神あそび

妻の知人のまた知人になるのだけども
悪縁を切って良縁を結んでくれるという
有名な神社にお参りにいったそうで

というのは
職場に新しく配属されてきた上司と
折り合いが悪くて

それまで楽しかった勤務が
まったくうんざりするものになり

その上司をどこかへ吹き飛ばしてもらおう、
そして違う上司にきてほしいという
願いを掛けたわけだ

ところがまもなく
会社そのものが倒産して無職になり
子どもを抱えている身ゆえに
不安な日々を過ごしていたとき

これまで絶対に選ばなかった職種に
藁にもすがる思いで入社が決まった

するとそこは以前やりがいを感じていた
まさにそのままの雰囲気で
上司も同僚も輝いていて
さらには以前よりも通勤が近くなったりで
毎日が楽しく過ごせてるということだった

 

古いものと新しいもの

まあそんな話を妻たちが話してるのを
聞いていたんだけども

実際、良縁が結ばれるには
悪縁が切られなければならない

良縁が結ばれるとは新しい秩序の形成であり
悪縁が切れるとは古い秩序の崩壊にある

古いものと新しいものは同時に存在できない

なぜなら古いもののなかで
いくら新しいものを積み上げたところで
それは古いものに支配された価値観や考え方によって
なされていることだからだ

つまり破壊と生成は”同じ”であり
ちょうど先日コメント欄でも話したが
世界の各地で古くからの伝承として
同様の”神様”が祀られてきた

たとえば奉納というのは
神仏を楽しませ鎮めるために供物を供えたり
唱歌や舞踊や演劇などの芸能を
“神前”で演じたりすることにある

「神楽」ともいうが
古くは「神あそび」とも呼ばれていた

またいまからすれば野蛮な文化に思えるが
供犠(生贄や犠牲を差し出すこと)も
世界のあちこちで頻繁に行われていた

たしかにお供えや神楽は
神様のご機嫌を取ることで
願いを叶えてもらうみたいな印象にあるけども

実際はそうではなくて
供物や生贄というのは
いま持ってるものを手放すことで
その空っぽになったスペースに
新しいものがやってくるということなんだ

神様はギブアンドテイクではない
ということだね

イエスも
「持ち物を捨てなければ天の国に入れない」
と言ってたのは

いま己が握りしめている信念がある限りは
その信念に依拠した人生の方法論しかみえてこない
ということにある

そしてまた歌って舞って演ずる神事芸能も
それらは日常の人間の世界を捨てて
現実的な階級や立場といった
古い関係世界がリセットされ
まったくの新たな自分の役割をはじめることで

日々信念に縛り付けられている魂が
解放される”まさにそのこと”に
楽しさや喜びが湧き起きてくるわけだ

 

“神前”とはどういう場所か

西洋でも単なる無礼講の域を超えて
貴族や平民といった日頃の社会関係が無きものとなり
みんながみんなで笑い合った特定の日があった

サトゥルヌス祭なんかは有名だが
それは本当は階級や運命などありはしないが
人間としてあるがゆえに
ただその定めを全うしているだけだということ
つまり日頃こそ演技の世界に埋没していることへの
逆説的な気づきにある

これは自他の優劣関係としてではなく
己のなかに刻まれた”世界の観念”そのものから
解放されるということだ

こうした宗教的な行事は
(つまり”お祭り”と呼ばれるものすべては)
死と生まれ変わりの交点を意味している

ハロウィン祭の原型のひとつだった
ケルトのサウィン祭に代表されるように

この世とあの世は並行しており
“永遠の円環”のなかで
人間ははじまりと終わりをみているのだと気づかせる
死生観が表現されたものとなる

つまり私たちは自然という流れのなかで
己が握りしめた信念の世界を夢見ているにすぎない

当然その世界が苦しいならば
その手を離さなければならない

自ら握った世界のなかを彷徨っていることに気づかず
どれだけ人生の答えや解決を探してみても
それはなんの”解消”にもならないわけだ

むしろ世界の崩壊を恐れるばかりだろう

それは近代以降、人間が寄りかかるものが
科学的な思考を主体とする結果主義へと時代が変わり
神は人間によって追い出されてしまったからにある

それゆえ現代の私たちは
信念をリセットすることの意味が
理解できないものになっているが
それ以上の不幸はないだろう

前述のとおり人生は”運命”に閉じ込められ
敵や罠だらけのなかで
解決を求めて戦い続けなければならないからだ

もちろん信念世界を楽しめることが
創造の喜びであるけども

しかしそうして真に楽しめるのは
「神あそび」として眺められてなければならない

つまりこの世の何者かではなく
あの世の何者かとしてその”神前”に
この日々がみつめられているとき
悪縁も良縁もなかったのだとわかる

話をもどしてみれば
悪縁を切るということは
その信念世界の一部を変えるということではない

“神様”は一挙にすべてを変えるからだ

その人は上司との縁を切って
毎日を立て直そうしていたが
立て直そうとしている毎日と縁が切れた

だから願掛けというのは

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