自分自身に戻る
苦悩を捨てるには
いかにして自分自身に戻るか
ただそれだけのことなのだ
だが多くの人がその意味を間違える
だから「自分探し」やら
努力をして何かを達成するなど
そこにない遠いものを目指してしまう
マインドに囚われているから
そんな見解しか見いだせくなっている
自分自身に戻る、とは
そういうことじゃないのだよ
あなたらしくあるということだ
だがこれもよくわからないだろう
「じゃあ私が私らしくあるようには
何をすればいいですか?」
あなたはそんなことを言い出す
普段どれだけ、他者や社会の出来事に
反応するだけの人形になっているのか
自分をよく観察してみなさい
・あなたをジロジロ見てくる集団が歩いてきた
→あなたは身構える
アウトだ
・ジロジロ見てくる集団が歩いてきた
→あなたは自分には関係ないとする
これもだめだ
そこに集団やら電車で馬鹿騒ぎする女子高生
ネチネチと嫌味を言う上司、
小言ばかり言う家族、
そんな者たちがいるなかで
あなたはどうやって平常心を保てるのだろう
「そのような状況でも心を保つのが修行です」
そんなことを言い出すのかね?
その時点ですでに戦っているのだよ
戦い続ける限り
あなたに勝利はない
つまり平常心なんてものは
「掴むもの」ではない
あなたが何もしないときに
起きている様子のことだ
覚えておきなさい
出来事に翻弄されているとき
あなたは世界に力を貸しているのだ
それもすべての力を相手に渡してしまった
嫌味な上司をあなたが見る限り
女子高生の馬鹿騒ぎをあなたが聞く限り
あなたの意識ゲージはガス欠だ
つまり力を貸さなければいい
だがそれは何も見るな、とか
何も聞くな、という意味ではない
それを誤解した過去の多くの修行僧は
自分の目をえぐり、耳に硫酸を流し込んだ
彼には目も耳もなくなった
だが依然として戦いは続いた
心の闇は消えなかった
もう気が狂うしかない
だからそれは正しくない
正反対の顛末だ
繰り返すが
何かを目指して掴むものじゃないのだよ
あなたが見ているのではない
ひとつ人生の秘密を伝えておく
そこに何かを見なさい
ここではコップにしておこうか
あなたはコップを見た──
なんの疑問もないだろう
そこにあるコップを見たのだ
あなたはいままで
そうして自分が見てきた
だがそれがそもそもの間違いなのだよ
真実はそうじゃない
コップがあなたを見てきたのだ
だからあなたの視界に投影されたのだよ
あなたが何かを見たと思っているとき
あなたが見ているのではない
その何かがあなたを見ているのだ
周囲を見渡してごらん
すべてがあなたを見ている
その感覚に委ねなさい
いつもあなたは包まれていた
決してひとりじゃなかった
よろしいかな?
ではその包まれている感覚のとき
「意識の向き」はどちらにあるかといえば
あなたに向いているのだ
いままであなたが
「自分が見ている」と思い込んでいたとき
意識はすべて外側に注がれていた
だが世界が見ていたのだと悟るとき
あなたに光が集まってくる
それも凄まじいエネルギーで集まってくる
身体は温かくなり
とても安らいでくる
精神力でも気力でも意識でも
言葉はなんでもいいが
それらに満たされている状態がデフォルトだ
つまり至福といわれるもの
ところが普段のあなたは
そういう状態にいない
椅子がそこにあるとき
椅子があなたを通じて
「椅子というヴィジョン」を起こす
これを人間的な表現にすれば
椅子が見ている、となる
つまりあなたは画面なのだ
世界を映し出す鏡のようなもの
意識の力は水のようなもので
どんな形状であろうが
フラットに保たれる
だが「自分が世界を見ている」とするとき
その世界は傾いてしまう
「意識の水」は傾いた方に流れていく
あなたという頂点(エゴ)ができると
すべては谷の方に流れていく
そうして光も水もない不毛の山が
あなたの住処となる
とても孤独で寂しい風景
不幸と書かれた立て札だけが
頂上にささっている
Letting Go
前から集団が歩いてきた
いいかい
「あなたが見た」とする限り
彼らはあなたをジロジロ見ている、となる
すでに意識の水はあちらに流れてしまった
そうではなく
その視界に現れたものが
その己の姿を見ているのだよ
試してみなさい
