ダイアモンドの輝き

先日載せたコメントについて、まとまった反響が届いているのでこちらで答えておくよ。ありがとう。

ではまず、コメントのなかで反響の引き金だと思われる箇所を引いておこう。

──

いつも話しているように、あなたの潜在意識がこの世を描いてる。幸せ、喜び、驚き、いろんなものが描かれている。つまりあなたがこの世そのものにある。

憧れの暮らしや街を行き交う美しい男女にしても、”あなたの知る限りのすべて”がこの世として溢れている。

だがその幸せ、喜び、驚きを体験するには、まず不幸で悲痛で退屈な自分がなければならない。

なぜなら、はじめから幸せであるならば、その幸福を味わうことができないからだ。不幸な時期があるからこそ、ときおり到来する素敵な感覚に浸ることができるわけだね。

どうしてこんなに惨めなのか、どうしてこんなに醜いのか。愛や奇跡なんて感じられない、この現実以上のものなんてあるわけがない、と自分はいつも思っている。

友情もしょせんは損得勘定であり、親切や感謝も打算的であり、実際誰だって自分の全財産を捨ててまで他人を助けたりしないじゃないか、という具合に「これが現実なんだ」と納得する。

だがむしろ、その納得(=この世の見えかた)によってこそ自分は出現しているわけだ。

つまり”自分”は幸福のなかで不幸を感じているのであって、結局は「ずっと幸福に包まれている」ということなんだけども、じゃあ自分など最初から不要じゃないかとなるね。だがそうなると「この世を体験すること」ができない。あなたが”自ら”であるこの世を生み出した意味がなくなってしまう。

これもいつも話すように、青い色は「他の色」があってこそ青なのであって、もしすべてが青色ならば、もはや青は存在せず、そして色という概念すら存在しないことになる。

だからあなたは”自分”という「真反対の視点」を通じてこの世を眺める必要があった。つまり「あなたがあなた自身」を眺めるためにね。

たとえばダイアモンドが自らの輝きを知るには、離れた別の視点を持つ必要がある。だがその離れた視界に映るものはなんだといえば、美しい輝きと”同時”に現れる、それを永遠に手にすることのできない自分なんだ。

──

引用は以上となる。

 

“自分”にみえてる現実

そして反響メールの多くは大体こんな感じにある。

「いま現実の問題について悩んでますが、こんな問題ありの世界を「本当の私」は望んだのでしょうか?」というものだ。

もちろんそうではない。それだと話を読めていないことになる。

つまりメールを送ってくれている人たちは「なるほど、”自分”は苦悩する存在なんですね、でもそれってわざわざ苦悩する現実を与えてるってこと?」と捉えているわけだ。

しかしコメントで話しているのは、その「直面している現実の光景」が”自分”の視界によってみえているということにある。

わかるかい、”あなた”が望みをもって生み出した世界が、”自分”には「そのようにみえている」のであって、つまりそのみえている因果的現実そのものは”あなた”の意図ではないんだ。

自分という”翻訳”において、あなたという”原文”はころころ意訳されるが、しかし自分がどのように捉え方を変えようとも原文自体は常に翻訳されてしまうというジレンマにある。

 

“あなた”が体験したいもの

そこでコメントのなかではこう話している。

──

だがその幸せ、喜び、驚きを体験するには、まず不幸で悲痛で退屈な自分がなければならない。

──

幸せ、喜び、驚き、それ自体は形を持っていないもの、つまり大事なのは、物事が絡み合っている光景それ自体ではなく、”自分”は自ら直面している光景を通じて「なにを夢みているのか」ということにある。

たとえば誰もがそれぞれに”直面している現実”がある。(それこそが個々の魂の生成原理にある)

いまならコロナに関することかもしれないし、親の介護かもしれない。いろんな要素が複合してなかなか厄介なことになってるかもしれない。

かといって「この厄介な現実を味わうために己は生まれてきた」わけではないんだ。

厄介にみえている現実の光景がすでに”自分の視界”に映っているものであり、そして“こんな世界だから”こそ、“自分”は街ゆく平和な人たちをみて「いつかあのようになりたい」と希望を持ってみたり「さっきのコンビニの店員さん親切だったな」と温もりを感じたりするだろう。

よいかな、まさにその希望や温もりを味わうために、あなたはこの世を生み出したんだ。

“ダイアモンドの輝き”はそうして離れた位置からしか知ることができない、というわけだね。

 

“神”の降臨

だから直面している現実について「どちらを選択しよう」と迷っているならば、それは別にどちらでもいいんだよ。

ただし言っておくけども、どちらを選んでも”自分”という苦悩はあり続ける。釈迦が「人生は苦だ」といったのはこれにある。

だがそれでいいんじゃないかな。私も日々そう受け取りながら暮らしているけども、それはもちろん

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