あなたが守られるためにすべての危険と災難がある

先日のことなんだけども
用事を済ませて車で帰っている途中で
コンビニに寄ったんだ

急ぎの買い物ではなくて
そのまま家に戻るつもりだったが

それでもなんとなく寄っておこうかなと
そんな気になったわけでね

で、コンビニの駐車場に停めて
店の入り口に入ろうとしたとき
異変に気づいた

エンジンを停めて離れているのに
まるで誰かがペダルを踏んでいるみたいに
ブレーキランプが点灯したままだった

 

偶然の選択に救われる

年式でいえば22年落ちのポンコツなので
もうあちこちが劣化や老朽していて
さすがにエンジンのプーリーが飛んだり
ドライブシャフトが破損したときは
整備工場にお願いしたが

軽微なトラブルはそのたびにその場で
構造と原因をスマホなりで調べて
対処できる部品や代わりになる材料を
カーショップやホームセンターで探しては
自ら修理してきた

おかげで知識だけでなく
部品や工具が徐々に常備されるようになり
同じトラブルは即座に対応できるようになったわけだが
今回話したいのはそんな修理のことではなくて

もしあのときコンビニに立ち寄らなければ
家のガレージでは気づかず
明日の朝にはバッテリーが上がって
より困難なことになっていただろうということにある

 

救い?

だがこうしたことは
あなたもたびたび経験してきただろう

「あのときそれをしてなきゃ
もっと大変なことになっていた」みたいなね

しかし本当に気づくべきなのは
さらに奥深いところにある

たしかにコンビニに寄らなければ
翌朝の私は往生していたことに違いがないから
コンビニ寄ったことは幸いであり
つまり救われたわけだが

それを手放しで喜ぶのは
何か重大なことを見落としているということだ

つまりその救いとは
そのトラブルに直面しているからこその救いであり
全体でみれば
何も救われていないということにある

本当に救われているならば
そもそも何のトラブルも起きていないからだ

しかし何のトラブルも起きてなければ
「救い」を実感することもなかった

その意味で「救い」というのは逆説的であり
そもそも救われていない場合においてのみ
経験することができるのだとわかる

 

“私”はなぜいるのか

たとえば私は
偶然の選択のたびにそれが功を成して
「ああ助かった、よかった」と
肩を撫で下ろしてきたわけで

何か大きなものに
導かれているかのように感じてきた

だが「トラブルがそもそもあるから救われた」という
“大元”に立ってみれば

私を導いているのは
愛と加護に満ちた神というより
もてあそんでいる悪魔だろう

しかし話しているように

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