あなたがそこにいることだけが真実
ただひとつはっきりしていること
それはあなたがそこにいることだ
退屈や憂鬱かもしれない
何をしたらいいのかわからないかもしれない
状況に悩んでいるかもしれない
そんな「人生の様子」は置いておきなさい
ただあなたはそこにいるのだ
それだけが真実だよ
人生の様子は妄想に過ぎない
いま聞こえる音、見える色彩、身体の感触
そういったものはリアルだろう
それだけを見ていればいいのだよ
あなたが不幸ならば
そこに「在ること」をもっと深く見つめればいい
その不幸など一気に吹き飛ぶパワーを与えてくれる
これは自己啓発やポジティブ思考の類いではない
あなたがそこに在ること
それ以外はすべて苦悩だ
だから明日のことなんて忘れてしまいなさい
明日の支払い?
明日のプレゼン?
明日の大会?
すべてはどうでもいいことだ
いまのあなたにとって最も大切なのは
いまどう在るか、だ
今できることだけやっていればいい
それしかないのだから
その空間にしっかり根付いて
すべてを感じ取りなさい
動きや決断は身体に任せなさい
彼はすごくうまくやってくれる
決して頭(マインド)で考えてはならない
身体に任せるのだ
それが自然の法則
この世の原則と呼ばれるものだよ
あなたが時間というものの 本質を知りたければ
常に今に在りなさい
時間は存在せず
つまり明日など永遠に訪れず
ただ今が無限に続いていることを体感する
あなたが今であり
あなた自体が完璧な世界なのだと
あなた自身が知ることになる
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自分さん
お世話になっております!
自分さんと名古屋遠征のお話ができてほんとによかったです、ご返信ありがとうございます。タイミングがクリスマスプレゼントすぎてびっくりしました笑
やはりあの不思議な安心感はわたしのわたしのなかで生きていることの証左だったのかと確信できました。引き寄せ達人さんの書き込みまとめサイトで自分さんの書き込みを見つけた時も、その時の自分の考えていることをそのまま反映したような文章で頷きすぎたのですが今回もやはり頷きまくっておりました。わたしが読むものを自分さんが書いてくださっていることに感謝しかありません。お時間を割いていただいてありがとうございます。
最近ダンスを習いはじめたのですが(突然)、
振りを覚える時、頭で振りの順序などを考えて動こうとすると笑ってしまうほど全っ然動けないのですが、何も考えないほうがなぜか上手く動けるのです!
ただ音とお手本に体の動きを合わせる感覚というか、頭で覚えるのではなく身体で覚えるほうが上手くいくのかなあなどと考えていたのです。
【その空間にしっかり根付いて
すべてを感じ取りなさい
動きや決断は身体に任せなさい
彼はすごくうまくやってくれる
決して頭(マインド)で考えてはならない
身体に任せるのだ
それが自然の法則】
自分さんの手記のこの一節をあらためて読んだ時、ダンスを習い始めたことやダンスを実際にやってみたことでより身に染みてわかるというか!なるほど、この理解のためのダンスレッスンだったのか!と思っております。
【気になるけど習い事は小さい頃からやってないと駄目だよね】とか思ってたのですが、とあるアーティストの方が【何かを始めるのに遅すぎるなんてことは無いんだよ!】と仰っているライブ動画を目にして勇気をもらって、【失敗するのが怖い】という思いも自分さんの【わたしは最初から失敗している】魔法の言葉戦法で吹っ切れました🤣これを唱えると目の前がふっと明るくなった感じがして、人生無双始まった感がすごいです!!どうせ失敗してんだから深く考えないでなんでもやっちゃえ〜!!って感じで、日々が楽しくなってきました。失敗が失敗と思えなくなってきたというか、間違いを認めないとか強がりとかではなく、経験とか学びとかのジャンルになって、以前より怖くないです!自分さんの手記のおかげです!!
あれからシンクロも多発していて、今日は夢に出てきた俳優さんがテレビに出ていて「予知夢やん!」てなりました!(わたし普段全くテレビつけないのですが、今日は久しぶりにテレビがついてる環境にいました)しかもそのテレビの内容が、俳優さんがとある作品の舞台で主人公役に選ばれたというものだったのですが、俳優さんの傍らにはCGのフクロウが映っていて。わたし昨日画用紙でフクロウ作ってたから腰抜かしました🦉超久しぶりに入荷してきたフクロウグッズのPOPを書こうと思ってた時に、「POPの形フクロウにしたら絶対かわいい!」と思いついたことも伏線だったのかと思って!
