いつも危険でありなさい
そこにいる限り、ずっとそこだ
1年経っても50年経っても
あなたは同じ場所にいる
「そこ」とは
あなたの現在の価値観や判断のこと
一生を終えるとき
なんてつまらない人生だったのだろう
そう思いたくないのならば動き続けなさい
「これはたぶんこうなるから危険」
「こいつは私を利用しようとしている」
そういう詮索をやめるということだ
常に危なっかしく生きていきなさい
いつも違う場所にいるようにしなさい
思考を挟むことなく
到来した出来事に流れていく
マインドの計算を無視して
ただ素直に起こる出来事に身を委ねる
簡単なことだよ
それだけであなたの「生」は燃え上がる
これぞ「生きている!」だ
あなたは誰とでも知り合えるし
沢山の恋愛をするだろう
沢山のビジネスをするだろう
沢山の喜びや悲しみを体験するだろう
それが醍醐味というやつだ
Notes 世界を変える, 唯我独尊, 生きる意味, 生き方, 自由
関連記事
- PREV
- 一瞬で世界を変える
- NEXT
- 豊かになるには山の標高を落としなさい
コメント投稿の注意事項
以下をかならずお読みください。
・公序良俗に反する内容、品性に欠いた文章、その他、閲覧者に不快感を与えると判断された投稿は掲載不可の対象となりますのでご留意ください。コメント欄は常時多くの方が閲覧しておりますことをご理解の上投稿してください。
・会員記事のコメントはログインしないと表示されません。
・会員の方はユーザー名が入ってしまうので別名をこちらで申請してください。必須。
・追記などを投稿する時は自分の最初のコメントに返信してください。
・記事に無関係な投稿は禁止です。良識範囲でお願いします。
・ハンドル名が変わっても固有idに基づき本人の同一性が保たれます。
・対応の状況によりすべてのコメントに作者が返信できるものではありません。
・規定の文字数に満たない短文、英文のみは表示できません。また半角記号(スペースやクエスチョンマークなどの感嘆符)は文字化けなどのエラーになりますので使用しないでください。使われる場合は全角文字でご使用ください。
・他の利用者を勧誘や扇動する行為、誤解を与える表現、卑猥な表現、犯罪行為を正当化するコメントなどは禁止です。また全体の文脈の意図を汲み取らず言葉の端や表現に用いられた構成部分だけを抜き出してその箇所のみへの質疑や意見する投稿も当事者にも他の閲覧者にとっても無益となりますので禁止です。それら意図がなくても事務局でそのように判断された場合はその箇所を修正削除させて頂いたり、または掲載不可となりますので予めご了承ください。
・同一者の投稿は1日1〜2件程度(例外を除く)に制限させていただいております。連投分は削除させていただきます(コメント欄が同一者で埋まり独占的な利用になってしまうのを防止するためであり日を跨いだ投稿も調整させていただく場合があります)
・個人情報保護法により個人情報や会員情報に関する箇所が含まれている場合は該当箇所を削除させていただきます。
・投稿内容に敏感な方も多くいらっしゃいますので、暴力的な表現など他の利用者様へ影響を与えそうな文面はお控えください。
・意図的であるなしに関わらず、文章が途中で途絶えているものは掲載不可となります。もし誤って送信された場合は早めに追記として再投稿してください。
・マナーを守らない場合は規約違反となります。また他のユーザーや当事業部、作者への中傷や毀損と思われる言動は会員規約に則り強制退会および法的措置となりますのでご注意ください。
・投稿者による有料記事の大部分に渡る引用は禁止しております。
・スパム広告対策にセキュリティを設定しております。投稿後に承認待ちと表示される場合がありますがしばらくすると表示されます。また短時間の連続投稿はスパム投稿とみなされるため承認されません。時間をおいてください。
・コメントシステムはWordpressを利用しておりますので他でWordpressアカウント(Gravatar)を設定されている場合、アイコン画像がコメント欄に表示されます。会員登録されたメールアドレスで紐づきますので、もしアイコンを表示させたくない場合はお手数ですがこちらより涅槃の書の登録メールアドレスを変更してください。
