音を観る瞑想

音の秘密を通じて
あなたを神の領域に連れて行こう

その前にいくつかの理解をしておく

まず、音は全方位から休むことなく
あなたに常に向かっている
つまりそこが宇宙の中心となる

そしてもう一点

現実世界に空白がないように
意識は隙間を作らない
真空があれば
そこに必ず何かが流れ込んでくる

つまり音が聞こえるということは
あなたが無音ゆえに
そこに流れ込んできているのだ
その己の中の「無」を感じながら
以下の瞑想を行うこと

 

音を観る

1.カフェでも森林でもいい
音に包まれていることに意識を置く

2.そのとき音を”聴きに向かう”のではなく
音を心の目で”観る”ようにする

3.頭の周囲から観る範囲を広げていく
やがて視界はシャットアウトされる

しばらく音を観ていると
それがリアルタイムでないことに気付く
遠い昔に響いていた音を
記憶として観ているようになる

「これは記憶だ」

すると音が自身を聞き始める
つまりあなたを通じて
音が音を聴いているようになる

あなたはその充満性の中に消える

中空の笛のようになる
禅でいうところの”容れ物”となる

 

宇宙の音

古代インドより
宇宙の音というものが伝えられてきた
それは「オーム(AUM)」と呼ばれる
某団体はここからネーミングしたのだろう

口を開いて最初の音が”A”であり
口を閉じた最後の音が”UM”だ

バラモン教の祈りにはじまり、
キリスト教の「アーメン」
仏教の真言などの「オン〜」
「南無〜」、「阿吽」など
どれも同じものとなる

解釈については度々議論が起こるが
そんなことはどうでもいい

大事なのは宗教を飛び越えて
この”響き”が重要なものと
されていることだ

言葉が生まれる以前に存在した音であり
瞑想とは切れない関係の扱いとなっている

よく「瞑想中にオームが聞こえました」
と言う人もいるが
それは仏陀やシヴァが浮かんだのと同じ
ただのヴィジョンだ

オームを音として聴きに行ってはならない
音を”観る”ときに
それが何なのかがわかる

あなたを包んでいる神がオームだ
理屈と解釈を超えなさい

音とはあなたが
音として聴いているだけで
それは音ではない

あるがままに身を委ね
根付いた錯覚を見破りなさい

音を観るとき
ずっと神に包まれていたことを知る

そしてあなたは消え
神とひとつになる

 


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  1. ハイライト より:

    もうやめだ!内側を意識しようにも何かしらの対象に気をとられてフラストレーションがたまり、上がっていく不快指数。こんなのはもうやめだ。

    押してダメなら引いてみる。俺は一切の内側を見るのをやめ、外側のみを意識してみようと試みた。
    今朝、通勤の車内。俺はエアコンのスイッチを切り、窓を開けた。夏の風を感じるためだ。即座に熱風が流れ込んできた。蝉が鳴いている。カラスが鳴いている。対向車が次々と視界に入っては消えていく。ヒュンヒュンと風を切る音、タイヤと地面の摩擦音、車の排気音。蝉、カラス、車、風、ウグイス、車、風、蝉……あれ?自分居なくね?あるのは音だけじゃね?
    ハッとしてこの手記を思い出した。

    やはりそうだ。内と外が逆なんだ。俺はもう内側を見るのを止める。外側だけを観る。
    なぜならば、おそらく本当は外側が内側だろうから。

    なぜかスッキリとした今朝の出来事。

  2. ハイライト より:

    そういや、俺が涅槃の書に出会ったのは、この手記が一番最初だった。
    瞑想がなかなか習慣化しなくて、音楽でも聞きながら瞑想できないかと思って検索かけてて、この手記を見つけたんだった。すっかり忘れてた。

    今日はずっと外側だけを見てた。一日中音だけを聞いていた。
    昼食食べたらマインドがしゃしゃり出て来はじめて、音への集中が途切れがちになったので、音を聞くのをやめて、音を飛ばすことにした。自分の耳から音を飛ばす。
    蝉の声を聞いているのではなく、俺の耳から蝉に音を飛ばすようにした。

    結局どっちだって同じことなんだ。俺が音を聞いているのか、俺がそこに音を出しているのかは同じことなんだ。世界からの音が聞こえるのか、俺が世界に音を与えているのかは同じこと。

    そして、当たり前だが、俺が聞いただけの音がそこにあること。俺が与えた分の音がそこにあること。
    呼吸だってそうだ。吸った分の空気が入ってくる。俺が空気なら、入った分の吸い込みがそこにある。吸った空気=入ってきた空気。1ミリの隙間もない。
    求めた分が与えられている!当たり前だけど。

  3. ハイライト より:

    不思議な体感を得た。
    今日は午後から暇があったので、部屋の窓を開け、椅子に腰掛け、外を見るともなく見ながら、音を観ることにした。
    夏らしく、蝉や名前の知らない鳥のさえずり。夏休みを満喫する子供の声、通りを行き交う車の音。私に向けてあらゆる音が飛び込んでくる。
    そして、言葉を落とす。もはや何の音、ということはない。音、音、音。
    そして音を落とす…これはうまくいかないようである。どこまでも音はある。
    そうしていると、どうだろう。音が消えているではないか。
    これは比喩ではない。実際に何の音もしない。さっきまでけたたましく鳴いていた蝉はどこかへいったのか、鳥は?子供たちは?通りにも車が通っていない。まさか、日曜の午後であるにも関わらず、往来には車がない。
    心の静まりに呼応しているかのように、街が静まり返っている。
    一体みんなはどこへ行ったんだろう。
    現実は内面の投影、という言葉が思い出された。
    そうこうしていると、夏の音が現れてきた。蝉も元気に鳴いている。
    あの静寂は一瞬のことだったのか、暫くの間続いていたのか。それはわからないが、世界に溶け込んだような心地よさを感じた。