あとは買った本に出てくるモチーフが、最近わたしが気になってたものばかりでもはや見本市みたいになってたり!バレエ、ブルーローズ、ローラという人名など、色んなジャンルで気になってたものこの本全部回収してくやん!完全にパケ買いで表紙の絵に惹かれて買っちゃったのですが、運命すぎる!
こんな感じで毎日は自分でフラグ立てて自分で回収してくことの繰り返しだなわくわく楽しいなって思えるようになってきました…!すごく成長してる気がします。
meketaro0510さん
やあこんにちは。変わらず元気そうでよかった。今回も明るい光があなたの文面の行間からあふれ出ていて楽しい空気が伝わってくる。ありがとう。
ところで、このように言葉というのは単に文字の並びだけでなく、エネルギーを持って動いているんだ。
言葉が「息」と共に流れ出てくるようにね。
それはあなたが話してくれている、
>>振りを覚える時、頭で振りの順序などを考えて動こうとすると笑ってしまうほど全っ然動けないのですが、何も考えないほうがなぜか上手く動けるのです!
そのことにも大いに関係することでもある。
だから前回はシンクロニシティに関して、つまり意識に現れる世界について話したから、今回はあなたがずっと人生にワクワクしていけるその源泉はなにかについて、少し勉強のつもりで進めていこう。
さて、ちょうどmoonriverさんとの対話でヘーゲルという名前が出てるのだけども、その人は”精神”を重要視した哲学者だった。そして「精神現象学」という本を書いた。
「精神」の現象学だね。しかし精神とはなんだろう?
いまの日本人的な感覚で「精神」といえば、心の病とか根性論みたいなものとかそういうメンタル的な方面を連想しがちなんだけども、ところが精神とは、そもそも西洋の発祥の概念であって、意外なことにワクワクするときの躍動や安らぎや愛のことだったんだ。
つまり宇宙を司る「大いなる流れ」が宿ったものが精神だった。「え?」となるね。
だがこうして並べてみれば納得するはずだ。
ギリシア語では精神を「プネウマ」と呼び、ラテン語では「スピリタス」、英語では「スピリット」、フランス語では「エスプリ」、そしてヒンドゥ語では「アートマン」となる。あとヨガをする人ならお馴染みの「プラーナ」も同じ根本にある。
もうスピリチュアルな要素満載にあるね。
つまり精神とは、魂を形作る”作用”のことであり、また生命の力や呼吸や気息を指す言葉だった。これらからイメージされるように、流れゆくもの、もっといえば、流れながら大きななにかと調和しているものだった。
日本的に理解されている精神はメンタルやマインドのことであり、もちろんそれらも精神の意味を持ってるけども、メンタルは「心理の働き」という意味での精神傾向のことであって、マインドは「思考の働き」という意味での精神力のことにある。
日本ではこれらをひとくくりに精神と呼ぶから、カタカナ語はちょっと注意して捉えなければならない。
だから精神の本来的な純粋な語義とはあとで話していくように、むしろ個人的なものではないんだ。
自我的なメンタルやマインドが解き放たれたとき、つまり大きな流れと調和して、個でありながらその潮流とひとつの存在になるとき、それが精神にある。
ヘーゲルはこういうことを述べたわけで、精神の現象学とは、まさに”精神”がカタチをもって現れてくる世界についての考察のことであり、そうした純粋な精神から生まれてくる世界というのは、結局のところ、愛と安らぎに満ちたものとなる。なぜなら大きなひとつの魂として世界は現れているからだ。
あと、プネウマと似たものにプシュケーというのがあって、英語ならソウルだけども、それは大いなる流れが肉体に宿ったあと個体化した魂のことにある。
プシュケーは古代ギリシアでは霊魂や心のように理解されているが、たとえば旧約聖書では個別の命だったり、神によって命の息を吹き込まれた最初の人間アダムのように、魂が宿った状態の人間、つまりそのまま「人」をさしたりする。
このあたりは先のとおり日本語の曖昧な訳語のために明確に使い分けてられなかったりする。たとえば聖書が日本語に訳されるとき、プネウマとプシュケーが混同されていたりする。
こうした”言葉の問題”はわりと重大でね、たとえばこうして大きな魂と小さな魂の切り分けができないと、小さな魂のなかだけで人生の解決をしなければならなくなる。
