怒りを手放す
──
怒りや憎しみを抱えていて苦しいが「手放す」というのがいまひとつわからない。手放そうとするとその抵抗感に余計に苦しくなる。
──
そんな相談が重なっているので手記にしておくけども、最初の相談者の方に返信した内容が役立つと思われるので、大幅に加筆しながら載せておくよ。すでに回答をした相談者の方も再度読み直しておこう。
回答
まず頭に入れておくべきは、人生で体験する他者の姿、刻々と変化していく物事の認識、また心に浮かぶ思考や感情も、すべては無形のエネルギー(大いなる流れ)が、あなたなりの表象として現れているということだ。
表象とは広義には心の像のことだけども、つまり意識のスクリーンに現実として描かれている映像のことだ。それは結局のところ、表象されたものが「あなたのこの世」のすべてであり、すなわち表象する作用そのものが”あなた”にある。
この世の創造者はまさにあなたであり、“あなた”とは創造する力そのものだということだね。
ゆえに「怒り」もまた、大いなる流れのあなたなりの翻訳(表象)にある。
あなたは自分の怒りの扱いに困っているが、それは要するに「怒り」として翻訳しているから、”現世的”にその扱いに困っているにすぎない。
たとえばプルトニウムなんて誰かに譲り受けても、その扱いに困るだろう。
下手すれば爆発するし、ただ置いておくだけでも甚大な放射線被曝に見舞われる。捨てることもできず、破壊することもできない。
あなたの苦悩はこれと同じ様子にある。
濃い部分
さて、怒りもプルトニウムもその正体は、大いなる流れの”濃い部分”にある。
その濃い部分が、平穏な日常のなかでひとつの起伏として、特徴的な何かとして現れてくるのだけども、だがこの”濃い部分”というのはとても貴重であって、まさに濃いからこそ、いろんなものを創り出すことができるんだ。
いいかい、まず「怒り」というのは、かならず怒りの”対象”がある。対象がなければ「怒ること」はできない。
言いかえれば、A点からB点への「流れ」が表現されているということだ。
話しているように、すべては「流れ」の翻訳であるからだね。
怒りを爆発させればとてもスッキリした気分になるだろう。それは溜まっていたものが「流れた」からだ。A点からB点へと流れた。
もちろんこうした二項対立の図式は「表面的なもの」にすぎないのであって、いわば翻訳によって生まれたゲームにある。
ゲームのなかにいる限り手放せない
ところが「怒りのゲーム」を表現している限り、ただスッキリしただけでは終わらず、報復されたり、罪に問われたり、人間関係が破綻したりなど、その”同じゲーム上”で尾を引くことになる。
しかし話しているように、ゲームという見かけを動かしているのは「流れるもの」であり、激しい怒りとして現れているそれは「濃いもの」にある。
よってゲームの内容ではなく、それを稼働させている源流そのものを見出すことが「手放し」にあるわけで、ここに相談者たちの”間違い”がみえてくることになる。
というのは「手放し」とは、己の怒りを抑え込んで相手を「立てること」ではないからだ。また悲惨な現状に我慢し続けるということでもない。
つまりワンネスや愛の意味を誤解して、変に”利他的”になって自分を押し殺して相手を立てるというのは、そんなことをしてもA点からB点への流れは起きずどんどん蓄積していくことになるわけで、その「流れない滞留」こそが人生の”息苦しさ”の原因にある。
かといって爆発させると大惨事になるね。そんなダブルバインドに挟まれてしまうのは、まさにゲームの渦中にあるからだ。
手放す方法
では「手放す」には実際どうすればよいのか?
Notes ネガティブ, マインド, 不幸をやめる, 世界を変える, 代わり代わりに, 因縁生起, 引き寄せ, 技法, 潜在意識