きらきらした世界

「人生は一度きり」なんていわれるけども
しかしその意味をよく考えてみよう

それは
自分と同じような人たちのなかで
自分がどうにか生きていかなければならない
ということではない

人生が一度きりであるのは
当然あなたが死ねばすべてが終わり
という意味にあるわけだが

つまりそれは
自分と同じように幸せを求めたり
「得した損した」と喚いてる人たちなど
実はいないということだ

わかるかい
“他人”など存在しないんだ

 

現実

たとえばあなたは
他の人をみて羨ましく思ったりする

あの人のようになりたい
あの人をものにしたい

だけども
あの人のようにはなれなかったり
あの人をものにはできないことが大半だろう

そんなあなたの前を
素敵な恋人を連れて歩く羨ましい人が
通り過ぎていく

そんな光景に直面するたびに
どんどん惨めな気分になる

どうしてお金持ちの家に生まれなかったのだろう?
どうしてもっと容姿端麗でなかったのだろう?

自分の欠点ばかりが目について
理想との”差”を埋めようと努力はするが
しかしそれもすぐに限界にぶつかる

 

救いはどこに?

古くからの教えでは
「いまあるものに満足せよ」とある

そうして外に目を向けずに
いまここにあるものに有り難みを感じれば
“気づき”が開くからだ

たとえばいまあるものやそばにいる人に
深い感謝を向けてみれば
「それはなぜここにやってきたのか」
という神秘的な問いへとつながるだろう

すると人生を通じて
本当に気づかなければならない
「揺るぎないもの」をみつけることができる

それはつまり
己を運んだり見守っているものを
ここに感じ取れるわけだ

しかしそれじゃなぜ
あのきらきらと誘惑し続ける
外の世界があるのだろう?

自分の持ち物や
そばにいてくれる人に感謝の気持ちはあっても

誘惑されているときは
もうそんなことは忘れている

もちろん外の誘惑に打ちのめされることで
再びいまここにあるものに感謝の念が湧くみたいな
苦行的解釈もできるだろう

だがそうして痛い目をみなければ
大切さがわからないというのは

やがてそんなあなたに呆れて
その大切なものも去ってしまったとき
その痛みはどうやって癒えるのかという疑問
解消しないことになる

 

マッチ売りの自分

仮にいまその状況だとしようか

なにもかもうまくいかず
愛していた人もどこかへ消えた

しかし外の世界は相変わらずきらきらしてる

あれがほしい
あのようになりたい

そんな欲求ばかりが溜まり続けるが
なにも手にできない

こうして「一度きりの人生」が終わっていくのか

午後の街を歩いても
スーパーのレジの列に並んでいても
深夜のベッドで天井を眺めても

いつも欲求不満と
それが解消しえない虚しさばかりを考えてる

一度きりであるがゆえに
思い切って飛び出してみなければならないのか?

正直そんな気力もない

または損得を無視して
他人の罪を背負ってやらなければならないのか

だが「一度きりの人生」なのに
つまり”己”の人生なのに
そんな苦しい思いをしなければならないのは
なんだか変だ

つまりあなたが思うのは
結局、本当に欲しいものは手にできず
他の人たちは豊かで豪華で
恵まれた暮らしをしているのに

自分は貧相な人生で
満足しなければならないという強制に
従うしかないということ

それはまるで小さな子どもが
「外の世界は怖いところ」と
騙されて閉じ込められているようなものであって

大人のあなたは騙されてるのをわかっていながら
一生が終わっていくのかと
虚しく悲しい気持ちになるわけだ

 

他者という幻

だがここで
「人生は一度きり」の意味について
もう一度観想してみよう

たしかに人生というこのドラマは
「あなたの人生」にある

ゆえに冒頭でも話したように
人生が一度きりであるのは
当然あなたが死ねばすべてが終わり
という意味にあるわけだが

だがそれはたとえば
朝のなかであなたが目を覚ますのではなく
あなたと共に朝がはじまるということを示唆している

眠っていてふと目が覚めたとき
この世界も目を覚ます

世界はずっと目覚めているのではなく
あなたの目覚めの”なか”に世界は動いてるんだ

まさにそれが「人生は一度きり」の意味であり
すなわち「己が死ねばすべてが終わる」を
突き詰めたときにみえてくる”答え”にある

もちろん反論があるだろう

だがあなたが眠っている間の世界にしろ
まして死んだあとの世界など
いったいどうしてあなたはそれを知るのか

せいぜいきっとこうだろうという予想や空想でしかない

さらにいえばそれを確認することもできない
あなたはそこにいないのだからね

そして「あなたがいない」とはどういうことか
それはなんの世界も存在しないということだ

つまり羨ましかったあの人たちもまた
あなたと共にいなくなるんだよ

 

この世とはなにか

そもそもどうして
あの人のようになりたくて
あの人をものにしたかったのだろう?

