あなたの世界について

最近の手記の通り
例えるならば「意識」とは水中のことだ

意識は水の中で観念というカタチを見ている
その観念という対象を相手にしながら
あなたは人生を進めている

つまり観念を取っ払うと
あなたの世界にあるものは
すべて同じ中身であることがわかる

つまり水だ

さてここで楽しい話がある

四角形というものがあるね
角が四つ

当然あなたの知っている四角形が
イメージできるだろう

いいかい
それが観念だ

わたしのイメージする四角形は
あなたのそれとはまるで違う形状となる

あなたからすれば
「それは四角形ではない」というはずだ
「だって角が4つないでしょう」
それがあなたの主張となる

だが私は言う

「いいや、どこをどうみても
ちゃんと「角は4つ」ある」

「あなたの方こそ
それは角が4つとは言わないのでないかね?」

私がそのように言い出せば
あなたはこのトリックが見えてくる

図に書いてみても
あなたにはそれが四角形に見えるし
私にもそれが四角形に見える

だがあなたが私の世界に入ることがあれば
それは四角形なんてものじゃない
それどころか「図に書いている」ということすら
なんだかおかしい様子が起こっている

そう、同じものを見ていても
人それぞれ映るものはまるで違うのだ
たとえ「角が4つ」という定義を与えていても
その定義すら観念であり
定義が定義として成り立たないのだ

これは人間も同じ

頭があって腕と脚が2本ずつ
その定義は同じだが
見えている姿はまるで違う

あなたの世界の2本と
わたしの世界の2本は
まったく違うものだ
数という概念も観念だから
そもそもの基礎からして異次元的となる

あなたが他人の世界に入れば
そこは魑魅魍魎の世界だ
見たことのない生物が蠢いている光景
誰かがあなたの世界にきても同じ

あなたはその世界で育ってきた
だから何の不思議もなくそこにいる
それが「観念」というもの

でも、日本で暮らすあなたと
アフリカの貧困地域で暮らす子供たちは
世界観が違う、という話ではないよ

「日本の暮らしと貧困地域の暮らしは違う」
その認識のことが「観念」なのだ

それはあなたの世界の出来事だ
その話を含んだトータルな世界が「あなたの観念」となる

あなたの観念の中では
アフリカの貧困地域は大変なのだろう
だがそれはあなたの観念だということだよ

ゆえに、
「世の中では不幸な事件がたくさんあります」
「それでも幸せでいろというのですか?」
そのようにあなたは言うが

その世の中の不幸な事件も、あなたのものだ
すべてあなたの中に起きているもの

だから世界の中がどうなのではなく
あなたの世界と
わたしの世界は違う、ということが前提にある
“世界単位”で自分自身を捉えてみなさい

だいたいわかってきたかね?

 

自分の顔

さらにホットな話だ
今度はあなたの世界に限定しよう

あなたが自分の顔を写真で見る
だが写真は真実を写すことはできない
なぜならば写真を見た時点で
あなたの観念が投影されるからだ
鏡も同じ

つまりあなたは
自分の顔を知らないのだよ

ルックスにコンプレックスがあるならば
それはルックスにコンプレックスがあるのではなく
コンプレックスがあるから
ルックスがそのようになるのだ

もちろん「写真」というもの自体も観念だ
「顔」もそうだ
すべて観念だが
そこに行き着くと
話が「内容」を失ってしまう

観念とは内容のことだからね

人間とか顔とか
そういう「観念」をもとに話をしているが
その観念すらも己のものであり
自分の世界を離れると
人間などいないことは明白だ
あなたの世界は
私のところでいう「虫の世界」かもしれない
そういう「何か」すらもないかもしれない
生物という概念もなく
こちらでいうところの
胎内的なものかもしれない

言葉も「四角形の図」と同じく
あなたの世界で観念として変換される
そうして世界は独自の様相を築きあげている

あなたの世界がどのように見えているか
それはあなただけにしか知らない

それはわからない
知りようがない

あなたに「知る」が起こり
その世界の中の「涅槃の書」にアクセスをした
それは私の知っているものとは
えらくかけ離れたものだろう

だがその幻想が起こっている元の空間
それは私も同じものだ
もとの意識はひとつ

違うのは「あなたを含めた観念世界」だ

その世界はあなただけのもの
だから「他者」はいないのだよ
あなたがそのように”水”を見ているだけだ
あなたの見方が変わるとき
つまり新しい観念を持つとき
それまでの全てが変わっていく

世界はあなたの「見方」だけでできているのだよ

 

