“三度目”に起こるもの

よく話すことだけども古事やことわざには
「大いなる力」に気づかせるものが
たくさんあるわけで

科学的な理屈でもなく
論理的な保証にも頼らず
表面的な矛盾を超えて感じ取れたそのまま
先人たちは生活のなかで見出していた

「病は気から」や
「笑う門には福来たる」は
その最もたるものだね

もちろん現代の私たちは
それらを”現代的”に解釈しがちになるゆえ

たとえば
「精神的なストレスがホルモンに影響を与えて・・」
みたいな取り方をするけども
それはあくまで”現代語”に翻訳しているにすぎない

さて「病は気から」の由来は古代の中国の医学にある

つまり東洋医学であり
神羅万象のすべては「気」が司っているという
観点にある

ここでいう「気」とは風水の龍脈と同じ
宇宙のエネルギー、すなわち大いなる流れのことだ

私たちは各々の意識空間(=個々の魂)で
「気」をいろんな姿に変えてこうしてみている

あなたに関わる他者や日々の出来事
そして自分の体や容姿、性別にしてもそう

すべてはあなたという魂の”内部”に
表示されているものであり

しかしその「本源」とはそうした姿や形を持たず
また「あれやこれ」と区別された個別化もない

それはただ一本の「力」として
いつもここに流れている

 

あの世とこの世

それゆえに
「本源」と「表面上の現実」の2つの流れを
理解しておかなければならない

本源は永遠なるものだ
終わりがない、すなわち始まりもない
それは至って安定し躍動に満ちている

本源は「あの世」や「彼岸」
「天の国」なんて呼ばれたりするけども
それは日頃みえていないだけで
ずっとここにあるんだ

実際”そのこと”は私たちが
現実の意味(表面上の現実)に縛られないときに
いつでもどこでも発見することができる

誰もが苦しみから解放されたいと願うが
解放されたときのあの軽やかな感じが
まさに本源とひとつになっている様子にある

言いかえれば
「意味」は人間が作り出したものであり
その意味の関係性のなかで
私たちは「始まりや終わり」をみて
また「幸福や不幸」に振り回されているわけで
それが「この世」となる

“人間的な豊かさ”の世界だね

だがそうして「意味」に縛られるゆえ
トータルに流れている「本源」に
抵抗し続けることになり
それが「病」として発症することになる

体にしても心にしてもね

そしてその抵抗している様子が
「現代版の人間世界の顕現」として
ホルモンや自律神経の変調という名の
“現れ方”をしているんだ

 

“この世から”あの世をみる

とはいっても
「ホルモンや自律神経なんて幻想だ」と
払い退けろというわけではない

現代の私たちは
こうした「現代的な創造物」から
本源にアプローチしていかなければならないからだ

しかし「創造物」にのみ囚われてしまうと
それもまた「本源」に従っているのではなく
表面上の合理性を完結させているだけであり
まったく別のところ
その「本源との不和」が現れてくることになる

話したように「気(=本源)」は
すべてを司っているわけで

たとえばいくらサプリメントなんかで
「表面的な体裁」を整えても
別の体の箇所の不具合が出てきたり
また体だけでなく社会生活上のトラブルや
うまくいかない出来事に直面するようになる

すべてつながっているんだよ
なぜならすべての背後にあるのは
ひとつの流れであるからだね

その観点でみれば食べ物というのは
「栄養素だけではない」ことがわかる

これもよく話すことだが
太陽の光を浴びて自然の雨水を受けて
そして豊かな大地から生まれてきた作物は
「栄養素」という現代的な意味を超えたもの
たくさん備えているわけで
それ自体が「気」の流れの部分にある

だが「栄養素」という
現代的な見方(限定的な見方)しか
できない私たちにとって
その「意味を超えたもの」を捉えることはできない

それがなんであるのかを知ることさえできない

なぜなら現代語の辞書には
それがまだ定義されていないからだ

むしろそれが定義されたところで
それもまた「栄養素」の別バージョンにすぎず
まさにここに科学的過信に陥ることの誤ちがある

 