それはそのように思ったり考えたりする
“設定”がここにあるだけじゃないかな

つまりあなたは次々と目移りしたり
他人を羨しがるけども

それはきらきらした世界が実在するのではなく
きらきらした世界に”羨望するという設定”が
まさにあなたの人生体験であるということだ

そしてなにより重要なのは
この「現実の”設定”」は
あなたしか知らないということにある

たとえば全国にあるドン・キホーテという量販店を
利用したことがあるかもしれない

そこではドン・キホーテのBGMが流れてる

当然あなたは自分だけでなく
“この世の人々”が自分と同じように
同じ曲を耳にしてそれを知っていると考えている

だが「人生は一度きり」と視座に立ち戻るとき
ドン・キホーテのBGMは
あなただけが知っていたという”真理”が
明らかとなるんだ

もちろんドンキのBGMに留まるものではない

宇宙が138億歳であるとか
地球は丸くて青いといった
“全人類”の共通の理解や知識もすべて
あなただけの設定であるということ

これは言いかえれば
全人類とは実はあなたひとりしかいない
ということでもある

あなたひとりの知っていることの”なか”にのみ
人類が存在している

これはいつも話している「箱のなかの箱」と同じ

ではここまでを踏まえて
日々の光景を再び思い出してみれば

午後の街を歩いているとき
スーパーのレジの列に並んでいるとき
深夜のベッドで天井を眺めているとき

あなたは自分と同じように生きてる人々のなかに
己が存在しているという”前提”で現実を考えていた

だから欲求不満や惨めさや虚しさに
いつも揺れていた

だが「人生は一度しかない」の意味を
深く理解するとき
世界は文字通り逆転するのであって
“あなたのなか”にすべての人々、常識、概念、
つまり人間の世界そのものが現れているようになる

だがこれを独我論的な帰結にしてはならないよ

そうではなく
あなたの知る世界の外側(無世界)は
解放された膨大な観念の海で満ちているということ

つまりなにもないのではなく
すべてがある

ゆえに「すべてがある」と「なにもない」は
同じ意味にある

この「すべてある」がいわゆる”一者”だけども
そこから素材を引き寄せて
その素材同士が互いに意味を与え合って生まれた
ひとつの集合体があなたの”この世”であり
すなわち”あなた”という意識世界そのものにある

表現をかえてみれば
日頃あなたがいろんな思いを抱いているように
一者のいろんな思いのひとつの結晶があなたとなる

だからあなたを思い浮かべている一者もまた
あなたなんだ

そしてあなたの日頃の意識が
常にひとつのことしか意識できないのと同じで
一者に意識され続けている”あなた”は
あなた以外の世界(つまり他の集合体=他の魂)は
あなたの意識世界からすれば「非-存在」にある

ときにそれは超常的に見え隠れしたりするけども
だがどれだけゲシュタルトが崩壊しようとも
それが現象としてみえている時点で
あなたの意識世界において翻訳されたものにすぎない

 

なにも描かれていないキャンバスの上に

さてこの理解に到達するとき
「いまあるものに満足せよ」という教えが伝える
本当の意味にも気づくだろう

「人生は一度きり」
「いまあるものに満足せよ」

この2つの言葉に
どこか通底しているものを感じられたなら
あなたは「いま」が永遠と同じなのだと
気づいていることになる

たとえば
いまあなたは男であり女である

それは社会的な性差ジェンダーのことだけでなく
肉体的な性別セックスもそう

いま男性のあなたは
次の瞬間にはドンキに生理用品を買いに向かってる

ついさっきまで男だった設定など
“いまの設定”にはないからだ

同様にいまあなたは18歳であり70歳でもあり
もっといえば
男とか女とか年齢とかいった”概念”さえ
ひとつの設定であるわけで

知らずのうちにもうまったく違う世界を
当たり前にみているあなたがここにあり
もちろんこの私の文章も消えてるだろう

だからいまこれがみえているならば
この私もあなたなんだ

 

きらきらした世界

つまり「いまに在る」とは
すべてが永遠のうちに現れているということに
気づいている実感そのものにあり
それは”個別としての自分”の体験ではない

“永遠”とは
はじまりも終わりもないこと
すなわち限定がない、区別がない

ところがあなたは朝が夜になって
そしてまた朝になると受け取っているように
“永遠”を細かく区別してみている

釈迦のいう「諸行無常(すべては移りゆく)」は
永遠の流れのなかで留まろうとする”自分”から
みたときの表現であり

むしろこの”自分”こそが
他人を実在と思い込むことで現れているわけで
自ら生み出した区別のなかに
閉じ込められている様子そのものにある

その自分がなにを語ろうとも
自分が自分であるがゆえに
常に矛盾に見舞われるだろう

それゆえたとえば
昨今の多様性を認めようとする風潮は
すべては意識世界の産物であることに
気づきはじめているからにあるけども

ところがこうした
信念構造の基底にまで迫る視座というのは
どこまでも”二重の視点”が必要とされることになる

というのは「多様性を認めるべき」といった主張で
それを語ろうとすれば
そこに”自分”を配置しなければならないからであり
すると主張するための世界が同時に生まれるわけで
“純粋”にそれを言語化することはできないからだ

そもそも言葉とは永遠を区切るものだからであり
対立を調停しようとする言説は
かならず本末転倒することになる

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