    その後、買い物へと出掛けた。知らない人から頭を下げられた。しかも、一人だけでなく、三人から。二人は対向車の車の運転手、一人は店の中ですれ違った人だった。私は一体自分が何者なのかが分からなくなるようであった。

    たいへんに不思議な体験をした。

    • 色即みっちゃん より:

      何者でも無いのだよ…。笑

    • ハイライト より:

      真に何者でもないとすれば、それは何者であってもいいということでありましょう。
      そこまでの自在性は見つけることはできていない。私は子供ではないし、蝉でもない。
      つまり、現に何者かではあるのです。
      真には何者でもないとしても、現に何者がではあるわけです。
      しかし、今日の体験はその認識を揺るがすものであった。

    • -自分- 涅槃 より:

      ハイライトさん

      よろしい。ひとつ質問してみよう。

      あなたは自分が存在していることを疑うことができるかな? 決してできないだろう。疑うことすら、存在の上でのことだからだ。

      つまりあなたは存在している。ではその「存在」とは何かね? 深く探ってみなさい。たぶんあなたの頭の後ろの辺りに何かを感じるだろう。

      もう一度聞くよ。

      あなたは自分が存在していることを疑うことができるかな?

  4. buruku10 より:

    コメントを読んで自分で自分を疑う事なんで出来ない
    だって疑ってる時点で疑ってる自分がいるじゃないか
    なーんてあーだこーだやってたら奇妙な感覚になりました。違和感というか、確かに頭の後ろに奇妙な感覚が
    ありました。でもこういった不思議な感覚は答えを求めるものではないのかもしれませんが、つい気になってしまいました。。。

    • 涅槃の書-自分 より:

      buruku10さん

      よい気づきだ。

      >自分で自分を疑う事なんで出来ない だって疑ってる時点で疑ってる自分がいるじゃないか

      デカルトはそうして「自分」は確固たる存在であると”知って”、その考える自分以外のすべては幻想にすぎないといった。我思うゆえに我あり(考える自分がいるゆえに自分がいるのは確かだ)だね。

      だが彼がよく指摘されるのは、その考えている自分さえも考えることによって現れているのであって、つまり彼はどこかに主体を置かなければならないという前提に囚われているということにある。

      言いかえれば、個人という枠をベースにして、世界を捉え直そうとしたわけだ。だから「どこかに主体を置かなければならないという前提に囚われている」というのは、現代の思想による見方であって、むしろ彼の時代背景を考慮しなければならない。

      確かに彼の登場から人間の世界は大きく変わった。それまで1000年以上も続いていていたカトリック教会の教理によって「神の子どもたち」だった人類が、その呪縛から切り離されて自由にものを話し、自由に人生を選べるようになったわけで、歴史をひっくり返すほど事件となった。

      もちろん彼だけというわけではなく、ルネサンスという時代の風潮を経て、デカルトやガリレオたちをはじめとした、「ものの見方の転回」が起きた時代だったわけだ。

      だがいつも話しているように、これは良いことばかりではなく、それまで心の拠り所だった「大いなるもの」から人々が切り離された瞬間でもある。人々は自分の拠り所を自分で作っていかなくてはならなくなった。

      たとえばいまでこそ恋愛という概念は当然のものだが、しかし妙だと思わないかな。

      恋愛というのは非常に倍率の高い入学試験のようなものだ。それゆえに人はどんどん自分を偽り、駆け引きをして、優位にものごとを進めようとする。

      つまり戦略家でなければ恋愛できないということ、勝ち取れないということ、たとえ自分が純粋に素直にアプローチしても、お目当ての相手がそもそも現代という時代の人であるゆえに、やはりそれなりの体裁を必要とする。

      しかし恋愛というのは、そんな表面的なものなのだろうか。いや確かに表面的なやりとりを通じて奥深いものを感じられるという魅力に人は惹きつけられるわけだが、表面だけのゲームになっているだけの人も多く、また純粋であろうとしてもそのゲームをまずは乗り越えなければならない。恋愛映画もそのストーリーがあるからこそ成り立っている。

      もちろんデートをしたりプレゼントをしたり、そうした多様な演出ができることは素晴らしいことだ。つまりデカルト以降は、そうした「多彩な世界を自分で生み出していける」ということの契機となったわけだ。恋したり贈り物をしたりというのは以前からもあったが、それらの古典的な形式は単に相手を選択するというシンプルなものだった。

      現代は「自由」ゆえに苦しむのであって、だがそうして表面にばかり囚われてしまうと大事なものを見落としてしまうことになる。だから創造と同時に「本当にここにあるもの」に触れていなければならない。言いかえれば、それに触れていないからこそ苦しいのである。

      あなたが感じた「不思議な感覚」がそれだね。その本当にここにあるものに触れた。それについて表現はいくらでもできるし、宗教やスピリチュアルというのは、その表現のためにあるようなものだ。

      しかしあなたが話しているように「答え」を求めるものではない。なぜなら答えとして形作られるものは表面的なものにすぎないからだ。月をさす指となる。

      今回あなたが経験したプロセスを覚えておこう。あなたは考える自分を考えた。つまり自我を自己観察した。そのときに、考えている自分がいるという「違和感」を感じたわけだが、その違和感は自我から意識が飛び出したことによって生じている。

      つまり意識の自己同一化が切り離されたわけで、それが瞑想というものとなる。その瞑想的な状態のまま毎日を活動できるようにしてみることだ。

      ならばあなたはいつも安心して満たされているようになる。それゆえに創造世界を真に楽しめるようになる。

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