人生の”正解”はそもそも選べない

尊敬したり憧れている人がいるなら
その人は自らの信念や判断を
全面的に信頼してきたからこそ
その姿がある

だがあなたからみて愚かな人も
同様に自らの信念や判断を
全面的に信頼してきたからこそ
その姿がある

ここで私たちは迷うわけだ

結局は”正解”を選び取らねばならない
人生を間違えるかどうかは
己の判断にかかってるとね

 

1

ところがそうじゃない

たしかにやましい心があるなら
本人もわかってやってることだが

しかし”素直”に選んだ選択が
正しい展開になるか
間違ったことになるかなんて
誰にもわからないからだ

実際、良かれと思ってしたことが
裏目に出たなんてよくあるだろう

つまり正解を”選ぶこと”はできない

 

2

ならばなぜ
偉大な人と愚かな人がいるのだろう?

それは”自分”が選んだ結果ではなく
その世界が生まれ続けた結果なんだ

「生まれてくる世界を選ぶことはできない」
なんてよくいわれるね

「人生が不幸なのは親を選ぶことも
容姿を選ぶこともできなかったからだ」
といった主張は古くからあるが

そうした”自らの不幸”が
まさに己の世界の正当性を保つことになり
その人にとってみれば完璧な”正解”となっている

 

3

ところが
生まれる世界は選べないと
“考えている己がいる世界”がここにある

つまり偉大な人と愚かな人がいて
あっちはいいけどこっちはだめだなと
“考えさせる世界”がここにある

この考えさせる世界で
自分は考えている

それって本当に”あなた”は考えているのだろうか?

そもそも考えることがそこにあるから
考えるわけであって
右側をみれば右側の光景があるみたいな
そんなトートロジーでしかない

そうして捉え直してみれば
正解は”選ぶものではない”と気づくんだ

 

4

いいかい
あなたは世界のなかに生まれてきたのではなく
この世界として生まれてきた

あなたが偉大な人なら
偉大な世界を生きてるからこそ
偉大なのであって

あなたが愚かな人ならば
愚かな世界を生きてるからこそ
愚かにある

つまり選択の余地などないんだ

たしかに偉大な人は
正しい選択をしたからこそのようにみえるし

愚かな人は
誤った選択をしたからこそのようにみえる

だがそうじゃない

彼らは“その世界”をただ生きてるだけにすぎない

世界とは考えさせることのすべて
他人や出来事や、そして”自分”もまた
ここにある世界の光景としてある

だからあなたは”自分”ではない
自分を含めたこのすべてがあなたなんだ

 

5

ところで世界のなかに生まれた自分は
出生日があるけども

しかしこの世界として生まれたあなた
出生日はいつだろう?

たとえば歴史の本をみれば
そこには長い歴史が記されている

だがその「長い歴史」とやらは
目の前の本としてあるにすぎない

わかるかい?
いつどこで何があったとか
そんな史料から構成された本があるだけ

つまり歴史そのものが存在しているのではなく
歴史という概念があるにすぎない

同様にあなたの昨日や去年に置き換えてみよう

いまあなたはそれを思い浮かべられるし
スマホの写真や
それこそ役所の出生届みれば
日付や場所の証拠がたくさんある

なによりいま疲労してるのは
さっきまで部屋の掃除をしていたからだ

だがそれらも歴史と同じで
さまざま要素を再構成して
「いま」浮かんでいるにすぎない

 

6

すると世界のなかに生まれた自分の
出生日は確認できるけども

世界として生まれたあなたの出生日は
常にいま」ということになるね

なぜなら”世界”にあるいろんな要素が
その時々で編み合わされて
その出来上がったものが”世界”なのだから

過去は”過去”にあらず
すべては「いま」ここに編み合わされたもの

となれば人生を呪っている人たちは
自らで要素を構成し続けて
その”作品”において
自らで嘆いているにすぎないわけで

もちろん”自分”もまた
そうして”自ら”で生み出したものなんだ

 

7

人生を信頼するというのは
たしかに信頼するということ自体が
ひとつの”選択”であるけども

この選択は
現実のなかで正解を求める選択とは
次元が異なる

というのは
本当は選択の余地などないことを
その”選択”において自らで向き合うからだ

つまり人生を信頼するとは

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