だが精神という”言葉”の背後に、小さな魂だけでなく大きな魂がみえているならば、生き方も違ってくるはずだ。
つまり誰でも感じることのできる「流れるもの」があって、それを古代の人はプネウマとか、あとで書くみたいに聖霊とか、そういう”呼び名”をつけた。
たとえば自分自身の生命を感じることができるね。だがそれは本当はなんだろう? 生命です、としか言えないが、その生命と名付けているものはいったいなんなのか。それが西洋では”精神”と同じ意味だったんだ。
たしかに日本語は語彙や表現が豊富なんだけども、実際に生活上で使われる言葉はその本質を掴んでいないまま、浅いところでのみ多様な表現がされる。
むしろ、言葉の本質を知らないから、浅いところでの多様化をしなければならないのが日本語の煩雑さにある。本当はもっとシンプルなんだ。
もちろんこれは単語だけでなく、文の組み立て方もそうだね。実際「心のあり方」というのは、心のなかがどんな文法や形式で成り立っているかであるからだ。
現代のように話し言葉が画一化して、みんな同じ言葉や表現をするようになって、つまり日本語がそうしてどんどん単純化していくことが危ぶまれたりするのは、まさに誰もが同じ思考で同じ感情に陥るからであって、するとその世界はかなり恐ろしいことになる。
なぜなら同じ解決法しかないことになり、たとえばいまはどこを見渡しても、お金持ちになることでしか不幸や不安を脱出できないと思いこんでる人々で溢れかえっている。
もちろん生き方は無限のバリエーションがあり「こうでなければ幸せではない」なんてことはない。
だがそのように画一的になってしまわないためには、単語の深い意味を知らなければならないし、いろんな文法のパターンを習得していかねばならない。
言葉がまさに現実や人生を作っているからだ。
そのことを理解したならば、たとえば以下の聖書の記述も読み取れてくる。
──
はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。初めに神と共にあった。
万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
ヨハネによる福音書 1 聖書協会共同訳
──
言葉が人間の世界という”現象”を生み出しているのは、キリスト教以前の古代哲学からずっと語られてきたものだ。
だがここでは神は言葉であり、父や独り子というキリスト教独自の表現があるということだけ頭に入れておこう。
話を戻してみれば、つまり本来の”精神”を備えることこそが、快活で平穏で充実した生活が保証されることになるわけで、精神とは生命原理そのものであり、永遠の循環のなかで生じてくるものにある。
どうしてこんな話をしてるのかというと、言葉が語られるとき、先にも述べたように、それは見えない流れに乗って運ばれていくことになるが、まさにその見えない流れこそが、プネウマにあるからだ。
だが言葉がプネウマと調和してなければならない。
言いかえれば、対人関係や物事に取り掛かるとき、それが快活で平穏で充実するのは、大いなる流れに従った心のあり方をしているからにある。そう、自然に身を委ねたダンスと同じだね。
それはまさにこの宇宙そのものを体現している様子であり、仏教ならばブッダの境地であり、またキリスト教ならば神の王国にある。
つまりいろんな宗教がいろんな表現をして導こうとしてるのは、結局同じところにある。スピリチュアルも平和を望む科学も愛し合ってる恋人同士もそうだね。
たとえばキリスト教では「三位一体」という教義あるんだけども、あまり難しくならないように平易に進めていくが、それは「父と子と聖霊」という三者でひとつの実体、すなわち神であるという教えにある。
しかし聖書には漠然と、父や子や聖霊といった表現が出てくるだけで、後世の学者たちは特に「聖霊」がいったいなにを意味しているのかを散々考えて、それで意見の対立が生まれて論争やら血生臭いことに発展した。”キリスト教徒”というのはいつもそんなことを繰り返してきた。
では父と子と聖霊、これはなんだろうか。
この3つはそれぞれペルソナと呼ばれて、どれがひとつ欠けても神にはならないとされる。
