世界には私しかおらず、そして私は実在しない

古来の教典や現代のスピリチュアルが
伝えているものとは「自分とは何か?」だ

以前の記述でも書いたが
「世界には自分しかいない」
「自分は実在しない」
この2つの理解は同じ場所に辿り着く

あなたがこの記述を読んでいるとき
そこに理解しようとする思考の動きがある
だから「自分しかいない」の方が
溶け込みが容易かもしれない

ならば「自分は実在しない」の方はどうだろう
文面で見たことに理解をしようとして
理解するのは簡単だ
だがそれは自らのマインドを言い聞かせているだけ
自らを騙し込んでいるだけの結果に成り得ない
だからそこを踏まえた上で
知識として留めておきなさい

あなたの世界には
あなたは実在しない

さあこれを解いていこうか
まずいつでもいい、何らかの記憶を蘇らせなさい
昨日でもいいし数年前でも幼少期でもいい
特に「あなたが感情的になっていたとき」が良い

あなたが感情的な時
例えば怒りに溢れているときだ
相手への不満や罵倒、そんな思考で溢れているだろう
だがまさにその時を思い出してみなさい

いつかの時期が出てきたかな?

さてその当時は相手への
執拗な思いだけしかなかったはずなのに
なぜか記憶はその背景や状況、
つまり「シーン」だけが出てくる

おかしいと思わないかね

あなたは思考に囚われていた
そこに何があったかなんて重要じゃない
相手への怒り、メッセージ、
それしかない
だがその時のことを思い出すと
確かに感情らしき記憶の断片はある
だけどもそのときさほど意識していなかった
場所の様子や相手の様子、時間帯、空気感、
そのときの「いま」がイメージとしてリプレイされる

これは大事なところだよ
あなたは「シーン」を生きている
思考もそのシーンの一部だ
だがあなたは思考に囚われているから
リアルタイムでは思考しか見えていない
だけどもなぜか記憶の中では
シーン全体が出てくる

これは眠っているときに見る「夢」と同じだ
あまり夢を深く観察したことがなければ
明日の目覚めのとき、さっきまで見ていた夢を
もう一度思い出してみなさい
ひとつ重要なことが出てくる
夢には「あなたが登場しない」のだ

そして先ほどの「記憶」も同じ
そちらもあなたが登場しない

どれだけ思いを巡らせても
あなたはどこにもいない
鏡に映る人物はあなたではない
それは鏡だ

怒りに満ちていた「あの時」を思い出したとき
実際は「あなたの思い」だけしかなかったのに
なぜかシーンばかりが出てくる
背景
相手が話している姿
その場所の状態、温度、色彩

確かに相手が話している内容を思い出して
現在のあなたが再び怒りに繋げることもある
だがそれは記憶ではない
純粋に記憶だけを蘇らせたとき
そこにあるのは
本来その場の「主役」だったはずのあなたの思考ではなく
シーンのみだ

そして夢も同じ
怖い夢だったと冷や汗を垂らせて目を覚ましたとする
で、あなたは「何が怖かったんだろう」と思い出す
すると確かに怖がらせるシーンがたくさんある
だが、なぜか夢の中で怖がっていたあなたは出てこない
そのシーンを思い出して
「そうそう!これが怖かったんだ!」と
現在にその連想をすることがあっても
夢の中の実際の思考は出てこない
試してみなさい

これらが何を意味するのか

リアルタイムな日常に話を移そう
あなたはいま何をしているかな
部屋にいてパソコンを開いているかもしれない
ベッドに寝転んでスマホかな

では質問だ
あなたはどこにいる?
見ることはできないだろう
ここが重要な点だ

あなたが「自分」だと日頃、
絶対的に確証を置いているものがある
それは何かね 鏡じゃない
あなたがこれが自分だと思い込んでいるもの、
それは「思考」だ

思考がそこにあるから
あなたはそこにいる、そうしている
ごく当然のようにそう信じている

だが記憶や夢の話でわかるのは
そこにその時の思考など出てこないということだ

さてあなたが部屋に寝転んでスマホを見ている
そこへドアが開き、母親が入ってきた
そしてあなたに言う
「晩ご飯よ」

いいかい
「ドアが開く」
それはシーンだ
「母親が」
それはあなたの観念だ
違う女性であってもあなたが母親だとしていれば
それは母親だ
だからその人物が母親かどうかは確証がない
そして最も重要な部分
ここを逃してはいけない
あなたの全人生がひっくり返る

「あなたに言う」

果たして本当に「あなた」に言ったのかい?
ただその人は前を向いて話しただけではないのかね

シーンに現れた人が
正面を向いて何か動作をしたとき
あなたはいつも「自分に向けたもの」としてきた

街を歩いていて誰かがあなたを見た
それは本当にあなたを見たのかね
ただ正面を見ただけではないのかい?
コンビニで店員がお金を受け取った
確かにそのシーンがあったのだろう
だがそれは「あなたの手」が渡したのだろうか

