2行をひと塊として見たとき
      それは「正しい」のだ

      なぜなら、それが
      「あったか、なかったか」

      つまり正誤ではなく、
      存在性のレベルに到達するからである

      だからすべての物事に対して
      内容を吟味するのではない
      「これは在る」と受け取ることだよ

      すべては正しいのだ

    • 色即みっちゃん より:

      不垢不浄…。

      涅槃さんありがとう…。

  6. スチックゼノール より:

    人に私の苦しさの話をしますとーその方は人の話を聞く専門家の方なのですがー、しまいに「我慢しないでください」と言われました。業を煮やした末の言葉かと思いました。
    でも、仮に我慢してるとして、自分が何をどう我慢してるのかがわからないんです。そう言われるからには、その人から見たら私は我慢の塊に見えてるんでしょうけど。
    行きたくない仕事に出勤するのは我慢なしではできないから、会社休んでいいってことですか、と答えたら、返事はありませんでした。
    酒に関しては、私は酒に弱いんで、頭痛になるのが嫌で飲みすぎないようにしてるだけです。理性がすっ飛ぶ前に頭痛と吐気、悪寒さえ来るときがありますし。あんたが酒飲みなだけだろうって思いました。
    私がこんなに体から離れてしまったのはなんででしょう、しかし、私は凄く身体性の強い奴だと思ってるんですよ。
    この方はバタイユを勧めて来ました。いちおうチラっと読んでみたんですが、ヨーロッパ産の変態ってこうなるのだな、くらいの感想しか持てなくて。セックスセックス言い過ぎなんじゃないのってちょっとヒきました。
    すみません。最近はもうヤケっぱちで、しかし、計算ずくのヤケです。頭から離れて、リアルに生きたいんです。お話しできて有難いです。

    • -自分- 涅槃 より:

      スチックゼノールさん

      いいかい、
      他者とは、あなたのことなのだよ
      その、話を聞く専門家の言動は
      あなたの解釈なのだ

      会社の出勤の話も同じ
      「返事がない」ことを受け取っているあなたが
      そこにいるのだよ

      よく手記で書くことだが、
      あなたに”誰かが話をしている”のではなく
      誰かの話を”あなたが聞いている”のだ

      このトリックを見破りなさい

      関わっているつもりの誰かなんて
      どこにもいないのだ
      すべてあなたの受け取りの世界
      だから、あなたの思った通りの展開となる

      つまり物事と解釈は同一のものなのだ

      白銀の世界を観て→綺麗だなと思った、
      のではなく

      「綺麗だな白銀セット」がそこにあるのだよ
      コトの起こりそのものが、すでに解釈なのだ

      ゆえに他人に相談するとき、
      相談する前には、相談は存在せず
      相談したことで「あなたの相談」がはじめて発生する
      そして相手の返答についての解釈も
      あなたが思考した結果ではなく
      最初からそのような「味」が含まれていたのだ
      つまり「相談」というパッケージプランを
      食べただけに過ぎない

      そこにないものを
      あなたが自ら作り出し
      そしてその解釈に振り回される
      「ほら、やっぱりそうだ」とね

      あなたは
      「自分はこうだが周囲はどうも違うようだ」
      という話をするが

      「周囲に浮く私」を
      世界に創り出しているだけのことだよ

      まず、他人に同意を求めるのはやめることだ
      あなたは同意なんて求めていないとするだろうが
      あなたのすべての行動は、
      外から見た自分に囚われている
      それは他人の枠内で生きているということだ
      つまりあなたの苦悩は世間の了承が前提にある
      それは自己の存在性とは違う

      あなたが「私は」「私が」と話す度に
      その背後に他者や社会が見える
      そこから抜け出なさい

      その地球にはあなたしかいないのだよ

      つまり我慢しようがしまいが
      二日酔いになろうがなるまいが
      すべてがあなたの自由なのだ
      好きなことを選べば良い

      働くのも無職になるもの
      刑務所に入るのも
      明日突然アフリカに旅立つのも
      全部あなたの自由なのだよ

      それをしたらどうなのかね?

      すべてが終わる?
      何が終わるのだろう?

