この世の真実を知る
今日は瞑想のはなし
私はあらゆる場所で瞑想をする
座ってボケッとすることだけが
瞑想じゃないよ
そこに起こっていることに
意識を向けること、それが瞑想だ
歩いているときも
レジで並んでいるときも
人と会話をしているときも
起きているすべてに意識的になる
つまりすべて観察している
五感に飛び込む周囲の様子から
もっと身近な世界である、肉体の動き
そしてやってきては
去って行く思考まで私は意識を向ける
意識の光を当てる
するといつもあることに
気がついてしまう
例えば思考を眺めていると
自分はどうにも動けなくなるのだ
まったく動けなくなる
これはつまり普段は思考と同化しており
その思考の通りに自分が動いていると
錯覚していることを意味する
だから思考そのものを眺めるとき
まったく動きようがない
だが体は動いている
思考は巡っている
でもそれらを見つめる限り
私は何一つ動けない
どういうことか
わかるかね?
体も思考も動いているが
私はまったく動けない
いつも伝えていることだが
頭でどれだけ念じても
指一本動かない
だが実際に指が動いているときとは
あなたはそれを見ているだけなのだ
見ている結果を
自分が動いたとしている
無意識、という様子がある
人は日常生活の中で99%以上が
無意識状態であるといわれている
トイレで用を足すとき
あなたは特に意識せずズボンを下ろす
ズボンを下ろすときの腕の動き
足が床を捉えている動作
体が自動的にそれらの行動を起こしている
そう、すべて自動的に動いている
あなたはそのロボットに
完全に任せている
そこに気付きなさい
だが勘違いしてはならない
「肉体は私ではないのだから完全に断ち切る」
としたところで
突然後ろから押し倒されたら
あなたは地面に腕を立てるなり受け身を取る
それはとっさに起こる
そしてあなたはいう
「何ということだ、
まだ私は自分ではないこの肉体を
守ろうとしている」
そうじゃない
いいかい
体が勝手に動いているのだ
体が自らを保護しようと動作した
それは「あなた」ではない
そこに生きている純粋な生き物
それが自分の体を守ろうとした
諸行無常
すべては過ぎゆくもの
この言葉の真の意味とは
「動き」のことだ
すべては動いている
変化とは動きのこと
動きの中にいつもいる
エネルギーのダイナミズム
それがただ起こっているのだ
あなたが自分の
すべての「動き」に意識を向けるとき
その肉体ですら
勝手に動いていることを知る
風に舞って種子が落ち
そこから芽が出て育つ
まるで意思を持っているかのように
植物は陽の光や雨を受けて育つ
朝が来れば花や葉は開き
寒くなれば葉を落とす
どこにあなたのコントロールがある?
その肉体も同じなのだよ
その思考も同じ
思考が「どんより」という
色を帯びているとき
あなたは自分がいまネガティブだとする
世界とは動きのことだ
だが唯一、動かないものがある
それはそれら動きが起こる「空間」
つまりあなたのことだ
あなたは動かない
一歩も動いていない
この事実を悟りなさい
すべてに意識の光を当てることで
この単純なトリックがわかるようになる
そこにある思考を自分だと思っていたのだと
そこにある肉体を自分だと思っていたのだと
すべて「動き」なのだ
あなたという不動の中に
すべては動いている
無意識を断ちなさい
闇に意識の光を灯しなさい
どこにも「自分」はおらず
ただ世界という動きを
眺めているだけだったことに
気がつくだろう
Notes あなたの世界, タオ, 世界, 循環, 感謝, 瞑想
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この記事の通りになれば怖いものなしだってのは分かってるんですがね
忙しいときやトラブルが起きた時などどうにも観察ができないのですよね。
わかってますよ、「忙しい」も「トラブル」も私が勝手にそう意味づけているだけだってことは。
それに四六時中観察するのはやはり疲れませんかね?