「私が彼らを見ているのではなく
彼らが彼らを見ているのだ」
あなたがこの理解をして
彼らの”見ているがまま”を許すとき
彼らは消える
あなたの視界からこつ然と姿を消してしまう
起きたことは2つだ
まず彼らの存在が「存在できた」ことで
循環されたということ
つまり「見ること」がそこに起きたから
集団は幻想として消えていった
これは苦悩を手放すときでも同じ
あなたが抱えこんでいる限り
それはそこに残る
だが”単なる出来事”として迎え入れるとき
それは消え去る
そしてもうひとつ
あなたに意識の光が灯ったということだ
あなたに光明が起こるとき
その対象もあなたというエゴも消える
それらは便宜的に
そこに現象していたものだからだ
椅子が視界にあるとき
椅子が見ているのだと気付けば
意識の向きはあなたの方に来る
すると椅子は消えている
やってみなさい
どんな状況でも
外を見ずに内を見るのだよ
内を見るには外からの向きを意識すればいい
外からの向きを意識する─
この意味がわかるかね?
なぜ「外からの向き」が
あなたにわかるのかといえば
その世界があなたそのものだからなのだよ
あなたは世界のどこにでもいる
だから蟻が腕を這っているとき
蟻の感触だけでなく
“蟻にしかわからないはず”の
あなたの腕の感触もわかる
音でもいい
あなたが音を聞いているのではなく
音があなたを聞いているのだ
そうでなければ
音がそこにあることを
あなたが知ることはできない
すべては「起こり」があるから起こるのだ
あなたはそれを映し出しているだけ
「聞くこと」という意図のもとに
起きた一連の流れを
あなたはこれまで錯覚してきた
歩いているときもそう
あなたが前に進んでいるのではなく
光景があなたに向かって進んできている
これも「進む」という意図があり
あなたは自分が進んでいると思い込んできた
あなたが意識の向きを正しく向けるとき
歩いていながら静止していることがわかる
つまりあなたは一歩も動いていなかったのだ
あなたの本性は
「映し出しているもの」だからだよ
世界が起こすものを
あなたがそのまま流していくとき、
つまり世界に応答をするとき
意識の力はあなたに向く
いつも後ろ姿だった女神が
あなたに振り返る
世界はそこにあるが
あなたに何の影響も与えなくなる
世界は勝手に流れていくものとなる
この手記の理解を深めなさい
意識の光がどこまで広がり
どこにも影がなく
世界もあなたも
ひとつに溶け合っている
あなたは自分自身に戻る
Notes あなたの正体, ゼロ, ワンネス, 世界, 他者, 唯我独尊, 瞑想, 観照
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自分さん、お久しぶりです!
てゆうか、なんでもっと早く書いてくれなかったんですかっ(笑)
自分、消えましたよ。
正確に言うと「自分はずっと存在していなかった」というか、
自分がずっと張り付いてたこのひと誰?という感覚なんですが。
こうやって自分さんにコメントを書いている自分らしきものがいるというか。
なんかほんと一瞬あれ?という感覚で、
気がつけばいつもの自分に戻っている気もするんですけど、
引き続き感覚が定着するまで実践したいと思います。
でも一瞬、頭がぶっ飛んだみたいで爽快でした。
毎日暑いですけど、どうぞ健やかにお過ごしください。
乱文乱筆失礼しました。
虎さん
やあ
元気にしていたかね
なによりだ
本書は様々な伝え方をしているから
自分に合ったものを選ぶとよいだろう
樹木や草花
虫や鳥たち
それらを眺めて
なぜそれらはそこにあるのか
瞑想してみなさい
本当のところ、
すべてはカタチを持っていない
観念の上でカタチとして捉えているだけで
何もかもが経過の瞬間に過ぎない
つまりすべては動いているのだ
また手記にするよ
ありがとう
自分さん こんばんわ
最近の手記を読ませて頂き、思っていたことがママこの記事に書かれていたので、本当に自分が書いていたのかと思ってしまいました。
自分の周りのモノが自分を観ているとした時、「私は常に何かに包まれている。」が解り落ち着きました。
でも「何かが私を見ている。」だけでは一方通行ですよね?