目の前の人がこちらを向いて話したり
そして返答しているような「音声」が聞こえたり
そんなシーンを見ていれば
「相手と自分がやり取りをしている」と錯覚する
だけども記憶や夢はそのやり取りというシーンはあるが
あなたの思考まで反映されない

あなたは「思考」が「自分」の拠り所としている
だがそれがない
一体どういうことなのだろう

街を歩く
何が歩いているのか
シーンが刻々と変化しているのを
あなたは歩いていると錯覚しているのではないか
どこか店に入る
店員が話しかける
本当に「あなた」に話しかけているのか
ただ正面を向いて音声を発しているだけではないのか
店員にあなたは応答している
それは本当にあなたが応答しているのだろうか
そう思い込んでいる「思考」がただあるだけではないか

しかもその「思考」は記憶では出てこないとなる
では、一体「あなた」とは何なのだ

ここまでの記述で
「自分などそもそもいなかった」と理解するだろう
だが、それはマインドを上書きしただけであり
本当の理解には達していない

だからいまからでもいい
すべてを疑いなさい
そうすることであなたはいつの間にか
「自分」が消えていることに気付くだろう

実際のところ夢も記憶も、普段の日常も
あなたはどこにも登場しないのだから
「自分はどこにもいなかった」
それが悟りだよ

人生とはあなたの見ているシーンしかない
つまり「あなたが自分と思っている以外のすべて」が
あなたなのだ
それは、結果的にそして方便的に
「世界にはあなたしかいない」
「自分は実在しない」となる

鏡はものを映すだけしかない
シーンも同じだ
あなたを映すだけしかない
それは変えられない
変えられるのは、根本の側、
つまりあなたの方だ
だがあなたという自己はいない
あるのは「意識」という本当の意味でのあなた
いまそこに展開されている世界は
あなたの見たいものがそのまま鏡として映っている

日本の神社の社殿に必ず鏡が祭られているのは
そういうことだ
ただし「自己」はない
それは単なる思考、つまりそもそも存在しえない幻
あなたはその幻を自己としている

街を歩いていていて
異性がこちらを向いて指さし馬鹿笑いをする
さあ、今日の記述を思い出すチャンスだよ

 


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  1. tamatama3 より:

    自分さん、こんにちは。
    先日は温かい返信をしていただき感謝します。
    哲学書や宗教書を読むのが趣味のため、無限の書は衝撃的に面白く、また理解不能な個所も心地よく。
    最初はランダムに読んでいたのですが、きちんと最初から読みたくなり、ここまで来ました。
    とにかく心に響くところは忘れないためにメモを取り、後からまた読み返したりしています。
    ただ・・きっと本当に腑に落ちない限り、血肉にはならないだろうな、と思っています。どんなことでも同じですね。一生懸命やって「うん、よし!」と思う瞬間、何かがカチッと音を鳴らすような感覚が、個人的な合図なのですが、それが来ない限り涅槃の書を体内に入れるのは難しいと思っています。
    今回の記事ですが、私は小さいころからひどく人目が気になるたちで、人の言葉や態度に傷つきやすく、人生が大変でした。もちろん思い出す記憶はおっしゃる通り「シーン」です。けれどその自分を傷つけた人の視線や言葉が自分に向いていなかったとか、そのように考えるのは今の時点では難しいです。
    自分がそのシーンを思い出すのはそこにいたからこそ、それを思い出すのでは?
    「自分がいない」と思うのは、かなりの難所です。なるほど、それが悟りというものなのか・・と頭で理解はしているのですが。
    実は、納得できそうもありません。この世に生まれてから気が付けば、自分の感覚があり、他者や環境がありました。
    すべては諸行無常、そう思って生きてきました。
    今はないものも多いので、過ぎ去った過去は本当に幻だったかも知れない、そこは納得しています。ただ、それを感じてきたのは、そこの印象を受けたのは、「自分」だと思わざるを得ず。
    自分を風景の一部に思えるとは、到底思えず。
    たぶん「(個人的な)自分がある」と強く強く思っているせいです。
    この涅槃の書を今、読んでいるのは「私」。それを記憶しているのも「私」。そう思えてならないのです。
    こうやって探求しているには訳があります。もちろん自分のためでもあるのですが、大切な子どもに真実を伝えたいのです。私はいずれこの世から消えます。私の子どもになって生まれてくれた大切な存在に、私が人生をかけて探求したものを伝えて、安心して人生を送ってほしいからです。
    お時間のある時に、返信してくださるとうれしいです。

  2. 色即みっちゃん より:

    高いものは低きに流れ、低きものは高いに流れる。

    出会いが別れを呼び、別れが出会いを呼ぶ。

    得るが喪失を呼び、喪失が得るを得る。

    生が死を生み、死が生を生む…。

    この世界は幻影…。

    自分でさえも幻影…。

    されど自己はいる…。

    それはそれは、強烈な思い込みだ…。

    奇跡という言葉がある…。

    何故に奇跡が自分には現れないのか…。

    奇跡が現れないのは当然である…。

    常に奇跡のなかに居るのだから…。

    最後に付け加えましょう…。

    人は死して死なない…。

    そして最後には全てを悟る…。

    • 色即みっちゃん より:

      愛したことも、笑ったことも…。

      怒ったことも、悲しんだことも…。

      全てなかったんだよ…。

      そして、それを知るときに…。

      「ああ…。そうだったのか…。」

      なのだよ…。

  3. Aslan より:

    >異性がこちらを向いて指さし馬鹿笑いをする
    >さあ、今日の記述を思い出すチャンスだよ

    そう。まさにそうなんだよ。
    今日、「異性が俺の悪口を言っている」と言う観念が生じた。
    そして涅槃の書を思い出した。
    正直、それは誰に言っているのかわからないのである。
    ヒソヒソ話なので、誰に対する中傷なのかまったく分からない。
    しかし、「俺に対する悪口だな」と何故か、マインドは解釈したのである。しかし、同時に「本当か?」と疑いもするのである。
    どうも、「私に向けられたものではない」ような証拠もあるのである。
    しかし、何故か、そのような出来事にインパクトを受けたという事実はある。

  4. Aslan より:

    また、異性関係の夢を見たのだが、このリアリティは何なんだろうか。
    こんな人には、人生であったことが無いのだが、このキャラクター造詣のリアルさは、俺の夢を黒澤監督が総指揮でもして作らなくては出来ないと思うのだ。その女性には事情があって、連れ子が居る男と結婚したが、子供がなつかず、色々あって色々したなどの話があり、なるほどなと思うが、現実だってそんな感じではあるな。
    他者の存在は9割くらいは空想でしかない。
    だとすると、やはり夢なんだな。
    夢の中の女が、いかにリアルだとしても、そのリアルさは、一瞬で自分がキャラクター造詣したに過ぎない訳で、それは私の思考であると。
    「色々と複雑な事情をかかえておるな」と思うが、複雑な事情を抱える女を一瞬で生み出したのは私の思考な訳で、その女は私の思考の中にしか居ないわけだ。

    • Aslan より:

      二度寝したらkomattaさんも出てきた。
      街の占い師役で。

      リアルであったことも無いのだが、何故か夢の中では、それがkomattaさんだと、先験的に理解している。

  5. 普通さん より:

    そういう夢ありますよね。

    • 普通さん より:

      世界には私しかおらず、そして私は実在しない
      いまだに混乱します。今は普通にそれぞれ他人がいると思いながら見てますけど。鼠先輩とジブラって似てるよねみたいな話題から他の人はどう見えてるのかとか。それぞれ違う世界で違うもの見てたら何かが似てるという共通点だけで他人は△と△とか見えてるのか。

      こちらはマインドでの思考だけど、ある最近の方の別記事のコメント見て事前に注意してくれるって親切な人だなあ…と思ってたら、ご注意うけてたので…。ええ~?そうなの?とか。薬局の薬の使用上の注意的な感覚でとってたから、そうなの???とか。これはマインドより感覚だし感覚そのもの、受け取り方がおかしいのかなぁ…など。

      それと、もしかしたら上記の方のご質問がそのままになってる状態ではないかと。タイミングを待ってる状態ならすみません。一応、あげときます。また眺めてみます。

    • 普通さん より:

      追記ですが、生存欲求超えて「私、一人しかいない、自らの世界がある」は一瞬、ほぼ電光石火で「気づく」って感覚でしたから。

      今のように全てが私の脳内現象で全ての人が私に語ってるという感覚とは違います。気持ち悪いほどシンクロや誰かが、この前もった疑問を話題にしてたり感情、感覚、タイミングは一致することは多いけど今はリアル状態とは必ずしも一致しない。リアルで動植物とほのぼの気分でもネットでタイミングはあってるけどリアルは違う。

      前者は一切、矛盾も疑問も疑惑もなく確信してたから無口になり後者は、あれ錯覚だったのかな、実はなんかの病気だったのかとか。生存欲求超える自体がかなり辛かったから一時的なショック状態の幻覚だったのではなど。後者のマインドからの他人はいないで見るようになると間違い、混乱が発生しやすいです。

    • 色即みっちゃん より:

      最初に注意しとくね…。
      システムに引っ掛からず。
      ノートなどに自分の想いをまとめ整理してから
      投稿しなさい…。

      では本題…。

      昨日今日の俺のシンクロ…。

      昨日の夕方に仕事から帰宅してニュースを見た…。

      末期的な癌患者の最後を自宅で看取るとの内容だった…。

      誤解を受けるかも知れないけどね…。

      亡くなった方の御顔を拝見したらね…。

      神聖な気持ちになって手を合わせていたよ…。

      今日は俺の作業場に朝から一匹の蜂が同じ場所に、
      ずーと留まっていたよ…。

      死にそうだったから、そっとしておいた…。
      昼過ぎに絶命したので後輩にプレゼントした…。

      その一時間後に今度は揚羽蝶が同じ場所に…。

      またしても死にそうだ…。笑

      帰宅までそっとしておいたが…。

      揚羽蝶は同じ場所にずーといた…。

      俺が死に神聖を重ねたからかも知れないね…。

      この世界は欲望のない、
      ほんのイメージに反応するのかも知れないね…。

      全ては幻影だね…。

  6. 普通さん より:

    ノートに書いてあることは書いてあることは変わらないのですけど。
    以前と同じ質問ですね。
    「私の一人しかいず私の世界」で他の人には□△●に見えて私にしかこの文章は見えてないのなら過去記事のエジプト王やヒトラーの横で眺めてたのは私に向けてだけの文章になるので気になる。

    「痛いの嫌」が本願だったが、それを乗り越えないかぎり、そういう目にあいやすいと予測されている。それを回避させるために余計に意識がそこに集中してしまう。

    「天体情報」と「世界情勢」のニュースを目にしやすくなるので大袈裟に考えがちで私一人になると世界=自分になり目の前の見えてる範囲が自分の領域と思っても何かと、「ふと」耳に入る情報に疲れる。

    「死」に関する話題が多いので家族に危険事が及ぶという余計な心配をしてしまう。

    ほか細かな疑問は多いですが大まかなところはそれくらいです。
    このあたりの疑問から「脅されてる」ように感じることもあり今は自分は自分、人は人のほうが被害妄想にならないからいいで通してます。

    とりあえず見える範囲は、ベランダに米を多少、まくのですがスズメがきてくれるようになりました。フンの掃除はしないといけないですが、そういう掃除面に口うるさい母がスズメの仕草は微笑ましいのか、何も言わず可愛いと言ってます。警戒心の強い鳥らしいですが家の中まで一匹入ってきてて驚きました。そっとしておくと勝手に飛び出しました。
    猫も手をださずほったらかし。

    虫はよく入ってくる季節ですが大きいのは大抵殺さなくとも外でてくれます。「自らの守備範囲」が見える範囲ならリアルは緑も多く、カラスもスズメも微笑ましい声で今のところは肉眼であまり生物の死は見ないですね。秋はセミの死骸など目につくかもしれませんが。
    シンクロにはフェイントだから悩まされるけど夢の中で金縛り以外は霊的なものには悩まされてないです。見えない聞こえない。たまに走る暴走族の音以外は「私しかいない世界の」リアル「守備範囲」は気温も生物も穏やかですね。

    • 普通さん より:

      ごくごくたまにトラックの振動か家具がきしんだりする以外はオバケみたいなのは見たり聞いたりはしない。

      ただそっち面でなく就職とお金と病気のタイミング。もしも霊的っていうなら怪談話より、こっちのトリプルコンポできてるんでないかなと。
      これを幻想とするのが性格の良い人やら可愛い動物と違い、難攻不落の
      「システム」相手な面もあるだけに、なかなか厳しい。

      このへんはもう普通の内観じゃそうそう変わらないだろうから、もう坊さんより武蔵、宮本にでも弟子入りしたほうが…。てくらい根性いりそうで何かやる前から、先のこと考えてしまって、へたってます。

    • 愉快 より:

      すごく、優しいですね。
      生き物に対しても。

      うち、先月から上に越してきた住人がかなり足音の大きい方で、隣は外国人が住むようになり、たまに大人数で騒いでいる時があります。ゴミ出しのルールもあんまり守ってなかったりして。

      こういうのはしょうがないかなーと、そのうちなるようになるだろうと思いつつも、むかっ腹立てながら耳栓をして寝た夜もありました。(笑)

      そうそう、涅槃の書の印象的だったフレーズを探してみたらそんな記事はなかった、ということがありました。たった数日前読んだばかりなのに。まるでわたしに向かって強く訴えるような語り口に見えたのに変だなあと。

      いつだったかな。その時は多分夢だろう、と忘れてしまいましたが、普通さんが仰っているようにそのひとにしか読めない記事があっても不思議じゃないって思っちゃった。(いや、そんなバカなとも思う)

  7. 普通さん より:

    いえいえ、動植物が大好きなだけなんです。
    外国の方増えましたね。個人的に会社なんかで知り合う人は今のとこ、どの国籍も関係なく優しい人しか当たってないのだけど。
    クラブで黒人の方に頬にキスされたり踊る時、体を密着させられすぎて
    「文化ちがうんだよ」とか内心、無礼者なと思いながらも詐欺られたり暴力など受けたことはないです。

    だけど近所のスーパーでも温泉でもホテルのエレベーターまちでも早口で捲し立てるように団体さんの外国の方が増えたかから個人、個人ではいい人って解ってても、どこかで排他意識もってしまってる自分に気づいて、自分の偽善者ぶりが嫌になったりします。「世界に私しかおらずなら」同じ空間にいる以上は外国の方でも私の光の分身なはずなのですが。