>>ONEPOINTさん
>この記事の通りになれば怖いものなし
そうではない
怖いものなどありもしないから
その手記のようになるのだ
すべては己が作り上げている
そう、あなたの話の通りだ
言葉の都合で「観察」と伝えたが
実際のところ
私は何もしていない
だが「起こりを眺めているという風景」が
ただそこにあるのだ
ゆえに疲れるもなにもない
観照を始めて約5か月。
もはや観照しながら過ごす方が当たり前になりました。
おかげさまで眉間にシワが寄らなくなったり
思考や感情が湧いてもすぐに元に戻りやすくなりました。
しかしながら変化があまりにも微妙すぎて
本当に進んでいるのか疑わしくなる時もあります。
何十年分という膿を出すのは簡単ではないかもしれませんが
あまりにも観念を溜め込んでいるのにウンザリすることがあります。
このまま意識の光を当て続けるしかないのでしょうか?
ONEPOINTさん
すべては微妙なものだ
だが微妙と感じたり
疑惑を持っているのはマインドだ
大切なのは
このまま続ければどこかへ到達するだろうという
願望ではなく
いまそれをしているということだけだ
新しい手記を書いていて
今夜にでも掲載するから
そちらも参考にするとよいだろう
思考に意識を持って行かれる、つまり思考と同化しているとなんにもどうにも動けなくなるという感覚、すっごく分かります!
さばみりんさん
そう、思考はあなたではない
あなたでないものに
意識が同化するということは
暴走する車にシートベルトで
縛られてるようなものだ
制御はできない
車が走っている道の方に意識を向けると
すべては「その中」となる
「その中」ですか。何という大胆な視点。しかし何処かで気付いていたはずなのにこれもまた目を背けていただけなのでしょうか。
真実の世界とはここではなく、別のドコか、総てを制御する究極に中枢に達することだと思っていた。
しかし真実は、違うのですね?
あなたの世界でどれだけの人が死んだ? 知り合いでもいいしテレビのニュースでもいい。あなたの中で彼らの人生が起きていただろう。
世界という動きを眺めていた。
かっこいいなー
世界は幸や不幸を自身がどのように感じるかで決まるんだな。
他者がどう感じているのかは他者の責任の範疇にあり、自身がそれに反応することで執着が生まれ、苦しみを生み出す。
私が薄くなればなるほど執着からとき離れ、自分の表現したい世界を淡々と表現する。
早く、屍骸がゴロゴロ転がっている砂漠に行きたいな。自分さんがいる場所に。
そして自分さんにハロー元気だったって満面の笑みで会いたいな。
itukiさん
>世界は幸や不幸を自身がどのように感じるかで決まるんだな。
形式だけが変わるのであって本質は何も変わっていない。これは「人間世界」の根本原理となる。何千年、何万年と歴史が続いても変化しているのは表層だけであって、根底に流れているものは常に同じものだ。
これは言いかえれば「本質」さえ掴んでいるならば、世界がどのようであろうとノープロブレムだということだ。
実際そうではないかな? たとえば異業種に職を変えたところで、一体何が変わったのだろうか。どれだけ新しい出会いがあったところで、どれだけ新しい商品を手にしたところで何が変わったのか。
何も変わっていないはずだ。それは見た目ではなく体感として感じられている。なぜならこの世のすべての事物は、それを通じた「向こう側」を知るためだけに存在しているからだ。
向こう側とは何か。それはただ流れ続けている巨大な宇宙の潮流であり、つまりその潮流に乗り続けるならば、どのようにでも現実という形式は「変容できる」ということにある。
だからもしかっこいい世界が好みならば、そのように生きればいいだけなのだよ。
それが「夢を叶える」ということだ。
なにもかもが物語のようだ。朝目が覚めると僕は物語の中にいる。すべてがなんだか、水槽のなかのことのようだ。世界にリアルさがない。以前の感覚はもう忘れてしまった。とにかく不思議だ。昨日の記憶も想い出すのに時間がかかる。恋人に会ったのが昨日のようで遠い昔のようにも想えて、それとなく確認すると「一週間前だよ」と言われて驚愕してしまう。あの高揚感はどこかへいってしまい、不安に取り込まれどこかへいってしまうこともあるけれど、振り返ればいつでもこれはここにある。書きながら涙が込み上げてきた。いつもありがとう。