常に見られている、包まれているという感覚があれば良いのでしょうか?
全てを循環させるには鏡の意識の方が近いですか?
自分に写った全てを反射(投影)させることが世界を循環させることであり、本当の意味で人や物事を受け入れることではないかと思いました。
コメントがあればお願いいたします。拝
自分さん こんにちは
「人生を眺めていたらいつか到達出来る。」と言われ実践していましたが、期待や執着は消えず数ヶ月憂鬱な日々を過ごしました。
対象を眺めるでなく対象が眺めているに意識を変えたら、同じ世界が全く違う世界に観えました。
そして憂鬱の原因が昨夜、解消しました。
「涅槃の書」を拝読し1年経過し、なかなか意識は変わりませんでした。良いこともありましたが、最悪の出来事も経験しました。でもここ最近の手記のお陰でようやく現実が変わりました。
今まで教えて下さったことが少し解ってきたかも知れません。
導いて頂きありがとうございます。
自分さんに覚醒の炎を灯して頂きました。
これからも色々あるでしょうし、また切実になってコメントを求めてしまうかも知れません。でも何とかやっていきたいです。
自分さんの仰る通り「恐れは自分が勝手に思っているだけ。」でした。
手前の様な愚か者でも自分さんの導きで少し解りました。私より賢い読者の皆様はもっと良い処へ行けると思います。
ありがとうございます。拝
情けない男さん
こんばんは
>でも「何かが私を見ている。」だけでは一方通行ですよね?
常に見られている、包まれているという感覚があれば良いのでしょうか?
まずあなたは
「自分」という起点を捨てることだ
それがあなたを混乱させてしまう
このように伝えてみようか
そこに椅子がある
椅子はあなたを通じて
椅子であることを完了する
あなたがいなければ
そこに椅子はない
椅子が椅子であろうとする起こりもない
だが椅子が自己完結するだけで
あなたの出番はどこにもない
いるいない、の性質のものではないのだ
いわばDVDの内容を再生させるデッキだ
デッキだけでは内容がない
DVDが挿入されることで
DVDが放映される
だがデッキは?
彼はどこにいるのだろう?
彼(デッキ)は何処にもいないが答えですかね。
私が対象を見ているのでなく、対象が私を見ているという様に意識の方向を変えた処、懸案が流れていきました。
その時、私は一方通行や鏡云々は意識していなかったと思います。
ただ対象が私を見ている意識です。
情けない男さん
そこで起こるDVDの映像が
あなたが人生としているものだ
人生が起こっているとき
デッキは裏側に隠れてしまう
デッキがあるから
人生が起こる
だがデッキがどうして
デッキを知ることができよう?
映像という情報が
ただ流れている様子
決して映像の内容に囚われてはいけない
それが流れている様子だけを感じていなさい
なるほど。
少し分かりました。ありがとうございます。拝
情けない男さん
手記にしておいた
鯤さんという方が話している通り
次元の違うものだ
だから触れることはできない
だが映像が想起している時点で
それはあるのだ
それを実在という
そしてその境地がワンネスだ
凄いお話しです。
手記ありがとうございます。
感覚でいうなら全部あります。
自分さんのお話しをトータルで観るとやはり「全部存る。」になります。
もっと深く入って行きたいと思います。全部私の中のストーリーです。拝
本来の私が「私」だと思っている者に色々見せてくれているんですね。
五感が宝だというお話しの意味が解ります。
私だと思っている者が生きているのでなく「本来の私」が生きているのだと思いました。
それは全部自動で勝手に行われています。
意識の流れを内側に変えることで今までの常識が変わりました。
ありがとうございます。拝
情けない男さん
すべては動きの中にある
動きとは固定したカタチを持たないものだ
あなたが見ているものは
動きつつあるもののワンシーン
それを捉えているに過ぎない
植物は種から芽を出し
茎を伸ばして葉が茂り
そして花が咲いて実が落ちる
世のすべてを植物だと見なしてごらん
人も建物も植物だ
