あなたの望むすべてがある
あなたは気付き始めている
どれだけ求めても
幸せを得るなどできないことにね
いくら稼いでもキリがない
もっともっと欲しい
だけども得るだけ失う恐怖が大きくなる
恋愛にしても
相手に理想や愛を求めるばかりで
心底満たせてくれる相手は現れない
いつまでこんなに苦しい人生が続くのか
外を歩けばみんな幸せそうに見える
安定しているように見える
民家は平然と並んで
街は今日も変わらず賑わっている
何を追い求めても満たされないが
「幸せ」という何かはなぜだか知っている
しかし満たされないのに
なぜ「幸せ」を知っているのだろう?
本書はその本当の意味と
人生の秘密を解き明かし
あなたを苦悩のない世界へ誘う方法を記している
だけども”普通”に読むだけでは
本書の内容は理解できない
それはあなたが普通と思っているものが
すでにひっくり返っているものだからだ
だから私たちは
「すべてを忘れること」によって
「すべてを知ること」ができる
見るとは聞くとは一体何か?
あなたの見ている世界とは何か?
そもそも「あなた」とは一体誰なのか?
読み進めるうちに
“ここ”がどこであるのかを理解するだろう
そして望むすべては
ずっとすぐそばにあったんだと知るのである
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自分さん、こんにちは。
> 見るとは聞くとは一体何か?
自分の心を感じること。
> あなたの見ている世界とは何か?
目に映っているのはいるのは本当の自分。
でも見ているのは自分のこころ。
> そもそも「あなた」とは一体誰なのか?
全体のかけら。一部分。
自転車を海に放置していればすぐに錆びる
太陽が昇れば海水の温度が上昇する
そうやって存在している、その中のちっぽけな一部分。
だけど「自分が自分を生きている」と頑張っている。
そう感じるようになり、
最近少し自他の境界線が薄まりつつあるのと、
これしかないんだという感覚を覚えて、
何か起こっても、起こったから起こったんだな、
というふうに感じるようになりました。
urikoさん
やあこんにちは。
よい問答だ。そう、あなたはあなた自身を少しずつ眺めている。
それはとても巨大な絵であり、だがそうして少しずつ眺めている間は、潜水艦の小さな窓から海の様子を眺めているみたいに、ときに良くみえたり、ときに悪くみえたりもする。
まあそうだね、海のなかで本当に起きてることは、その小さな窓からはわからない。全体的に起きてるうちの、ほんの隅っこの部分しかみえないからだね。
これと私たちの現実(私たちの魂の内壁に映された映像)は同じ様子にあって、常にこれまでにみたことのある窓からの景色だけが(つまり知っている過去だけが)、いま実感している”現実”の参考材料となる。
それはたとえばこんな滑稽な様子にある。
良いことがあれば「そうか、やっぱり”あのこと”のおかげでうまくいったんだ」と過去の行為や物事を喜ぶが、ところが悪いことが起きたとき、そのまったく同じ事柄を原因にしたりする。「きっと”あのこと”のせいでこうなったんだ」とね。
つまり「知っている過去だけ」を現実の解釈の根拠にするわけだが、しかしそれだとひたすら過去の反復をするだけの狭い世界を生きてることになる。同じ世界が延々と繰り返されるのであり、この”無限ループ”をカルマと呼ぶわけだ。
だがこれこそ輪廻転生の理解に重要であって、つまりカルマから解脱して魂が生まれ変わるというのは、私たちが”このカルマのなか”で自明な前提としている「死んだら終わり」ということが、実は魂の転生にはならないということだ。
わかるかい、死んだら生まれ変わるのではない。
“死んでも”また同じ苦しみの世界を繰り返すのであり、そして、”死なず”とも新しい世界がはじまる。
なぜならあなたも気づいているように、己とはこの世界のなかで彷徨う自分ではなく、この世そのものであるからだ。
ところで、潜水艦のちいさな窓からみた光景ではなく、その窓の外側には本当はどのような巨大な絵が描かれているのだろうか。