oldfriendさん
>とにかく不思議だ。昨日の記憶も想い出すのに時間がかかる。恋人に会ったのが昨日のようで遠い昔のようにも想えて、それとなく確認すると「一週間前だよ」と言われて驚愕してしまう。
そのようにとても美しいメッセージを記せるのは、あなたが己の生というものを直視することができるようになったからだね。
はじめは儚さしかない。何かに触れようとしてもそれは何も触れておらず、ただ思い出だけがここにあることを知ってしまうからだ。
それは己の存在もそうであり、この口から話しているのは私ではなく、人間世界という幻想であることに気づく。また儚いという気持ちさえもそうなのだ。
だけどもだんだん受け容れられるようになってくると「世界」とはすべて己に委ねられていることに気付き始める。
人間世界という中で、自ら選択し、愛していくこと。たとえば誰が見ていなくても、倒れている自転車を起こしたり、轢かれた動物を端へ移動してやって手を合わせてあげること、そうした自発的な活動に切り替わっていく。
するとそうした損得勘定や他者の目を意識した行為でない自然的な動き、すなわち「無抵抗な行為」は「人間世界を超えた流れ」がそのままに現れていることを感じるようになる。
この人の世とは表面的なものだ。だからといっておざなりにするものではないし、人の世ゆえの「理解できる豊かさ」が溢れている。理解する己もこの世のものだからね。
だから仕事をしたり支払いをしたり、映画館のスケジュールを楽しみにしたり、お洒落な音楽を流したり、そうして世間の仕組みに生きながら「思い出」を楽しめばよいのだ。
大事なのは楽しむこと、楽しいという気持ちこそが、大いなる流れの本質にあるのだから。
素晴らしいメッセージだったよ。こちらこそありがとう。
自分さん返信ありがとうございます。
僕の世界は、すべてが優しさで包まれています。意識を内に向ければ、目の前に広がるすべては優しさに包まれる。小さな会社をしていまして、その事に気付いた頃から会社があまりうまくいかなくなりました。複雑な家庭環境で生まれ育ったのもあってか、お金に対していろいろなものが付着する人生を送ってきました。すべての背後にある“それ”に気付いて、いまはフラットになれた気がして今後会社がどの方向に進もうとも、どこか他人事でどちらでもいいような気がして楽しめそうな軽さでいます。そんな世界を愛おしくも感じています。思い出を楽しみ、感じるままに生きていきます。いま幸せです。本当にありがとう。
oldfriendさん
こちらこそありがとう。
>その事に気付いた頃から会社があまりうまくいかなくなりました。
瞑想的な生き方をはじめると、しばらくは不都合なことが立て続けに起きているように感じられる。それはこれまでエゴが不都合から目を逸らそうとする心理的なバイアスがかかっていたからだ。
だが実際は何も現状は変わっておらず、意識がただ気づかぬ振りをして(もちろん無意識は気づいている)対処していたにすぎない。ゆえに釈然としない妙に重い気分が続いていたのだよ。
つまり人は出来事について幸福や不幸、成功や失敗といった具合に揺さぶられ続けるけども、すべては「どの立場から見ているか」であって、起きていることは同じなのだ。
さて会社についてなんだけども「表面」と「仕組み」の2つの構造が並行していることを覚えておくといい。この世のあらゆるすべてが、この2層構造にある。生命の神秘などもそうであるし、意識と無意識の関係もそうだ。宇宙の原理となる。
表面というのは見かけのことだ。あなたの会社でいうならば目に見えるもの、業務や数字、設備、従業員などのことだ。そして仕組みというのは、時計でいう蓋を開けた中身のこと、構造や組成、自社の経済的意味、社会との関わりや構成、需給などの経済全体を意味する。