やがてアウグスティヌスというキリスト教神学の基礎を作った偉大な教父がいて、父とは愛するもの、子とは愛されるもの、そして聖霊とは”愛”そのものである、と彼が結論したことが大体の理解となった。
だがアウグスティヌスという人は純粋なキリスト教徒だったわけではなくて、それ以前のギリシア哲学、特にプラトンにどっぷり浸かった人で、当時まだ何百ある新興宗教の一つに過ぎなかったキリスト教を信仰する母親から逃げて、別の宗教や異国の哲学に没頭していた。
彼の自伝的な著書である告白録には、もう散々に自堕落なプレイボーイぶりを告白してるんだけども、ところがいろいろあってキリスト教に回心して、さらにはプラトンの哲学をうまく活用しながら、キリスト教に揺るぎない説明を加えたのが「神学」のはじまりとなる。
キリスト教は他の宗教や思想を異端として斥けていたが、実は自らの基盤がそもそも異教がベースなっていたことは、アウグスティヌスのあと何百年も誰も気づかなかった。
実際、彼の書いた「三位一体論」では、上の「愛の三つ巴」を述べたあと、よりプラトン的な実践に進んでいく。
つまり三位一体の構造とは、人間が「真実の知恵」を得ていくためにあり、人間が神そのものを分有して現れているからこそ、つまり神の似姿であるからこそ、人間は”精神”であって、だから神を認識すること(観照すること)自体が大事なのだとした。
そうあることで、3つのペルソナはひとつの実体としてあり続ける、というわけだ。
そうして聖霊とは「愛そのもの」、つまりギリシア神話でいうエロスの原理であるとしたわけで、それはまさにプラトンの最上級のイデアである「善のイデア」を聖書の解釈に用いたことになる。
では善のイデアとはなんだろう?
それには少しこの宇宙について考えてみようか。
銀河や天体でもいいし、地上の大自然でもいい。
短い目でみれば、火山活動や星の爆発みたいな天変地異があるけども、だがそれらは長い目でみれば、全体の調和のために起きている。
つまりこの宇宙は常にバランスが取れているわけだが、それはどういうことだろう? いったいなんのために?
もちろんそれは人間には決してわからないことだが、だがなんらかの目的を持って動いているようにも取れるね。
これもよく話すことだが、科学者は宇宙の法則をみつけることはできる。しかしその宇宙の法則とやらがなぜあるのかは誰も解明できない。
雨が降ったり春になれば桜が咲いたり、太陽のまわりを惑星がぐるぐる回ったり、そんなおなじみの活動のなかに私たちは存在しているが、しかしこれらはいったいなんのためにそうなんだろうか。
だけどもそのおかげで生命世界があるわけで、つまり人間が幸福か不幸かという以前にこの揺るぎない幸福がある。それゆえ私たちは不幸にも幸福にもなれる。いろんな体験ができる。
ゆえに宇宙とは完全なる動きであり、いってみれば善悪を超えた「善そのもの」だといえる。
すると自然はもちろんのこと、もしかすると人間も固執した考えに囚われずに、この完全なる動きに従えば、平和な世界が築けるのではないか、と考えたのがプラトンやアリストテレスだった。
つまりこの全宇宙の完全なる動きこそが、プラトンなら「善のイデア」であり、アリストテレスならば「あらゆるすべての第一原因」にある。
そしてこの神的な動きは、常に「ある何かと別のある何かを結びつける働き」がある。
それはまさに生命の原理であるけども、しかし精神面的にいえば、恋愛感情もそうだし、たとえばあなたのように胸を躍らせる何かを追いかけたりもそう、それは人間の認識よりもはるかに大きな脈動とひとつになっている実感がある。
そのひとつになる実感がたまらなく心地いいからこそ、恋や充実感を私たちは求めるわけだね。
だから仕事でも生活でも、たとえ同じことをしていても、その実感とひとつになっているかそうでないかで全然変わってくる。
それはまた、あなたが話してくれたダンスもそうだ。
頭で考えて踊るのではなく「流れるもの」とひとつになるとき、まさに”ゼロ”のタイミングで一致し続ける。それは時間の流れを超えた領域に達しているわけで、つまり「永遠のいま」にあり続けている。
そもそも「踊り」というのは、古来より神と合一するための神聖な儀式のひとつだった。
それはまさにギリシア神話でいうところのエロスや、またキリスト教でいう聖霊と共にあるということだね。
