神話と恋愛と死と

節分だね。スピリチュアルに心酔する人は、人間世界のすべてが幻想であることを根本的な理念にするから、こうした慣習的なものは排除する傾向にある。

仏像なんて捨ててしまえとか、正月だからって初詣に参加する必要ないとかね。

確かに執着することが不幸の根源となるのだけども、だが取り違えた理解に陥ってはならない。単に幻想だからと払い除けるのは、現実放棄と変わらない。この生という神秘を拒絶しているにすぎない。

大事なのはこの世が夢であると気づくからこそ、それを気軽に楽しむという本来あるべき姿勢を取り戻すこと、立ち返ることにある。

そもそもスピリチュアルだなんだといったところで「人生のなかでスピリチュアルと出会っている」ということを忘れてはならない。つまりそれさえも超えなければならないのだ。「悟り」はそれ自体を悟られねばならないのである。

ではどうやったら超えられるのか。

それは逆説的に達することができる。つまり先に話した通り、離脱した現実に再び舞い降りることにある。

1.

さて、私の家のすぐ近所に地元の大きな神社があって、今夜は厄払いの行事でたくさんの人々が訪れている。

神主が希望する参拝者の住所と名前を読み上げて、巫女が刀を手に舞を踊る。悪縁を断つという祈祷の儀式が行われる。

こうした「神聖な儀式」は太古より世界各地で、時空を超えてあらゆる文明に共通しているものだ。もちろんこのような儀式に科学的な効果の立証はない。逆に言えば、「立証がないから科学ではない」ということだ。

オカルトと非オカルトの境界線は、単に裏付けのカードがどれだけ揃えられているかどうかのことにすぎず、たまたま21世紀の現在において「裏付けがいまのところ”発明”されていない」ということでしかない。

もちろんそれが科学であろうが神話であろうが、どちらも「あなたの人生のなかに配置されているもの」であることに違いはない。

2.

人間の世界とはそれが物理法則であれ、社会科学であれ、経済であれ、すべて「概念の発明の世界」であり、どんなことも真実となる。

ゆえに自分の人生がぱっとしないだとか、また八方塞がりだとか、それは己自身が何も発明せず、既存の発明品ばかりに頼っているからに他ならない。

恋愛もそうだ。

「手を繋いでデート、告白、セックス」そんな定型化した恋愛なんていったい何を楽しんでいるというのだろう。同じことを延々と繰り返して、いったい何を体験しているというのだろうか。

そんな「己の発想ではないもの」に心血注がされて苦悶に喘いでいることに気づかなければならない。

3.

そもそも相手のことが「好き」という、その「好き」には、どれだけの規定されたパターンや予定調和のプロセスが仕組まれているのだろうか。そしてなぜそのプログラムにあなたは従わされてしまうのだろうか。

愛とは形式を超えたものだが、恋愛は形式的なゲームにすぎない。

愛という陽光の下で、その巨大な光に見守られたなかで、あなたは「既存のゴール」を目指して走っている。だが別にその脚を止めても愛の下にあるのだ。

ゆえに恋愛がうまくいかないというのは、あなた流の恋愛形式を開発していないからだ。だがその開発は、己の哲学、思想があってこそ生み出されるものであり、つまりはじめに「形式を超えた地点」にいなければ、恋愛の繰り返しには何の価値もない。ただの作業でしかない。

もちろんビジネスも日々の暮らしもすべて同じ話となる。新しい娯楽を買ってきてもすぐに飽きてしまうのは、その形式を超えた視点から遊ばないからだ。すぐに限界にぶつかってしまう。それはつまらないものだとしてしまう。音楽も絵画も散歩も料理も他者との交流も、みな同じ。

4.

よって重要なのはその「超えた領域」にあるわけだ。

なぜ科学的(経験・実証主義)な時代においてもなお、厄払いやその他の神話的儀式が続けられているのだろうか。確かに参拝者は年々減っているのかもしれない。あらゆる現実性は就寝前の布団のなかのスマホ画面に勝るものはないからね。

しかしそれでも私たちはこうした科学に頼り切ることの不安さを感じている。つまり形式というゲームに放り込まれていることに息苦しさを感じている。

それはなぜか。それは簡単だ。それは私たちがそもそも霊的な存在であるからだ。

私たち自身が「形式を超えた存在」であるからなのだ。

己の霊性を誰もが常に感じている。たとえばあなたはどうして「あなた」なのだろうか。なぜ別のひとではないのだろうか。死んだらどうなるのだろうか。

「自分が死ぬ」ということを考えれば考えるほど、その疑問は理解の枠をどんどんはみ出していくはずだ。

5.

しかし私たちが「現実」として当たり前に過ごしているこの社会からみれば、「死」はさほど重要なものではない扱いにある。社会という形式のなかで合理化され、簡単に片付けられるものになっている。

たとえば、死は成長や老いていくことなどと同じ系列に並べられた「単なる生物学的な現象」だとされる。小学生の教科書にさえそう書いてある。

また役所の戸籍係でいえば、死は出生届や婚姻届などと何ら違わない区分にすぎず、死亡届の引き出しに入れられる「部門のひとつ」でしかないし、新聞やテレビでは、有名人の誰々が死んだとかいうのは、番組の進行を埋める「一時的な素材」でしかない。

そのように見てみれば、死は別に大した神秘性もなく、よくある普通の出来事にすぎないようにみえる。

私も親しい人がたくさん死んでいったが、みんな同じパターンで流れていく。病気になって色々なことを悔やんだり感謝したりして、毎晩そうしていることと何の違いもないように、眠りに入るように世を去っていく。

あとは死亡時刻が宣言されて、役所と葬儀屋、保険屋の出番となる。お決まりの儀式があって、お決まりの墓参りをする。そうした一連のプロセスに、大して神秘なものはなにもない。

6.

だがなんだろうか。自分が死ぬということは、それらと同じようにやはり「分類」や「お決まりの物事」で片付けられる程度のことなのだろうか。

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