    そういえば過去記事、一応、私のほうでは見れるけど愉快さんには違う文面に見えるのかな。愉快さんから見ると恋愛ストーリーが書かれてたりして。なんて思ったりします。

    最初、自分さんが「自分に憑依されてる」も意味、まったく解らなくて
    憑依って若い時、再放送で部分的に見てた「マクロス7」の時空からの敵のこと?とか内心、ジョークいってたの思い出しました。マクロス7は歌で平和的解決で話はよかったんですけどね。
    そんな解釈がよく似た映画の話なんてのに投影されてるのかもなとか。

    はじめての気づきの時、「みんな私だ、私の世界だ」は気づきエゴ解体だだったので「何が欲しいか、何がしたいか解らない」といった赤ん坊のような感覚にはなって「視点」が変わったという体験はしたけど今迄覚えてた日本語は使い、知識は使わずとも覚えてて幼児退行はしませんでした。

    「私はいない」という感覚になり「インスピレーション」しか降りない感覚になると話す言葉は全て知恵につながり神の言葉になるのかなと自分さんの、その日によって180度意見が変化するランダム記事見て思います。

    それをなんとなくのインスピっぽい感覚でそれに気づいた時は
    今夜はエンジェルの「怯えずに羽ばたけは大地までつかめる」と
    「同じ体を冷たく見つめてる」「時を超えるのさー」のフレーズが浮かびます。私は中途半端だから、そのあと凄い怖さを感じてしまったりもするけれど…。

    • 愉快 より:

      コンニチハ〜!(外国人風)

      そう!
      感覚違う!文化違う!って思いました。

      たった今大家さんからなにか変わったことはありませんか?って電話がきたのでビックリしました。遠くに住んでるのに思念みたいなのは伝わるのかなーとか思っちゃって。

      自分さんの手記とここのコメント欄を読んでいて思うのは、わたしが認識できることしか認識できない。っていう当たり前のことでした。

      解釈は無意味だとも。
      無意味だけど自由だと。

      だれかと話していて、今言ったこと通じてないなーと感じた時に、前は更に言葉を重ねて誤解をとこうとしたんですが、最近は流すことが増えました。

      それは、どうせ話しても理解し合えないみたいな不貞腐れた気持ちではなくて、もともとそうだったではないか。そのままにしておいてもなんの問題もない。「これでいいのだ!」という、バカボンのパパのセリフみたいな感覚です。

      さっき、道を歩いているときに空気?に話しかけられているような気がしたんですよ。あえて台詞にするなら、
      「あなたはわたしのかわいい子どもだ」
      「何を目にしても何を耳にしても、安心して楽しめば良い」
      「ほら、木々が、緑が、ひとびとが、あなたが、美しい」
      みたいなことです。

      そういうのをもし、幻聴が聞こえた!と解釈すれば病気のことを思い出して不安になるかもしれないけど、ただそうなんだーって思えば太陽は眩しくて、暑くて、街はいつもどおりで、いつの間にかクリーニング屋のおばさんと小銭入れが軽くなって良かったーみたいな他愛もない話で笑ってる。

      あれ?ここまで書いて思い出したけど恋愛モードはどっかに行ってしまったようです。

      銀魂実写化に気を取られているうちにわたしのムードはギャグ漫画に移行したようです。ハハハ

  8. 普通さん より:

    こんにちは。
    お笑いは好きですね。ここのコメント読んでて、え~~?そうとるか?
    ええ~~~~~??みたいな時に昔のゴッツええ感じの外国人役してた松ちゃんが、腕組んで眉ひそめて頭傾げて「ええ~~~~~???」ていう仕草を自分と重ねて、ぷぷっとしたことあります。

    銀魂はシリアスは割ととばすんだけど毒舌の神楽ちゃんコントとお金と業界裏話ネタで笑って、やっぱエゴないと楽しくないじゃんとか思ったりも。

    楽しいやら静観の状態で、なんか話しかけられてるって感覚とかいいかもしれないですね。私は明晰夢?程度で実際、霊現象(見たり聞いたりは体験ないんだけど)若い時、救急車で運ばれて気管支炎の発作で死にかけた時かな。家族仲最悪で体調悪い時、親子喧嘩しながら「こんなに辛いなら、もし霊とかいるなら体あげるわ。もうこんな人生ならもう誰かに体渡すわ」と心の中で呟いたら、急激に具合悪くなって息できなくなって救急車。見たりとか聞いたりはなかっんだけど、あのタイミングから、あれから、それまで霊感の強い友達も単に目立ちたいホラ話でしょ~?みたいな大槻教授派ではあったけど、ちょっと自分の信じられない見えない世界もあるのかもしれないな…と頭のネジが緩んだ体験でした。

    ネガティブな現象が続いてる時は自我強くもってるくらいのほうがいいかもしれないですね。たまに空想で別次元のエイリアンとドッグファイトして妄想の中で戦闘楽しんでます。(笑)。

    • 愉快 より:

      ハローハロー!