というわけで、プラトンはイデアというこの宇宙の捉え方を、神話の神のひとりであるエロスからヒントを得たわけだが、先日moonriverさんのところでも話してるので引いておこう。
──
「見る者」と「見られる者」のいたちごっこな関係性を、彼はギリシア神話の神である”エロス”から着想を得ていた。
エロスは愛欲や性愛の神なんて言われるね。
ギリシア神話では無数のさまざまな神が存在するけども、エロスは最も原初に現れた神のひとりにある。後世にローマ神話として引き継がれてアモールやクピードと名前を変えた。日本ではおなじみのキューピッドのことだ。名前を変えても恋愛や良縁といったやはり磁力的な力を象徴している。事典から引いておくよ。
***
エロスは対立するもの──男性と女性、白と黒──を引き寄せ、それらを結びつけて完全に均質なただ1つの実体としての存在を形作る原理である。この引力は人間たちと神々、自然の基本要素にまで及ぶ。エロスは調和、充足、普遍的な創造する力を具現する。
ラルース ギリシア・ローマ神話大事典 p228 大修館書店
***
つまり二元性を非二元へと還元していく作用そのものがエロスであり、だが非二元へ調和したら、もう存在は非なるものとなる。つまり”成就”してしまうと、もうそこには見る者も見られる者もいない。
それゆえギリシア神話でエロスが現れるとき、大体は成就には至らず、実らぬ恋に狂ってしまう神や人間が描かれる。完全なる調和への底知れぬ欲求に駆り立てられてひたすら突き進み続ける。むしろ成就に至らないからこそエロス神の存在の意義があるわけだ。
──
このように実らない恋だからこそ、結びつこうとする原理がある。だが”本当の実り“とはなんだろう?
それを悲観的にとれば失恋であり、目標を立てていたことならば無駄な徒労だったとなるのだけども、しかしどこまでも思い続けられる希望や探求し続けられる情熱の源として捉えるならば、これ以上のパワーはないんだ。
実際何かが実ってしまうと、もうそこにエロスの力はない。するとまた別のなにかを求めるようになる。
なぜならこの結びつきの力こそが生命力の源泉であるからだが、つまりこの力をコントロールできることが、人生に充足や活力を与え続け、そして幸福な毎日を送れるようになる秘訣にある。
だがそれこそが太古から、そしてさまざまな宗教やスピリチュアルで語られてきた”奇跡”なんだね。
さてそうしてこのギリシア的理解をアウグスティヌスは聖書の読解にあてた。
たとえば聖書なら以下の箇所に”聖霊”が出てくる。
──
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
(コリント信徒への手紙一 3:16 新共同訳)
ここでいう主とは”霊”のことですが、そして、主の霊のおられるところに自由があります。私たちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
(コリント信徒への手紙二 3:17-18 新共同訳)
──
蕾が花として開くのはなぜか。夜空に満点の星が輝くのはなぜか。大地に作物や生命が生まれて、それが別の生命の糧となり、いろんなものは、姿を変えながらそうして永遠の循環が途切れないのはなぜか。
もちろん人間は利己的な欲望を持っているから、それに突き進むとどんどん破滅的なことになっていく。
だがその破滅もまた宇宙の摂理であって、だからこそ真に幸せでありたいならば、愛するもの、愛されるもの、と”共”に、アモールを在らしめなければならない。
そのとき己は”神の神殿”となる。
さて、この聖書の聖霊は、ギリシア語では「プネウマ」であり、ラテン語では「スピリタス(英語ならスピリット)」と呼ばれる。
つまり精神と同じ語源を持っている。
言いかえれば「神なる精神」を持つときこそ、それは「精神」になるということであって、上にあげたヘーゲルという人は、神から切り離された小さな精神が、やがて人類そのものという「ひとつの大きな精神」へと上昇していく成長プロセスを体系化した。
これを弁証法という論理で説明したのだけども、それは結局のところ、自分を見直してより良い選択をしていくということではない。