      自分自身で在りなさい

  7. より:

    歩く、食べる、話す、全て観念だとしたら、我々は、仕事にも行ってないし、生活すらしてないし、動いてもいない。
    「外」に「出掛けた」と言う観念を体験しているだけだと言う。

    ところで、私はサラリーマン社会を斜に構えて見ている訳ではなく、それもありだと思うが、サラリーマン社会で競走をしている人とは、また別なゲームをしていると言う自覚はある。
    あえて言語化すれば、周りの人が鉱石をスマホだと思ってみている時に、自分はそれをラジオだと思って見ている。周りが短距離走をしているときに長距離走をしている。
    ノリが悪いのではなく、別の音楽に乗っている。
    皆がテクノ音楽に合わせて踊っているのに、なんであいつだけ阿波おどりしてんだよとなる。
    仕方なく、レコードのスイッチを切ればテクノも阿波おどりも無く、虚無があるだけだ、と言う悟りの言葉を慰みとしている。
    でも、一度始めた阿波おどりなり、ロックンロールに固着してしまっている。
    踊りの本質は皆で一体になって楽しむことなんだから、阿波おどりとかロックとかテクノとか形に拘らなくていいんだよ
    と言う悟りの言葉も聞こえるが、ロックへの固着が強い。ロックを極めたたら、別の音楽も良いなと思うかもしれない。

    • より:

      要はスピリチュアルや自己啓発の影響を受けたので、そうでない人に比べると、踊り方がやや独特になっているのは確かだろう。だから、「お前の踊り方、変だよ」と言われる事があっても仕方かない。

    • より:

      このように色々遠回りしている私ですが、起きがけに大事な事を掴んだ気がするので書いて置きますと、歩いていると言うことが観念ならば、今この瞬間にどんな世界でも作れるじゃないか
      阿波おどりの会場でロックンロールを踊るみたいな無理なことしなくても、一瞬で世界をロックンロールの会場にすることだって可能なのに、、このような確信が生まれました。

    • -自分- 涅槃 より:

      鯤さん

      >歩く、食べる、話す、全て観念だとしたら、
      >我々は、仕事にも行ってないし、
      >生活すらしてないし、動いてもいない。
      >「外」に「出掛けた」と言う観念を体験しているだけだと言う。

      その通り
      観念を体験しているだけだ
      それが究極の真実だよ

      わかりやすいメソッドを送ろう

      目を開くと視界が見える
      目を閉じると視界がなくなる
      だがそのどちらも見ている意識があるね?
      言葉上、その意識を「自覚」という表現にするよ

      その”自覚”は
      あなたが熟睡中でもそれを見ている

      試しに熟睡中を思い出してごらん
      「熟睡なんて思い出せるわけがない」というのは
      ヴィジョンがないからだ
      つまり「目を閉じたことを見ている」状態と同じ

      熟睡を思い出すとき
      頭の後ろあたりの何かの感覚に辿り着いたなら
      それでオーケーだよ

      膜のような
      球体のような
      ふわっとしたような
      何らかのイメージでいい

      ではいまその”自覚”に意識を向けてみようか

      あなたは目を開けていまそこにいる
      右を向いたり
      左を向いたり
      すると視界は当然変化するが
      「自覚」は同じ向きのまま鎮座している

      どれだけ進んでも
      どちらを向いても
      自覚は何の変化もない

      家から出て遠いどこかへ辿り着いても
      やはり自覚は一歩も動いていない
      同じ場所のままだ

      上下左右があるわけでもなく
      距離感があるわけでもない

      群衆の中にいても
      ひとりでいても
      やはり同じ

      ヴィジョンは「視界」であり
      それを体験しているものは
      視界ではない

      >一瞬で世界をロックンロールの会場にすることだって
      >可能なのに、、このような確信が生まれました。

      そう、
      それを体験する真なるあなたは
      どちらでも良いのだよ

      どちらでも体験できる、つまり
      阿波踊りかロックかは
      自在に創り変えることができるということを意味する

  8. はなこ より:

    自分さん。こんにちは。

    私は料理は作るのですが、
    お菓子を作ったことがありませんでした。
    でも何故か作ってみたかったのです。

    昨夜思い出しました。
    中学生の頃に友達が作った、
    手作りクッキーを貰って食べました。
    市販のように完璧な形と味でした。
    家に帰って自分も作ろうと思ったのですが、
    お菓子作りに必要な道具がありませんでした。
    母に尋ねたら「お菓子を作るのは面倒くさいから」
    と、言われて終わりました。

    幼い頃から暴力とモラハラ家庭。
    親に逆らって機嫌を損ねるよりも、
    自分の意見を取り下げる方が平和に暮らせました。
    思えば全て、私はそうやって来ていました。
    大人になっても気付きませんでした。

    自分の意見や考えだと思っていたこと。
    ソレは私のものではありませんでした。
    まずそこに驚きました。

    今日早速お菓子作りの道具を買い、
    レシピを見ながら作ってみました。
    全く面倒ではありませんでした。
    初めて作ったわりに美味しく出来ました。

    面倒くさいというのは思い込みでした。楽しかった。
    母の意見を自分のモノだと勘違いしていただけでした。
    今度また別のお菓子にチャレンジしようと思います。
    以前自分さんが仰られた通り、
    キッチンはよい瞑想の場だと思います。

    • -自分- 涅槃 より:

      はなこさん

      >自分の意見や考えだと思っていたこと。
      >ソレは私のものではありませんでした。

      良い話をありがとう
      多くの人に風が吹くだろう

      あなたの経験は
      多くの人が陥っている
      自分という位置を確認するとき
      誰もが他者や社会の目で
      それを見てしまう

      ゆえに苦悩が生まれる

      こうでなければならない
      こうしないと大変だ

      だが完全なる「自己流」で生きるとき
      「大変」なんて言葉は金輪際出てこなくなる

      世界という大地に
      “あなた”が歩いている

      キッチンに”あなた”が立っている

      その自由の境地
      それが本来の生だ

      そうして世界は祝福が起こる
      あなたの生はいつもパレードとなる

  9. はなこ より:

    自分さん。
    お返事ありがとうございます。

    >自分の意見や考えだと思っていたこと。
    >ソレは私のものではありませんでした。
    これに気付いてから以前より腑に落ちてきました。

    過去の手記で、幸せな私が街を歩く。
    というような内容が頭に残っていたのですが、
    今日私は何事にも関係なく幸せな私でいた時間が多かったです。
    何度か自分さんにアドバイスをいただくたびに、
    自分なりに実践し続けて…今朝気付きました。
    なんで私は常時この気分を抱えていなきゃいけないの?
    別にこれじゃなくてもいんじゃない?と思いました。
    不安と恐怖と緊張がデフォルトな私。じゃなくてもいんじゃないかと。
    それこそ思い込みや根付いた習慣なのではないかと思いました。
    今後も実践は可能な範囲で継続していきます。

    そしてまた今日、以前のように面倒事が1つ勝手に片付いてしまいました。
    今回は今週の金曜日という期限がある仕事の件だったのですが、
    あれこれ悩むことを放棄して今日出勤するまでのたった2日で解決しました。
    解決というか、現実が、周りの人が、勝手に動いてくれた感じで終わりました。
    あまりにも私に都合が良すぎて驚いています。

    お菓子作りの楽しさも知ったので、
    次に何を作るか考えるだけで楽しくなります。
    自分さん。今までと違う世界があることを教えてくれて、
    本当にありがとうございます。感謝しています。

    • -自分- 涅槃 より:

      はなこさん

      誰もがそこにない未来を見て
      不安を作り上げていく

      そうではなく現実に向き合うのだ
      それだけであらゆる恐れは消滅する

      先ほど、別の方にした話だがね、
      現実に向き合うと
      それまで得体が知れないと思っていたものが
      「どうにかなるもの」だとわかるのだ

      テーブルに置かれたガラスのコップ
      ただ見つめていると
      「落としたら割れるかもしれない」
      「だから濡れ手で触るわけにはいかない」
      「でもいまは濡れているどうしよう」

      みんなそんな様子だね

      あれこれ妄想や予測をせず
      身体に任せれば良いのだよ

      それが最高にクールなやり方なのだよ

コメント・質疑応答

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