現実を縛り付ける「思考」のはたらき

科学的というのは
物理学や医学だけのことではないから
注意しなければならない

人間関係にしろ物事の損得にしろ
うまく計算してその結果を期待することが
「科学的思考」にある

たしかに車がガソリンを燃やして
高効率にそれを運動エネルギーに変えるための
科学的計算はとても有効なことだ

だけどもそれは車という限定のなかでの話であり

人間関係や日々の物事というのは
その区切られた範囲だけのものではない

こちらのグループでは良い顔をできても
それがあちらのグループでは仇となるかもしれない

それが辛くてあちらのグループでも良い顔をするが
そうなると今度は
別のところでの立場も気にしなければならなくなる

やがてその不和がいろんなことに現れてくる

それこそ「気を病んで」体調を崩したり
ますます嫌な気分にさせるニュースが
飛び込んできたりする

だから人間関係にしろ社会的な体面にしろ
合理的な整合性を求める限りは
それはあくまで「表面的な世界」での
バランスを保とうとしているにすぎないわけで
本当の幸福(本源の安らぎや躍動感=喜び)には
触れられてはいないんだ

むしろそうして「気」そのものではなく
事後的に生成された形の世界に囚われていると
本源そのものの潮流から外れてしまい
そしてそれがまた
「表面的な世界」での不調和を生むという
相互作用のスパイラルにはまっていくことになる

さてここまでの理解を踏まえてみたとき
すでに陥っている己の運命を解放して
人生を自在に描き変える秘技
古事やことわざに
込められていることがみえてくるんだ

たとえば以下をよく耳にするだろう

・二度あることは三度ある
・三度目の正直
・仏の顔も三度まで

これらもまた「現代的な解釈」をするのではなく
つまりボトムアップで見上げるのではなく
「本源」のほうから捉えていくことで
人生を変える魔法として
その効力を発揮してくれるようになる

 

二度あることは三度ある

たとえばあなたの家の玄関の外に
画鋲が落ちていたとしよう

不穏な何かが脳裏をよぎる

もしかして誰かの嫌がらせではないか?
そういえば昨夜うちの笑い声が大きかったが
それが近隣に迷惑になったのかもしれない

いやまてよ、うちは犬を飼ってるけども
犬に対する嫌がらせ?

最近犬の糞の始末をしない人が増えてるけど
まさかその犯人にされてるのではないか?

そんな具合にいろんな推測が過ぎるわけだが
本当のことは「まだ」わからない

町内の掲示板に貼り紙をする人が
知らずに画鋲を落として
たまたま玄関前に転がり込んだのかもしれないし
小学生が下校中に友達同士で悪ふざけて
画鋲を投げ合って遊んでいたのかもしれない

もちろんそのような
「良い空想」もできないことはないが
画鋲が玄関に転がってるなんて
日頃ありえないこと」ゆえに動揺し
悪い妄想に囚われてしまうわけだ

ところがそうして悪い妄想に囚われて
「気を病ませている」と
続けて二度目の「ありえないこと」が起きてくる

大体それは連続して現れてくる

たとえば翌朝目を覚まして
ベッドで昨日の画鋲のことを考えていると
ドタドタと家族があなたの部屋にきて
「うちのガレージに知らない傘が置いてある」と言う

「ええ!また!?」と見にいけば
たしかにボロボロのビニール傘が
ガレージの壁に律儀にも立てかけて置いてある

これもまた「日頃ありえないこと」だ

昨日と同じくいろんな妄想が過ぎりはじめる
昨晩は大雨だったから
誰か雨宿りしていたのではないか?

ボロボロのビニール傘だから
もしかしたら落ちていた傘を拾ったはいいけど
何らかの理由で(酔っ払ってるなど)
傘を立てかけて雨をしのいで
やがて雨が止んだのでそのまま帰っていたのではないか

たしかにうちのガレージは
雨宿りがしやすいのかもしれない

だけどもまさか知らない人の家で
そんなことをするなんて発想はなかった
だからこれからは柵をするか
威嚇のために監視カメラをつけなければならない

しかしまてよ
もしかして昨日の画鋲と関係があるとしたら
それは嫌がらせじゃないか?

でもそれならどうして
傘は立てかけてあったのだろう?

嫌がらせならもっと暴力的に
投げ入れたりするのではないだろうか?

まさかいつか空き巣に入ろうするための下見?
それで傘を忘れていったとか・・

という感じで
あなたの頭はパニックとなるわけだね

 

“三度目”に起こるもの

だがここで
「二度あることは三度ある」のことわざの
本当の意図が露わになってくるんだ

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