いや、そりゃ試練とか聞こえはいいけど、そりゃ「危険」は嫌ですよね。
短い記事だけど、涙が出ました。ありがとう。
dimple1104さん
こちらこそありがとう。
たとえば「危険」の対義語は「安全」だね。
ところが「生きること」において、この意味は真反対に入れ替わるんだ。
自転車でたとえてみようか。
二輪の自転車が倒れずにいられるのは、もちろん走行しているときであり、自転車に乗り慣れている人からずれば、安定は「動き続けていること」によってなされることを知っている。
もはやそれは動き続ける安定と己がひとつにあり「自転車に乗っている」という感覚さえないだろう。
もちろん減速するほど不安定になり、よろよろして、やがて倒れてしまう。
ところが、自転車に”乗れない人”は、自転車を走行させずに自分の力だけで支えて立たせている。
そしてその重たい車体が常に意識されている。
自転車に飛び乗って、その細いタイヤだけで直立させることなど怖くてできない。それは彼にとって「危険」な行為であり、だから安全を選択しているわけだ。
ところがそうして自転車を押し歩いているゆえ、他のいろんなことに手が回らない。
小さな用事も億劫となり、何かを実らせているわけでもないのに、いつも疲れ果てている。また自転車の重さが常にのしかかっているゆえ前へ進むこともためらうようになる。
そうしているうちに、現実はどんどん危険な状態となっていくだろう。
やらなければならないことをやり終えることができず、またいつも自分のことで一杯だから他人に優しくできない。心に余裕がなく、あちこちに気がとらわれて、なにを手にしてもそれに純粋に没頭できない。
やがてそばにいてくれた人は離れ、健康を害し、ただ虚しいだけの人生が過ぎているようになる。かといって腰が重くて新しいことをはじめられない。
すべてが「歩まない自分」の横を通り過ぎていく。
言いかえれば、”自分を超えた力”から置き去りにされてしまうわけだ。
つまり自転車の比喩は「この世そのもの」のことにある。
生まれながらに私たちは自転車と不可分にある。だがそれを”乗りこなす”には、危険の向こうにある安定を見出さなければならないんだ。
たとえば好きな人に思いを告白するというのもまた”危険な橋”だろう。だがその危険な橋を渡るからこそ、仮にそれが実を結んだならば、”その流れのまま”に、その相手との日々が送られるようになる。
「恥をかきたくない、傷つきたくない」と自我の安全を選んで尻込みしてしまえば、当然ながらその相手との世界は存在しないことになる。
だから自転車に”乗れる人”は、その危険が実は揺るぎない安定であることを知ってるわけで、自転車は人生の荷物とはならず、自転車の走行を通じて、流れるものとひとつになっている様子にある。
その人はたとえ告白して振られたとしても、その流れるものが癒してくれるだろう。そしてそれは新しい出会いを出現させることにもなる。自転車が走行するかぎり風景はどんどん新しくなっていくからだ。
つまり「危険に生きる」とは、たしかに自我的な安全を選択するのとは、真反対にある。
だがこれまで自我が選択してきた「我が身の安全」は、本当に安定した人生をつかみ取ってきただろうか?
もちろん自転車に飛び乗るというのは、無謀に生きろとか、人生を賭け事のようにしろという意味ではない。
そうではなくて、たとえば人間関係なら、相手になにかを期待して接しないということだ。
なにかを期待するのではなく、だからといって相手に無関心なのでもない。むしろその逆で、相手との共有する時間を損得を超えて楽しもうする意志にあること。
そのとき、人生はまさに波乗りのように大きな力に支えられているようになる。そしてこれまでなかった素晴らしい風景をみせてくれるだろう。
だから仕事もなんでもそう、結果にとらわれるのではなく、いつもその瞬間ごとのベストを尽くしていること。
「意味がある」「意味がない」に左右されず、なにもないところに飛び込んでみること。
それが「危険に生きる」であり、なによりそれは”本当のあなた自身を生きてる”ということなんだ。