観念が”この世”である

もとが同じだということは
幻想に囚われていないときにわかる

幻想ではない空間があることを知るから
幻想を幻想だと見破ることができるのだよ

そうしたときに
目の前の「本」も「暑い」も
中身は同じものだったのだとわかる
私とあなたも”同じもの”だったともわかる
すべてのカラクリが解けてしまう

だが世界は観念が基本ルールとなる

例えば仏教では托鉢をする
物乞いのことだ

食っていくためには物乞いをする
それはなぜかといえば
釈迦が王族だったからだ
彼は働いたことがない
働くという概念のない世界で生きていた
修行中もごく自然と”托鉢”の世界が起こっていた

だから彼にとって
飯を食うということは
誰かにもらう、という観念がある
それは彼にとってごく当たり前のことなのだ

だから悟りを開いた後も
その観念のルールに沿った世界を生きる

他の覚者、例えばカビールという人がいた
彼は織物工だった
開眼したあとは、
“ごく普通に”織物を売って生計を立てていた

つまり観念がその通りの世界を浮かばせる
観念=この世なのだ
だから観念が捨て去られる、とは死を意味する
(死すら観念だが話が長くなるので
今回は置いておこう)

つまり釈迦は
「食っていくなら‥やっぱ物乞いしかないよね」
そのようにごく普通に
選ぶもなにも
それで当たり前として、そうしたのだ

あなたにも特質がある
それは環境、
つまりどういう観念に生きているかで決まる

それに沿えば循環に流れるようになる
つまりスムーズな人生となる

あなた的には釈迦が織物工として
食っていってもいいのだろうが
彼の中に「何かを作って提供して食う」という
観念がないから
その発想は決して浮かばない
そのような循環も起こらない
彼にその世界は起こらないということ

あなたが世界的な富豪の家に生まれてきたならば
何もしなくとも食っていけるだろう
だが庶民の家に生まれていれば
何かをしなくては食ってはいけない

それらはごくシンプルな循環の現れなのだ

だが「なんで金持ちの家に生まれてこなかったんだろう」
そういう思いに駆られること自体が
あなたの観念に則していないことであり
つまり、苦となる

働けばいいのだよ
そうすることで食っていけるのだから

それがあなたの世界ならば、そうなのだ

このように観念の上に”この世”があり、生がある
だが観念はひとつの大きな意識(水中)に想起されている

仏教はウイットに富んでいて
よく「観念しなさい」というが
あれは観念を見破れということだ

どうだい?
まだ何か悩むことがあるかね?

 

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  1. ガルシア より:

    コメント欄を拝見していると、私も含め、いかに各々が各々の“世界”で生きているのかがわかりますね。

    • 自分 -涅槃- より:

      ガルシアさん

      だが最も重要なのは
      あなたを含め、
      そうした各々の世界を生きているという
      その世界を見ている「あなた」がいるということだよ

      つまり他者とは
      あなたの中なのだ

      これに気が付けば
      あなたが他者に対する見方が変わる
      すると世界が変わっていく

    • ガルシア より:

      本当だ。
      そこまで思い至りませんでした。
      何だか私自身から返答をもらった気持ちです。
      ありがとう。

      数日前、また「実在しない」の感覚が現れて、私は号泣してしまいました。
      「どうしよう、実在しない。どうしよう」という混乱がありました。
      自分のせいで皆を殺してしまったかのような気持ちでした。

      その何日か前、「すべては自分が見せている」のイメージをかすかに感じたときも似たような状態になりました。
      「何のために?何のために?」と混乱して泣いていました。

      今回いただいた自分さんのご返信を繰り返し読んでいたら、またボロボロと涙が出てきました。
      認めたくないことを突きつけられたような感覚でしょうか。

      私は、自分が視野の狭い反応をしていると感じています。
      ものすごく怖がっていると感じています。

      なので昨日などは、恐怖を感じると「ここはあなたの世界」の三行を繰り返し思い出して自分を取り戻していました。

      感謝しています。
      ありがとう。

    • 自分 -涅槃- より:

      ガルシアさん

      自分が世界を見ているという一方性を捨てなさい
      あなたが見ているとき
      それはあなたが見ているのではなく
      あちらがあなたを見ているのだ

      すべての五感もそう

      あなたが見たり聞いたり味わったりしているのではない
      それに気が付けば

      「なんの為に?」という永遠の問いは消える
      つまり、あなたという幻想は消える

  2. より:

    なるほどね。どっちかと言うと私はやや釈迦寄りの環境なんだよな。
    だからサラリーマンは苦痛でしょうがないし、『プロフェッショナル仕事の流儀』とか見ると、自分の存在を否定されているような気がして気持ちが悪くなる。
    逆に南方熊楠とか伊藤若冲とかセザンヌとかの人生(環境)を見ると非常に共感する所が多い。
    要するに実家の遺産で生活し、好きなことを追求して生きていった人たちである。

  3. より:

    我ながらサラリーマンに必要な資質「気が利く」が皆無なんだよね。
    無い観念は無いのだ。
    無い観念を新たに生み出すって凄い労力がいるよね。
    涅槃の書にたどり着くのは、ある意味当然で、祖父が哲学者で、子供の頃から祖父との会話で、このような観念の形成が既に成されていた訳です。そうでない人が涅槃の書にたどり着くのは、かなり難しいでしょう。
    逆に、私は車とか野球とか近代スポーツに関する観念が抜け落ちているので、自分の乗っている車の名前しか知らないし、野球やサッカーの話が全く出来ない。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      大事なのは
      あなたが参照とした情報ですら
      あなたの世界に起きた現象であるということだ

      つまり
      あなたは一人芝居を続けている

      出来事が起こる度に何かに気が付く
      それは永遠なる自打球だ

      だから
      すべては自分の中にあるということ
      そこに到達すれば
      あなたのジレンマは一掃される

  4. 悠久 より:

    もしかしたら自分もそうなのかもしれない。

    今の稼ぎの手段は、
    自分は仕事とは思っていないものです(外国では職業の種類として認められているそうですが)。

    過去にアルバイトはしようとした時はありましたが、受かることはありませんでした。

    これから先にも何か職につくとは思えないです。
    憧れていた時期はありましたが、
    何か心の深い部分で望んでいたのは今のような生活だと気づきました。

    それまでの、こうなりたいという憧れは周りからの影響だったようです。
    それに何年も気づかないで、
    本気で心から望んでいるように思っていたのは不思議です。
    自分の家族や周りの人のように『大手企業』『医者』など、社会的地位のようなもので他者から称賛されたいと思っていたということです。

    最近は、自分の本来の望み(?)、自分の性質に合ってるような状況を得ていることに気づき、あえて何かを欲しようとは思わなくなってきました。

    それでいても、風景は知らない間にどんどんと変わっていていきますね。
    こっちから勢いづける必要がないことにも気づきました。

    とりあえずこのまま、
    自分をのんびり楽しんでいようと思います。

    • 自分 -涅槃- より:

      悠久さん

      その通り
      それが社会的な体裁が前提であろうと
      個人的な欲求を満たそうとするものであろうと
      すべてはあなたに蓄積された経験から来るものだ

      大事なのは
      「これは外からのものだから」と判断しないことだよ

      それを判断しているのは誰なのだろう
      それがエゴだ
      エゴはあなたを迷わせ
      あらゆる障害と達成のループを無限に作り出す

      いいかい
      すべてが「外からのもの」だ
      だから何が来ても”それをその通り”に対応していくだけでいい
      それが「自分自身を生きる」ということとなる

      あなたは多くのことを経験し
      すべてに疑問を持ってきた

      疑問を持つことの不条理を越えて
      いまその疑問を得ている
      それでいい

      釈迦は摩訶不思議という言葉を使った
      不思議とは、思議、考えることが
      不可能であるということだ

      つまり考えることは意味をなさず
      それを超えた世界がそこにあるということ

      そのまま世界に対応していきなさい
      「あなたが見せようとしているもの」を
      見なさい

  5. より:

    この会話、この理解すら私の自作自演。なんにもない世界。素粒子の海に置いて、世界を心の中に描き、素粒子の海に投影する。
    全ては私が心の中に描いた絵でしかない。
    父も母も釈迦も涅槃の書も私の作品であり、自己催眠にて、内容があるように見ているのだと。

  6. より:

    上司と父親は、大体同じ観念を投影している。
    観念のバリエーションも何パターンかしかないものなようだ。
    フロイト、患者は医者に父親に対する感情を投影してくる(転移)ので、それが治療のきっかけになると考えたとか。
    釈迦の話だと悟った後も観念は作動するのだと。
    すると、上司や父親と仲が悪い人は悟った後も上司や父親と仲が悪いのでしょうかね。
    彼はそれが自作自演だと気が付いているでしょうが、気が付いていたとしてもなお、その役をやり続けなくてはならないのだろうか。
    釈迦が托鉢し続けたように。
    カルマは作動し続けるが、悟ると、托鉢する人を見てる次元に立っているので、どんな世界だろうと気にならないと言う事なのかな。

