よい自我とわるい自我

自我なんていらないもの
スピリチュアルや宗教では
そういうふうに教えられるけども

しかし自我といえども
良い自我と悪い自我の2つがある

とはいえ良い自我というのは
もはや自我でもないんだがね

それは後述するとして
つまり「自我を捨てなきゃ」と考えてばかりで
自我を手放す”架け橋”となる良い自我さえも
跳ね除けてる人が多いので今回の話となる

まずは悪い自我からはじめよう

 

悪い自我

18世紀の西洋で
画期的な設計で構想された刑務所があって
そのときはまだ実現しなかったんだが

どんなものかといえば
真ん中に監視塔があり
それをぐるりと囲むように
囚人たちの独房が並ぶという配置にあった

コンパスで円を描いたときみたいに
真ん中の針が監視塔で
円が囚人を収監する収容棟というわけだ

独房施設なので
囚人の部屋は壁で仕切られていて
囚人たちはお互いをみることはできず

また窓は入り口側と反対側とで2つあり
光がよく通るゆえ
監視塔からは独房のなかが筒抜けによくみえる

つまり塔からはすべての囚人を
ぐるりといつでも監視できる状態にある

ところがうまく設計されていて
囚人からは塔のなかは
暗くてみえないようになっていて
だから囚人たちは常に孤独でありながら
一方的に監視されている様子にある

さて、これのなにが画期的なのかといえば
どれだけ多くの囚人が収容されていても
塔にいる監視員はひとりでもよく
さらにいえば無人でも構わないということだ

なぜなら囚人たちの部屋からは
塔のなかに人がいるかどうかが
わからないからであって

だが”それゆえ”に
いつも監視されている気分にある

24時間ずっと緊張に満ちて
怠惰にできないし悪事も働けない

懲罰を受けたり刑期が延ばされたりするかも
しれないからだ

また逆にみられていると思うからこそ
いい格好をする自分を意識したりもする

“認められよう”と思うからだね

そのようにして
常にみつめられていると感じながら
いい子ちゃんな自分を演じ続けるわけだが

まさにこのときの囚人たちの姿こそが
人間関係や社会のなかで暮らしている
私たちそのものにある

これはよく知られた話であって
フランスの哲学者だったフーコーは
この比喩をベースに管理社会の構造を議論した

今回はそこまで大掛かりな話ではないけども

重要なのは
「自分がどのようにみられているか」を
囚人がイメージするには
看守の視点に立たなければならないということ

つまり自分が相手に
どうみられているかを知ろうとするほど
相手の目で自分をみている感覚となるわけだ

だがそうして相手の目で自分をみるだけ
それを意識した”自分”があり続けてしまう

そう、ぎこちない自分がね

ところが刑務所の構造のように
塔の窓は暗くて
相手が本当にいるかどうかはわからない

かといって凝視してしまえば
悪事を目論んでると勘違いされるかもしれない

だから見て見ぬふりをするが
しかしそれはずっと意識してるわけで
他人の目で自分をみつめ続けていることになる

すると他人の目によって生まれた自分を
生きることになるが
しかしその他人とは妄想の存在なんだ

いわば”看守”に服従しているわけだが
その服従によって”自分”という主体が生まれ
やがてあなたはその自分を
本当の己自身なのだと思い込んでしまう

これが悪い自我となる

こうして生まれた自我は
とても息苦しいものだけども
まさに合わせ鏡のようであり

苦しさから逃れようとする行為のすべてが
苦しむ自らを成り立たせ続けることになる

そんな出口のない迷路に
はまりこんでいるわけだ

 

良い自我

実は良い自我もこの刑務所と同じプロセス
生まれるのだけども

ただし自分をみている相手が看守ではなく

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