あなたもそう
すべては動き続けている
そして終わりがない
実が落ちて種が撒かれ
その種はまた芽を出す
その循環の中にあなたはいるのだよ
ステージで楽器の演奏を一人でするとき、自分の出した音が、世界に聴かれていると認識するとき、ものすごいエクスタシーとエネルギーで満たされますが、日常で、世界に見つめられ、世界に聴かれている感覚があれば、常にスター気分で、毎日エキサイトしますね。
逆だと常に応援の立ち位置なので、厭きるし疲れるはず。
これで、今までのクエスチョンの全てが解決する。
クエスチョンが存在しなくなる。
これは思考ですら、観念ですら、記憶ですらにも当てはまる。
強いて言えば体験者は世界だった。
世界は自分が見たい。
世界は体験がしたい。
(私のボディも世界にある)
そこに「私」がしゃしゃり出る幕はない。
だから、こちらは「世界を写している映写機」となるだけ。
その映写機から世界が自分を「見ている」。
世界は体験に満ちている。
“ほら見てごらん、神がダンスをしているよ”
「アミ小さな宇宙人」より
全てが神のダンス。
緑が揺れている。
パソコンも神のダンス。
思考ですら神のダンス。
神がタイムラグを使って自分を見ている。
そこに「私」はいない。
ワンネス。
鯤さん
爽やかハンサムさん
よろしい
何でもそうだが
楽しんでいるときは
あなたが消えているものだ
目的指向になると
楽しさは消える
代わりに
あなたが出現する
いまそこにあるものに
対応するだけでいいのだよ
何かが存在を認めろ、と言うのならば
認めてやればいい
ただそれだけのことだ
だが「認めてやる」というのは
あなたがそこに出現してしまうから
「認めないことをしない」という
スタンスでありなさい
川に流れていなさい
いつも無抵抗でありなさい
少しずつ近づいているような気がします。僕は何かイメージの様なもので生きてしまっているのでみなさんの心の声がしたみたいな感覚がすごく羨ましいのですがコツみたいのはあるのでしょうか。
ボンベロさん
あなたが起こしているイメージとやらも
あなたの中で起きているのだ
あなたのするすべての行動、
すべての思考や感情
それらもあなたの中で起きている
だからあなたの中で解決を求めても
答えは見つからない
それら一連が起きている場所
それそのものが「自分自身」だよ
探そうとしてはならない
探そうとしている人を眺めなさい
コップが私を見ている、と意識すると、
「愛されている」と感じられました。
それには「誰から」がなくて、理由がない。
私は幸せにならないと決めると、幸せ感がやってきます。
豊かにならない、と決めると豊かだなって思えて、
美しくならないと決めると、美しいと感じられます。
レイさん
そう、それが「あるがまま」だ
あなたが至福にあるとき
それは神があなたを
通り抜けているから自然と起こる
決して求め得るものでもなく
ただ自然とそうなる
神とは”それ”であり
それをそれとして
あなたが認めるとき
つまり、あなたが消えるとき
そこに祝福が起こる
あなたは中空の笛であり
神社の社(中は空)であり
息吹が通り抜けるためにそこにいる
家でも外でも
“誰か”を感じたら
彼らの望むように流してあげなさい
それは彼らを存在させるということだ
素晴らしい報告をありがとう
皆の大きな助けとなるだろう
>私は幸せにならないと決めると、幸せ感がやってきます。
豊かにならない、と決めると豊かだなって思えて、
美しくならないと決めると、美しいと感じられます。
私も今幸せにならないと決めてみたら、体の芯から幸福感が全身に巡るような感覚になりました
レイさんありがとう
ワモノさん
>私も今幸せにならないと決めてみたら、
体の芯から幸福感が全身に巡るような感覚になりました
求めることをやめるだけで
そこにあったものを感じられるようになる
誰もが無限の豊かさに包まれている
無為自然という循環の法であり
自己溶け宇宙と一体になる至福が起こる
何もかもがあるべき形へとスムーズに流れていく
ぜひ、仕事や対人関係でも生かせるよう
やってみなさい
大きな力を備えるだろう