    • 自分 -涅槃- より:

      鯤さん

      >どんな世界だろうと気にならないと言う事なのかな。
      観念を観念として見ることになる

      例えば
      「いまわたしは椅子に座りコーヒーを飲みながら
      Macでコメント返信している」

      その表現が消える

      わたし
      椅子
      座り
      コーヒー
      飲み
      Mac
      コメント返信
      している

      それらはすべて中身を持たないものだ
      わたしが知識として
      それを投影しているに過ぎない

      では実際何が起こっているのかといえば

      名前もない体験

      ただそれだけが
      流れている

      各所に名前を付ければ
      わたしやら椅子、Macとなるが
      それらを外してみれば
      すべて消える

      すべて消えるが
      消えることのできないものだけが残る

      あなたがそれだけを知るとき
      人生がどうであろうが
      何をやっていようが
      すべてはただの表面だったとなる
      つまり観念は観念だと知るのだ

  7. ONEPOINT より:

    今年に入って精神的な苦しさから
    脱し始めたと思ったらやらなければ
    いけないことが増えてきた。
    まるで骨折した足が完全に良くなってないのに
    歩かされているような。
    正直言って時期尚早だと思うことがあるが
    私が世界そのものなら「時期尚早」というのは
    有り得ないのですよね?

    • 自分 -涅槃- より:

      ONEPOINTさん

      やらなければならないこと、
      その解釈からあなたの意識の向きがわかる

      自分の側に向けなさい

      その「やること」を
      達成したらどうなるか、とか
      できなければどうなるか、

      そんなことに意識を向けてはならない
      自分にだけ向けなさい

      物事はすべて同じだ
      全部同じグレードで並べてる

      あなたに光が灯されているとき
      「選ぶこと」も消える
      その必要がなくなるからだ

  8. M より:

    自分さんこんにちは。
    最近の観念の話も『あちらも見てる』も難しくて世界=私が見せたものに応えるも訳が分からなくなりそうでした。世界が何か言ってる感じは分かったけど、目の前の椅子があちらも見てるとは何度やっても分かりません。

    見る話は難しいので観念の方は、

    つまり観念がその通りの世界を浮かばせる
    観念=この世なのだ

    釈迦の観念って独特…
    あなたにも特質がある→確かに。結構強く出てる観念ある。

    それは環境、
    つまりどういう観念に生きているかで決まる
    →この強い観念実は気に入ってる

    それに沿えば循環に流れるようになる
    つまりスムーズな人生となる

    なんかつまづいた時には何か変えなきゃ、どれ変えるの?性格?趣味嗜好?観念⁇何それやり方分からない…とかなるんですけど、乗ってる時はお気に入りの観念やってるんでしょうね。
    つまづいた時はこのお気に入りの観念が不幸の元かのようにしてました。

    それに沿えば循環に流れるようになる
    つまりスムーズな人生となる

    私が不幸な時はお気に入りの観念の逆を行く。不幸が来たからそうなったと思ってたけど、幸も不幸もなくて、何か起こった時にお気に入りの観念の逆の反応をした時は停滞する気がします。そして違うネガティヴな観念を追加させていく。
    まとまりのないコメントですみません。書いて整理してる感じです。

  9. 自分 -涅槃- より:

    Mさん

    こんにちは

    理屈でいえば
    あなたの解釈の通りでいいのだろう
    それはあなたのものだ

    この3行で悟れるかね?

  10. M→A より:

    こんにちは。お返事ありがとうございます。私の前に既にMさんがいらっしゃいましたのでAに改名します。
    Mさん気づかずに失礼しました。

    分かるような分からないような感じですがきっとシンプルだと思いますので3行でしかないのでしょうね。だって私の世界だから。
    自分さんにそれで大丈夫と言って欲しいだけなのでしょうね。私にとってはそのお気に入りの観念ただ楽しいとか、当たり前の事で自然なんだと気付いたのは良かったです。
    ありがとうございました。

    • 自分 -涅槃- より:

      Aさん

      少し遠回し的に聞こえるだろうけども
      これがその通りの返答だよ

      まず、あなたがそうならばそうなのだ
      あなたの世界はあなたしか知らない
      それが未解決のものであろうと
      疑問であろうとも
      すべてあなたの世界観だ