ビッグバンから宇宙がうまれてどんどん広がっているように、そうしていろんなものが生まれてきて変化してきたように、私たちもどんどん変化していくその原理を理解し、弁証法という論理と、この生命的自然と、そして「神なる精神」をもって平和な世界を見出していこうという狙いにあったんだ。
だがこれはいまあなたが大きな流れに乗って毎日を楽しんでいるように、”個人的な宇宙”にも重ねることができるだろう。
つまり動きに身を委ねて踊るダンスのように、そのように人生を楽しく踊り続けていけるならば、それ以上に素晴らしいことはない。
あとヘーゲルの近い仲間にシェリングという人がいたのだけども、彼もまた精神を主体にした哲学を論じていた。
彼にとって自然は精神と「同じ本性」を持っているという見方をしていた。
「自然とは目に見える精神であり、精神とは目に見えない自然である」といったのは実によい表現だといえる。
宇宙全体の流れに重なるように、人間という全体も流れている。
またヘーゲルは「人はその時代の現れであり、世界精神の一面としてある。だから歴史の流れとは世界精神の弁証法の現れである」といった。
まさにビッグバン的な変容を語っているけども、大事なのはその時々の時代において「神なる精神」を忘れないこと、ならば「そのとき精神は”精神”となる」と語っていることにある。
こうした宇宙の見方、世界の見方をあなた自身の人生に重ねることができるならば、もう世界には愛と喜びしかないことになる。だがもう素晴らしい毎日が花咲いているから大丈夫だね。
というわけで、簡単にしておくといいながら小難しい話になってしまってすまないが、「精神」とは「聖霊」のことであり、そして「愛の意志」でもあり、そして父や子というのは「言葉」のことであって、言葉は霊に乗って流れていくが、それはむしろ「流れている」のほうが適切だといえる。
なぜなら、私たちとは言葉のなかに現れている存在であり、そしてまた、己のみている世界も言葉のなかに描かれているからだ。父のなかに子がいる。
つまりアウグスティヌスが愛の三つ巴を知ることは「真実の知恵」を得ていくことと同じである、と言ったのは、まさに私たちが何者であるのかを知ること、同時に個々の魂たちは大きなひとつの魂のなかに現れているのだという”真実の知恵”に辿り着くことが、私たちの最大の目的であると確信していたからだ。
ヘーゲルも同様にそれを「絶対知」と呼んだ。
人間はいろんな方法や表現で真実を解き明かそうとするが、しかしそうして真実を解き明かそうとするプロセスそのものがひとつの主体であり、まさにそれが「精神(=聖霊)」にほかならないといった。
つまり自分も他者も、あらゆる自他分離の対立は「精神」のうちに止揚される。
言いかえれば、精神という広大な宇宙のなかで、精神というビッグバンがあり、その豊かな生成と変容のなかに、この私たちがいる。そのとき、私たちは”絶対精神”とひとつにある。
この絶対精神こそが、敬虔な信仰者であった彼はキリスト教の神であるといった。「神は精神である」とね。
つまり父なる神は、己の他我となる子を生み出し、その他者たちの世界を通じて、そして無限の愛をもって、父なる神は”自ら”をみつめている。そうして自らとの統一に回帰する。
これはよく話すダイヤの話だね。
ダイヤは自らの輝きをそのままでは知ることができない。だからダイヤそのものから離れたものを作り出す必要があった。しかしその離れたものは、ダイヤから離れているから不安な存在だ。
だけども己はダイヤそのものから生まれているのだと知り、その”本当の目的”を知るとき、ダイヤの輝きに包まれる。
この輝きが聖霊であり愛であり、そして本来の「精神」にある。
ゆえに大事なのは心でつぶやく言葉にしても、他人とのやりとりにしても、家事や仕事をしているときでも、そこに生命の温もりがあること、すなわち「みえない自然」がいつも穏やかに流れていること。
繰り返すように、完全なるものに委ねられた精神こそが、何かと何かを「つないでいく力」のことであって、そうして個々の命がやがて大きなひとつの生命として在ること。
“スピリチュアル”とはまさにこのことにある。
