無所有を生きるとは

古代からよくいわれるのは
「無所有であれ」ということだろう

キリスト教や仏教でも
ヒンドゥー教でもジャイナ教でも
“持ち物”は手放せといわれる

つまり私たちは裸で生まれてきたわけで
そもそも何も持っていないのだから、とね

禅ではこれを「本来無一物」というのだけども
たとえば聖書にしても
至るところで記されている

──

もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、私に従いなさい。

金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。

(マタイによる福音書 19:21-24)

自分の持ち物を一切すてないならば、あなたがたのだれ一人として、わたしの弟子ではありえない。

(ルカによる福音書 14:33)

──

つまり平安の世界である”神の国”に入るには
地上で所有しているものは
すべて手放さなければならない

また叙事詩マハーバーラタのなかの
バガヴァッドギーターにおいては
無所有においてこそ最高神との合一が
成されることになる

──

何ものにも執着しない知性を持ち、自己を克服し、願望を離れた人は、放擲により、行為の超越の、最高の成就に達する。

(バガヴァッドギーター 18章49節)

──

無所有とは無執着のことでもあるわけだが
その無執着な心のあり方こそが本来無一物
すなわち、私たちの本来あるべき姿となる

そしてこの「本来の姿」であるときこそ
仏性、神の国、梵我一如など
宗教によって表現はさまざまだが
同じところに達することになるわけだ

それこそが本来の私たちの生であり
つまり日頃求めていた心の平安や幸福というのは
遠くに探さずともいつもあったのだと
ようやく気づくことになる

 

見かけと本質

では無所有に生きるとは
実際にはどのようにあればよいのだろうか

聖人と呼ばれた人々のなかには
教典を文字通りに従い
人間的な生活そのものを捨て去ることも多くあった

清貧を貫くような感じだね

しかも物的な財産だけでなく
神についてあれこれ思案することさえも
捨て去るという徹底した人もいた

だから貧しさだけでなく
あえて無学な者でなければなかった

神はただここにあり
その信仰だけでいいのだとね

実際釈迦も弟子たちには
出家をしてすべてを捨てて
托鉢だけで生きていけと教えていた

ところがそうした
“見かけとしての無所有”は
かならずどこかで矛盾することになる

なぜなら信仰に依りすがっていること自体
すでに執着であるからだ

また食べることや
寒さを凌ぐために布を纏うことも
人間からしてみれば生きる執着といえる

食べ物は野生の動物たちとは違って
生のままでは人間の体は処理できず
なにかしらの調理をしなければならないし
生まれながらに毛皮に覆われているわけでもない

仮にそれらを乗り切ろうとするのは
自分の影から逃げようとすることに等しく
結局は執着する己を抑圧しているだけの
忍耐でしかないことになるだろう

それゆえに特にキリスト教に顕著だけども
聖人と呼ばれた多くは
神なる世界と人間の世界の狭間で
苦しみ続けていた

じゃあそんなことを
釈迦やイエスは説いていたのかといえば
もちろんそうじゃない

だから観点を変える必要がある

そもそもこの世は幻であるという釈迦が
「かならず出家をして托鉢でなければならない」
と決めつけているのもおかしな話だからね

つまりそうした修行はすべて”方便”であって
私たちが本来のあり方を思い出すための
きっかけとして提案されていたものだったんだ

 

裸であるということ

では肉体として生きながら
そして信仰や観想を心の柱にしながら
どのようにして裸のままの己であり続けて
無所有を成し遂げればいいのか

それはこういうことだ

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