      同じ料理を食べても
      あなたと私ではすべてが違う

      あなたは料理について感想を述べる
      私も料理について感想を述べる

      だがそれは各々が自分の話をしているだけであり
      料理そのものについて語ることはできない

      あなたが楽しい世界であれば
      それが謎のままであってもいいのだよ
      「謎」という楽しさがそこにある

      答えを探すことはやめなさい
      それは人生において
      どのようなことでもだ

      答えを探そうとする限り
      あなたは迷路にはまる

      いいかい
      あなたが楽しければ楽しいのだ

      誰かが徒党を組んであなたのことを
      笑っていたとしても
      彼らが笑っているだけで
      あなたが笑っているのではない

      料理の話と同じ
      誰もが自分の話しかできないのだよ

      他人があなたに何かを言うことはできない
      あなたに影響を与えることはできないのだよ

      もしあなたが誰かの言葉に嫌な気分になったら
      それは自分が自分でそうしているだけなのだ

      だから自分が自分で世界を楽しみなさい
      それがスピリチュアルでよくいわれる
      「責任」というものだよ

  11. A より:

    はい。最近そう思える時が増えてきました。迷路もたまに入ってますがそれもナゾナゾだから答えを探さなくていい。
    釈迦って王族だったんですね。悟りを開いても物乞いって私の観念には多分出てきません。織物工も変わらない生活してたなら、私も開眼してもそうなんだと思ったら、乗ってる時大体そうなんだから、それで良かったんだなと思いました。確かに何が変わったんだと聞かれると特に変わってません。でも、好きにやればいいじゃんと思いました。ありがとうございます。

  12. A より:

    一連の流れから、あなたにはその概念持ってるんだから、逆らうな。
    その概念はたまたま楽しめるものでもあるから、素直に楽しんでいろって思いました。
    しかも、私この概念自然に持ってるってラッキーとか呑気になれました。

    • 自分 -涅槃- より:

      Aさん

      もし世界にあなたしか
      人間がいないとすれば
      あなたはどのような生き方をするだろう?

      それをいまからやりなさい

      それをやる以外に
      あなたが選ぶ道はないのだよ

  13. A より:

    第一声エゴが、化粧の楽しみは?オシャレの楽しみは⁈そんなの無理!って騒いでます。
    我ながらそこなんだ…あなた恋したいっていつも騒いでたじゃない。

    私には難しすぎます。
    全ては私だけの世界の事でしょうか…

    何も考えれずただ友達の顔や周りの人達、旅行、楽しい事や他者とあった苦い思いまでも無いのが素直に寂しいです。何をして良いのか呆然としてしまうと思います。
    ただ、私の中に楽しいって結構あるのだなと思いました。今は軽くて呑気になれてるが大小悩みがあっても大した事じゃ無い。
    自分さんの仰ってる事とはかけ離れてしまっていると思いますが、寂しくなり、今に感謝が湧きました。
    もう一つのコメントもありがとうございます。やってみます。

    • 自分 -涅槃- より:

      Aさん

      新しい手記にも書いたが
      起こる出来事に囚われてはならないよ

      あなたはそれらの出来事を見る人だ
      映画館の観客席にいる
      すべての物事はあなたの心が生み出している
      つまり
      そこに不足を感じれば
      不足がおこる
      満足を感じれば
      満たされる

  14. A より:

    自分さんこんにちは

    人生を服としてみるを読んでみて、昨日頭に浮かんだ友達やら周りの人達はみんな自分、好きになれなかった相手も自分。自分が何か言ってきている。

    昨日頂いたコメントがあまりにも無理そうだったので少し凹みましたが回復しました。ちょっと人間がいないという言葉に反応し過ぎました。幻想なんだという事ですね。幻想の世界ならば焦ったり凹んだりしても意味ありませんね。
    昨日からの一喜一憂がなんか久しぶりで、私何十年もこんな事してたんだなと思ったら友達から旅行の誘いが来たので楽しんできます。

    • 自分 -涅槃- より:

      Aさん

      いまあなたが疑問を持っていて
      その答えが見つかったとしよう
      その答えすらも幻想なのだよ

      その葛藤も幻想であり
      あなたも幻想だ

      肉体が生まれたときから幻想の中にいる
      その肉体が滅びるという幻想も起こる

      瞑想なり、色々な技法があるが
      それらを本当の意味で成し得るとき
      あなたはすべてが
      手のひらの上のドラマだったことがわかる

      大事なのは
      それら技法すらも幻想だと見破ることだ

      すべてを見切ったとき
      あなたは何も悩むことがなく
      そしてごく自然に暮らしていくだろう

コメント・質疑応答

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