      きのうここに何か書いていたら電話がかかってきて、そのまま出かけて帰宅して寝て、起きてみたら送信されてなかったし書きかけのも当然消えてました。

      なんか、これそのものがヒントみたいな気がしたよ〜。

      ところで、銀魂シリアス回はわたしもあんまり見ないのだけど、現実シリアス回は見ないってわけにはいかないからわたしたちは悩んじゃうのですよね。

      でも、毎回ギャグ回だったらあの漫画、ヒットしてなかったかも。

  9. 普通さん より:

    おはようございます。自分さんと愉快さんは、なんとなく似てますね。
    同じように真理部分を語られるからかな。愉快さんは忠実に文句いつもいわずこなされてるからいつも、きっと私より色んなインスピ受け取られてるだろうな…と思う時あります。語られてる方、全員が自分さんにも見えて後で混乱とかも実はあるんですけど。

    自分さんの昨日の記事、「永遠を見つける」よかったですね。
    他の方のコメント含めて「ありがとうございます」と自然にでて、汚すのが勿体なくてコメントしませんでした。

    いつか消えゆく儚い泡だからこそ、この泡を大切にしたい。重さのない温かい優しい印象。

    私はいつもそのへんで「この泡を絶対、守るぞ!」になり何故かゼロファイターになってしまう(笑)。

    銀魂、シリアスも熱くて嫌いじゃないんですけどね。
    お笑いとシリアスの落差が凄すぎて。雪山で谷底に落とされても死なず羽ついてないのにタケコプターみたいに自分で腕、回して飛んでいく将軍様が、シリアスじゃ物理法則に妙に従って毒殺されちゃって…。
    ファンだったのにぃ…。ちょっと落差ひどくない??でシリアス回は渋い熱いけど重い…。でパスしがちです。
    私の映画もシリアス回だからなかなか…。

    だから武蔵、宮本に弟子入り(笑)

    • 普通さん より:

      一応、補足。このへんで変な思想もちやらミリオタと誤解されそうだから。
      言葉カブリや比喩としてはでてくるけどおかしな思想はもってないです。

      宮本武蔵は歴史でも関心なく最近までは名前しってる程度で母方の田舎の近くの自分ところの宗派の寺やらなんやらのルーツで歴史調べたり知ったくらいだけど。五輪書がビジネス書として上司にどんな無茶いわれても「冷静」に仕事していくって現代のビジネス書とも真理面で日本に限らず通じるというとこで。

      サラリーにこだわらるなら「組織」は絶対だから「論理的思考のすすめ」や自己啓発読むよりは、自分さんと同じように積み上げるより「捨てていく」面かいてるようだから、心構えとしては、混乱しやすい今には、いいかなぁ…。程度。

      いつも

    • 愉快 より:

      おはようございます。

      将軍の雪山回、思い出して超笑った。シリアス回では死んでましたっけ?やっぱりそっちはあんまり見てないから知らないっぽいです。

      >語られてる方、全員が自分さんにも見えて

      多分そうなんでしょう。

      困ったさんがkomattaさん表記に変わった時期かなあ。ありゃ、困ったさんもわたしも似てるけど他のどのコメントも似てると感じて、ああー作者が同じだからかーみたいに納得した時がありました。

      作者=神みたいななにか、とまでは思わなかったけど、とにかくなにか。

      だいたいみんな同じだ !

  10. SweetMoon より:

    以前読んだどきに気になっていたのですが、

    >怒りに満ちていた「あの時」を思い出したとき
    実際は「あなたの思い」だけしかなかったのに
    なぜかシーンばかりが出てくる
    背景
    相手が話している姿
    その場所の状態、温度、色彩

    記憶を思い出すと、自分の身体の縁取り?のようなものもうっすら見える気がします。これは普段から自分がいると思っているゆえの私の妄想なのでしょうか?(きちんと記憶を見ることができていない?身体は自分ではないのでそれもシーンの一部ということ?)

    >いいかい
    「ドアが開く」
    それはシーンだ
    「母親が」
    それはあなたの観念だ

    「ドアが開く」も観念なのでは?と思ってしまいましたが
    違うのですか…

    • 涅槃の書-自分 より:

      SweetMoonさん

      >「ドアが開く」も観念なのでは?と思ってしまいましたが違うのですか

      あなたは手記から掴むべきところを逃している。これは普段の生活世界においても、特に注意しておくべきところだからアドバイスしておくよ。

      まず以前のあなたへの返信で「尺度」について話したのは、それはあなたがはじめからまったく違うところをみて話していたからだ。そしてその尺度の話の”意味”もまだ理解できていない。