それはあなたがときに、理不尽や憎しみや不安や焦りを感じたり”する”ことが、ひとつの逆説的な証明となる。
そもそもどうして負の感情を抱くのだろうといえば、それはもちろん、「本当はそうではないはずだ」とあなたが知っているからだ。
つまり巨大な絵には、あなたがもっとも理想とする最高の幸せが描かれている。
だから人生を信頼していいんだよ。
たとえば水溜まりに足を突っ込んで、そのクリーニングのために訪れたいつもの店が休みで、わざわざ隣の街まで出掛けたが途中で車が故障して、JAFに電話しようにもスマホが充電切れで、道路の真ん中で止まったせいで大渋滞になってしまったなかで、あなたにけたたましくクラクションを鳴らしていた、仕事に急いでいたその人と結ばれたりする。
これは決して大袈裟な比喩ではなく、いまあなたが普段使っている小物ひとつにしても、そのような運命の糸をたどってやってきたものだ。いまここにいるのはどうしてだろう?そう捉えてみれば、すべてが導きにあるとわかる。
ここで大事のは、あなたは水溜まりができる場所もクリーニング店の営業日も、車の故障もその人をそこに居合わせたことも、なにも選んでいないということにある。
つまりなにもしていない。
もちろん途中で「なんてツイてない日だ」とか、イライラしたり不安だったりするかもしれない。
だけども出来事のほうからや、またさっきまで思いつかなかったひらめきに自然に委ねていくとき、”絵”は近視眼的な部分を超えて、より大きな範囲をみせてくれるんだ。
つまり人生を信頼するからこそ、あなたがこの世を体験していること(つまり己の意味)をようやく知ることになる。
だから悪いことがあっても心配しなくていいわけで、そもそもどうしてそれが「悪いこと」に思えるのかといえば、話したように、その出来事が(巨大な絵の”部分”が)これまでの知ってる過去に条件づけされてしまうからにすぎないのであって、本当は良いも悪いもないんだ。
もちろん絵の”経過”のなかの自分からすれば、それまでの過去や前提しか持ち得ていないのだから、その良し悪しをみてしまうのは仕方ない。
だが全体としてみたとき、それは必要として起きていることがわかる。つまり巨大な絵の”部分”だったとね。
ゆえにだめなのは、その同じ箇所で立ち止まってループしてしまうことであり、“自分”が反動的になにかをしてしまうことなんだね。
ただしこれもいつも話していることだけども、楽しみのためにあえてループを繰り返すことは探求となる。それはカルマではなく創造的なものだといえる。つまり抱えるトラブルが単なる苦しみなのか、それともやりがいのある取り組みなのか、それはあなたの捉え方次第だということだ。
少し前の手記でも話したように
──
つまり探求とは
決してゴールには辿り着かない遊戯だということ
だからこそ
探求はあなたがずっと追いかけたいものに
定めるといい
いつまでも掴めないからこそ
どんどんあなたの眼前に
きらきらした世界として現れるのだから
──
そして探求の逆、つまり「流れそのもの」にあるときは、もちろんループが解かれることになる。
これはよく「トントン拍子にことが進んだ」といわれるみたいに、なんだか現実感が伴わないような感覚で過ごしていくことになる。
それは時間、つまり過去や未来は、”絵”を眺めていく小さな窓の経過のことにすぎず、つまり絵そのものには時間は存在しないからにある。
だからあなたが流れに委ねて出来事に素直に応じていくとき、あらゆることが一挙に起こることになる。それは”すでに描かれているから”だね。
はじめは混乱するかもしれないが、だがそれでいいんだ。
その意味で以下のあなたの話は「流れそのもの」としてある。
──
最近少し自他の境界線が薄まりつつあるのと、
これしかないんだという感覚を覚えて、
何か起こっても、起こったから起こったんだな、
というふうに感じるようになりました。
──
そのように現実に苦悩せず、人生に対して親しい友達のように時々語りかけてみるといい。
別のところでも話したけども、人生はあなたからひと時も離れず、ずっと一緒にいてくれている。だから信じていいんだよ。
むしろ、他になにを信じるのだろう?というわけだね。