たとえばそれがキリスト教でいえば、隣人愛あってこその意義ある力となるのだけども、もちろんなんかの宗教に入信しろとかそういうことではなくて、”あなたの世界”を愛で満たせるのは、あなたであり、そうして愛で満ちたならば、もうあなたはその世界の小さなひとりではない、ということだね。
>>こんな感じで毎日は自分でフラグ立てて自分で回収してくことの繰り返しだなわくわく楽しいなって思えるようになってきました…!すごく成長してる気がします。
とてもいいね。
目の前の物事を認識するとき、それは言葉として心に描かれている。だから同じ風景を語るにしても、それが明るい気持ちで心に述べられたなら、かならず己自身を明るくする。
その明るさとは、ダンスと同じく「永遠のいま」にあってこそであり、そのとき己は”全体”を受容しているわけで、つまり全体そのものとしてある。
シンクロニシティはそうであるからこそ、どんどん現れてくるんだ。
なぜなら私たちの魂は大きな魂のなかに現れているからであって、あなたが聖霊と共に、つまりダイヤの輝きに包まれているとき、もはやあなたは大きな魂そのものであり、精神の現象である”この世”という一枚の絵は、あなたの望むとおりに描かれ続けるからだ。
だからその喜びのまま生きていこう。素晴らしい体験がこれからも止めどなくやってくるようになる。
ありがとう。
自分さん
お返事遅くなりました!いつも丁寧にお返事していただきありがとうございます。
今回自分さんが書いてくださった内容を理解するまでだいぶ時間がかかっております…まだ3分の1?いや4分の1かもしれないです、自分さんがわたしに宛てて書いてくださったということはわたしにも必ず理解できるものだと思い、1月にお返事をいただいてから日々の中に必ずヒントがあると思いながら過ごしておりました。
言葉をどれだけ知っているか、言葉を知っている分だけ、ただここに在るだけのものたちに名前や印象を与えることができる。様々なニュアンスと種類の言葉を知ることで世界をより精彩に感じ取ることができ、より唯一無二(というのも変な感じなのですが)の世界を創り上げることができる。1人に1個ずつ世界が与えられているイメージのせいでそんな表現になってしまいます。平易な言葉の使用と表現の画一化=大きな流れの翻訳の仕方が皆同じになる=皆同じような内容、似たり寄ったりの印象の世界を見る人が多くなる のような捉え方をしました。
聖書とか哲学とかもうちょっと勉強してきます、また新しい世界が広がって頭が良くなってしまうな((
自分さんの見識の広さというか、様々な分野の視点から一つの物事を論ずる姿勢に畏敬の念です、涅槃の書を読めること、自分さんとお話できることが本当に嬉しいです。
話がちょっと逸れましたが、二階堂奥歯さんの八本脚の蝶を読んでいて、「私が語り得ることはすなわち、あなたに伝わり得るかもしれないことのみである。読む者としてのあなたの限界が、書物としての私の限界である。」という節がありました。同じものを見ても一人ひとり持つ印象が違うように、世界から読み取る事物の深さや種類は読み手に全て委ねられている、全て読み手次第ということ。自分さんの仰っていることと同じものを感じています。
また、今日コメントを残そうと思ったのは、また少し違う気づきがあったからです。
【私は●●な人間である】という、自分を定義するもの全部捨てちゃえって思ったからです。絵描くのが好き、歌うのが好き、文を書くのも好きだし踊るのも好きです、かわいいお洋服を着るのも、アニメや漫画を見ることも音楽を聴くことも大好きです、でもそれらが、これがわたしだと思ってたものが全部重たく感じるのです、もっと身軽になりたい、もうすぐ破れる殻の中にいるようなもどかしさに頭を打ちそうになります、アイデンティティこそが執着で、自分の輪郭に逆に行動を縛られる、自分だと思ってたもの全部が足枷のように思えてしまって、お風呂でうわごとのように全部捨てよう全部いらないと呟いていました。ただ在るだけになろうと思いました。今生の肉体と魂の特性というか、世界の奥底に流れる何か大きなものを表現する媒体として上記のものを選びやすい傾向があるというだけでわたしは何者でもなく、また何者かになろうともしなくて良い、心の奥底から湧き上がるもの、心や全身を震わすそれに導かれるまま行動して生きていこうと思いました。そんなご報告がしたかったので、このタイミングでの書き込みになりました。
