殺す自分と殺される自分のパラドクス

人生は世界と必ず関わっていることになる。それは他者(他人や物など)と関わることが不可分であること、言いかえれば「関わること」が人生そのものであり、関わりがなければ己はそもそも存在していないということだ。

しかし「関わり」とはなんだろう?

たとえば社会に出て生活を背負い、他者との対立が増えてくるほど、孤立した自分はより浮き彫りになっていく。

やがてこのように思い始める。

どうして自分はこんなに孤立しているのか。だから人が恋しい。あれが欲しい。幸せになりたい。切り離されて冷え切ってしまったハートを温めて欲しい。


そうした己の孤立ゆえに、他人も自分と同じなんだという前提で人と関わるようになる。だから他人を羨望したりする。「あの人は”自分よりも”うまくやっているなあ」とね。

またその前提(バイアス)ゆえに、他人を憎んだりする。それは自分に置き換えた基準で、”自分なら決してしないような行為”をその他人がしていると捉えるからだ。

だが羨望にしろ憎悪にしろ、こうしたすべては結局のところ、他人を「許せていない」ということにある。「自分だけが孤独であり、あいつらは好き勝手にやってる。どうせ生まれや育ちが幸運だったからだ。たまたま運が良かったからだ」という思いに駆られている。

この「許せない」という通念が、実は現代社会の「自由」とされているものの根底にある。

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