重要なのは「仕組み」のほうであって、本来は見えない部分だから理解を切り替えるには時間がかかるが(包括的な視座と知識が幅広くなるほどどんどん見えていく)、「仕組み」を理解すれば、職種や社内的な業績とは上辺にまとう服にすぎないことがみえてくる。
巨大な流れのごく一部分をあなたは担当しているだけなのである。
いやもちろん業績は保持しなければだめだろうけども、表面だけで何をしようとしてもすぐに限界にぶつかってしまうだろう。だが仕組みの世界は無限の地平が広がっているのだ。
つまり見かけ上の物事がいかにして動いているのか、また会社に起こる様々な結果はどのようにしてなされるのか、ということだね。だがすべては実は結果ではなく「経過」であることに気づいたなら理解は早くなる。
あなたの会社の事情はわからないが、まだ現状を保てる余裕があるならば「仕組み」の側を探求してみるといい。現実に対する感覚はより深まるようになる。
ダイレクトに流れを捉えられるから、現実を変えていこうという意欲にもつながっていくはずだ。詳しい話はまた手記にしておくよ。
もちろん瞑想的なスタンスを忘れないことだ。
自分さん、ありがとうございます。
あれから「仕組み」について意識していたら会社のミーティングで役員が「仕組み」について話していました。そして不思議なことにマーケティングに長けている人材にも恵まれ“楽しそうだから”とただそれだけの理由で、傾きかけた会社に入ってくれました。目の前で起きるすべては僕の信念。今回の事で理解もより深まりました。瞑想的なスタンスを忘れず、愛のなかこの波に乗ってテイクオフしていきます。「仕組み」の手記も楽しみにしていますね。ありがとうございます。
oldfriendさん
>「仕組み」の手記も楽しみにしていますね。ありがとうございます。
こちらこそありがとう。詳しい話はまた手記にするけども、先の返信でも話したようにすべてが二重構造にある。いま手持ちのスマホもそうだね。機械という仕組みがあって、画面上にコンテンツが表示される。
だがスマホを端末としてみた場合、今度はこの機械自体が表層となり、インターネットや商品流通といったさらに「大きな仕組み」が現れる。また関わってくる要素も膨大かつ多様になる。
こうして入れ子構造的に「仕組み」は抽象化していく。
これは言いかえれば、自分がいま見ている現実世界とは「どの尺度でそれを捉えているか」だけの話であって、常に全体は複雑に絡み合いながら動き続けているということだ。
つまりあなたはビジネスをしているが、それは見方(尺度)を変えれば、まったく別のことをやっていることになる。
このことに気づけば、仮に何らかの問題に直面してもそれは「その尺度においての袋小路」なのであって、まったくの別のアプローチによって捉え直すことができるようになる。
よく「大局を見る」という言い回しがあるけども、通常いま自分が関わっている尺度までしか人は抽象化できない。そうではなく、完全に飛び越えた領域にまで自己意識を拡大すること、例えるなら様々な人間ドラマが起こる地球を包み込んでいる宇宙空間のようであることが大事なのだ。
そうしてすべてを包含する「最も大きな枠組み」まで上昇すれば、人間そのものの二重構造が見えてくる。それがよく手記で表す「大いなる流れ」と「言葉の世界」との構造となる。宗教的な言いかたをすれば「聖と俗」となる。
言葉の世界のなかに、あなたの会社や、恋愛や、暮らしなどがある。つまり「この世」がある。よって私たちが現実としてみているのは、すべて言葉の構造(この場合は言葉が「仕組み」)の上に成り立っている「表面」となるわけだ。
だから究極的にいえば、この「俗」の世界、すなわち現実世界のあらゆるすべては、その「仕組み」である言葉を操ることに他ならない。
それはあなた自身が「心で発する言葉のこと」であり、つまり心の言葉によってこの世はいくらでも変わることを意味する。
その自覚を持っているとき、あなたの自己意識は「大いなる流れ」と共にある。なぜなら言葉のレベルを自在に扱うということは、それはもはや「仕組み」ではないからだ。