      それはつまり、何が語られようとも、またあなたが日々何を体験しようとも、すべては大きな腕に抱かれたなかでの「夢」であること、ゆえにどんな小さなことでも、また日頃は無関係に捉えられること(駅に向かっているときに視界から消えていくガードレールや街路樹や落ち葉など)も、すべては思考を介さないならば「すべてがなぜあるのか」がみえてくる、という示唆にある。

      あなたから頂くコメントやメールには「これだけのことをやったのに、いまだ何もわからない」という嘆きがいつも含まれている。

      どうしてわからないのか。それはそもそも「わかるなにかがあると思っているから」だ。

      そんなものはありはしないのだよ、”そのこと”を伝えるためにすべての手記はあり、私はあなたの前に現れている。それはまたあなたの現実もそうだ。たとえば人間関係や光熱費の支払いなんかがあるのは、それらをやったらから何かがわかるのではない。

      さてこの手記の重要なポイント、つまり古来より伝えられてきた話の最も核心となるところは、3つめの段落にある、「この記述を読むとき理解しようとする思考の動きがある」というところにある。いつも話すことだが、どの手記にもこうした仕掛けを組み込んでいる。

      全体からすれば派手さのない、何でもなさそうな一文が、この手記というピラミッド(すなわちあなたがこの手記を読んでいるという現実)を崩す鍵となっている。

      つまりその直後に続くように、この手記のいかなる解釈も「自らを騙し込んでいるだけの結果に成り得ない」わけだ。ゆえに「だからそこを踏まえた上で知識として留めておきなさい」と最初に断りが入るわけだね。

      その意味であなたのその問いは、月をさすについて思案し続けているのであって、この手記が示している核心であるもの、つまり「月」を捉えようとしていない。

      いくつか例をあげておけば、たとえばあるレジャーやスポーツを”通じて”、解放的な感覚に溶け去りたいのに、その方法にこだわるあまり、結局解放を逃しているようなものだ。

      旅行の真の価値とはどこへ行ったかではなく、それがどこであろうと、その未知の場所で一切の経験則のない、つまり今この瞬間だけに存する自分自身と対面することにある。

      ところが「いま自分はどこどこに来ているぞ」とか、「次はそれまでとは別の違う場所を探そう」というように場所自体が目的となれば、その真価を見失ってしまう。

      ある絵画や自然の光景にふと言葉にならないものを感じて立ち止まったのに、その原因を探ろうとしているようなもの、その掘り起こしは決して絵画や自然の光景のなかでは行われず、いつもの己の思考のなかのみでしかない。しかしそこでいったい何が見つかるというのか?

      恋愛や友情、家族愛などへの後悔にもいえる。相手に求めすぎたばかりに破局し、あとになって「ただ一緒にいるだけでよかったのに」と気づく。

      これらに共通しているのは、そこに何があれ、そしてその理由はわからないけども、「理由がわからないゆえに」現前するもの、己を包み込むもの、己を貫くものを感得することにある。

      逆に理由が「(分析的に)わかる」とき、それは包み込まれずに分離しており、貫きから自らで身をかわしていることになる。

      だがなにがわかったというのだろう?

      現前する未知なるものから目をそらし、あなたはこれまで何万回と繰り返し続けた解釈を、またも知っただけでないのか。

      その自己解釈の世界から抜け出たくて、あちこちと手をつけて回るが、すべてはあなたの翻訳に置き換わる。今回の問いにしろ、これまでのあなたの質問のすべてはそのことがにじみ出ている。

      だからこれまであなたが目を通してきた何人もの名だたるマスターの教えは、私からみれば、あなたの根底的な思考構造を破壊する斧を振りかざしているが、あなたはその斧をいつも避けてしまう。だからあなたにとっては、その”斧のひと振り”が己を崩すための教えとして受け取らず、己を強化するためのもの、己の欠点を補うためのものとして、これまでと同じ成長のための養分とされてしまう。

      人間の歴史をみれば、それがよくわかる。

      あまりの貧しさに互いに奪いあい、傷つけあって苦しむ村の人々を見かねて、その隣の村の良心的で豊かに暮らしている人々が「これをみんなで分け与え、そして全部食べてしまわずに、残りは土に埋めて来年また実らせるようにするといい。私たちもそうやって豊かになった」と糧を渡したとする。

      ところが、貧しい人たちは「分け与える」とか「来年に実らせる」という抽象的な視野を持てず、いま自分が直面している危機を回避し、枯渇を潤すことしかみえていない。その視座を飛び越えて、そこから自分が何を思考しているのか、自分が何を行為しているのかを見下ろせるまで上昇できない。

      これがあなたに足りないものだ。あなたは感じるのではなく、分析することで「そこにない何か」を獲得しようとする。それは貧しさである。

      だが感じることは「いまここにあるもの」でしかありえない。それが豊かさだが、その豊かさ(つまり己がいま満たされていること)を知るためには、既存の思考の規定から離れなければならない。

      どうして人間の歴史はこうも同じことを繰り返し続けてきたのかといえば、それは言葉が支配しているからだ。人間から言葉を奪い去ったら、実は「樹木が風に揺れているだけだった」という衝撃の事実と対面するだろう。

      もちろん樹木も風も観念による表現だが、言葉として名付られる以前にある「動き続けるもの」だけと対面するということだ。(このように「〜は単なる表現だ」と言い直さなければならないところがあなたへのすべての返信に含めなければならないのであり、だがこのことから、あなた自身がいかに表面にばかりこだわって本質を看過しているのかに気づく必要があるために、わざと書いておいた)

      言い換えれば人間の世界とは言葉が活動しているのであって、人間が言動しているのではない。この文脈でいうなら私たちは人間でもない。無意識とは言葉の活動を無制御に許していることにあり、それが「眠り」とよばれるものだ。

      このことは長くなるのでまたどこかでまとめておくけども、突き詰めていけば、私たちは生命という一者でありながら、言語においても一者であることがみえてくる。巨大な言語ネットワークが稼働し続けているだけ、つまり物理的な生命現象も人間という言語活動世界においても、それら総体のなかの一部分が切り取られたものとして、あなたは自己を捉えている。

      その自己を捉えている「枠」が自己意識となる。そして物理的な生命現象(「物理的な生命現象」という認識自体がすでに言葉がそう表現しているにすぎないから、言葉の名付け以前にある動きそのもの)が、大いなる意識、つまり自己意識の枠が溶けたときに”ひとつになっているもの”となる。

      自己意識という枠は「対の成就」によって成り立っている。割れたハートとよく表現するものだ。

      たとえばこの世は人であれ物事であれ、すべて「関係性」という橋で相互が行き来するようになっている。逆にいえば関係性があるからこそ相互が現れるのであり、あなたがそこにペンを見ているとき、あなたもペンも関係性ゆえに存在することになる。それらは不可分の関係にある。

      つまり「あなただけがそこにある」とか「ペンだけがそこにある」ということは不可能であり、それはありえない。

      もちろんどのようなときでもそう。あなたが自分を知っているとき、そこには必ず何かがある。外部の物事でなくても心のなかで浮かべていることなど、何かしらの対象がある。

      こうして常に存在している関係性がこの手記で「シーン」とされるものだが、つまり意識のスクリーンのことだ。いま周囲をみればハートの断片ばかりであふれているだろう。だがあなたがそれらを捉えているならば、必然的にあなたはそこにいるのであり、ハートは常にひとつ=シーンのなかにある。バラバラにみえてもそれを知るあなたがいる限り「ひとつ」なのだ。

      だからあなたの「ん?この話でいうならドアも観念じゃないのか」という表面的な問答を超えなければ、ガチョウは瓶の外には出てこない(禅問答)。

      やや厳しい返信に思えたかもしれないが、だがこのアドバイスはあなたにとって最も大事なことであり、むしろこのことに気づけたなら、あなたは一切の”荷物”を下せるだろう。

      同じ失敗を繰り返さないことだね。何か思うことが頭に浮かんだならば、「自分の」疑問としてそれを捉えるのではなく、「自分が」疑問しているという姿を眺めることだ。

      ならばあなた自身が「シーン」としてそこに在る。

    • SweetMoon より:

      ご返信ありがとうございます。

      >やや厳しい返信に思えたかもしれないが、

      はい、久しぶりに動揺するぐらいネガティブになってしまいました(^o^;)
      とりあえずたくさん何度も読みます…

    • 涅槃の書-自分 より:

      SweetMoonさん

      よいことだ。大事なのは自分に対立するものほど重要だということにある。ただしそれは無理してすべてを好きになるということではない。

      陽の光や川や木々や草花、鳥や虫たちがいることで「森」は成立する。それらなくしては森はありえないわけだが、かといってそれらが互いに気遣いあって存在しているわけではない。

      それぞれが自分自身を完全に生きているから(エネルギーとひとつになっているから)こそ、超越的な意味での共存共栄が「森」として現れているのだ。

      その観点にあるとき、”対立”は各々の”独立”に変わる。つまりすべては「対等」となる。その現れこそが「森」なのだ。これがこの手記でいうところの究極の境地にある。

      「この2つの理解は同じ場所に辿り着く」だね。

      あなたはこの社会を自由に使えているだろうか。そうでないならそれは他人の手の中で生かされているからだ。

      だから結局のところ、まず「自分自身を生きる」ということを学ばなければならない。食べるために働くのではなく、働くために食べるのだ。身体が先であること、観念を先にもってこないことだ。

      つまり学ぶとは、自分の目でものを見るということであって、決して既存の学問や圧倒的な知識に「学ばされる」ということではない。見せられていては何も学びにならない。

      そうして「真に学ぶこと」を理解したなら、あなたはこの宇宙という「賑やかな森」のエネルギーをよりロスなく享受して、フルに活用できるようになるだろう。

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