いつも本当にありがとうございます。
meketaro0510さん
こちらこそありがとう。いやいや、とてもよく読めていて感心しているよ。
>平易な言葉の使用と表現の画一化=大きな流れの翻訳の仕方が皆同じになる=皆同じような内容、似たり寄ったりの印象の世界を見る人が多くなる
そう、よく話していることだけども、”私たち”というのは、まず”個々の魂たち”のことにある。
だがこの個々の魂は何もないところに生じたのではない。なぜならいまここにいる自分が、自分の知るすべてを作り出したのではないからだ。
たとえばあなたがこの世に生まれたときにはすでに飛行機が空を飛び、電話回線で遠距離にいる同士が会話し、テレビからはいろんな番組が放映され、NASAもマクドナルドもはじめからすでにあった。
そしてここが重要だけども、それは物事の認識や考え方もそうだ。
たとえば人や物事と接したとき、心のなかで語られる思考や感情はひとつの文として組み立てられる。つまり主語と述語を基本に言葉は組み立てられ、それによって人に何かを伝えたり、自分はなにかを認識したり、また推論していくための土台となる。
そしてその形成の文法ルールだけでなく、「お決まりの傾向」もテンプレート化されてしまっている。
物事の良し悪しや幸不幸の定義なんかがそうだね、一般的な人間としての基準があらかじめ設定されているわけだ。ここにあなたが話してくれている画一化の根源がある。
もちろん時代や文化ごとに概念や価値観の違いはあるけども、しかし”私たち”には大まかなフォーマットが基本として敷かれていて、それゆえにたとえば2000年以上も前のローマ人がやり取りしていた手紙なんかをみても、とても身近な会話として受け取れるわけだ。
実際よくいわれるように人間は歴史を繰り返しているが、しかしその見解はある過ちに気づいていないのであって、なぜならそうして繰り返している歴史しか「己は認識することができないだけ」あり、つまり言葉が画一化しているのは、思考や感情だけでなく、たとえばこの世が三次元であるという認識もまたひとつのテンプレートに従属しているということだ。
同様に「昨日が過ぎて今日があり、そして明日がやってくる」「人間は頭と両手両足がある」「地面は下にあり、空は上にある」といったいまここにいる私たちにとって自明でなんの疑いもないことはいくらでもあるけども、しかしなぜ疑いの余地が「ない」のだろうか。
そうだね、もうはじめから”魔法”にかけられているんだ。
そのように上位の尺度まで広げなくとも、たとえばいまの私たちにおいては資本主義という枠組みが生活を完全に支配しているわけで、つまりそのテンプレートの上でいかにして幸せになり、いかにしてうまく生きていくかを誰もが模索している様子にある。
だがなかには「ん?なんか前提みたいなものに縛られているんじゃないか?」と気づく人たち(=個別の魂たち)がいるわけで、幸福観にしても恋愛観にしても、さらには死生観にしてもそう、すべては設定されたプログラムにすぎないと見破る。
そういう人たちはテンプレートの上で踊らされることをもうやめて、むしろこれまでの土台を自らの創造の空間として扱うようになる。
自由に生きてるような人たちがいるだろう。
たとえば超大金持ちみたいな人たちなんかがそうだろうし、お金持ちではないけども、なぜかお金に困らず楽しく生きてる人たちもいる。そういう人たちは、むしろお金にこだわっていないからこそ(テンプレートを抜け出しているからこそ)お金の自由を得ているんだ。
空気を意識しないが呼吸には困らないのと同じ。だが空気を意識するほど呼吸は不自然となるようにね。
たとえば”法律”というのは語と文の組み合わせでできてる。つまりそうして形成された言葉に人は裁かれたり、社会の規範が定められる。
また私たちには古来から契約という概念がある。この概念自体も言葉によって生み出されたものだが、たとえば契約書という言葉で綴られた一枚の紙が、私たちの”世界”においては絶大な力を持っている。
戦争などの例外を除いて、あなたの土地は決して暴力で奪うことはできない。どれほど傷つけられても保管されている紙にはあなたの土地と記されているからだ。
ラブレターも企業が配布するパンフレットやDMも言葉でできているね。つまり自分が何者であるのかを表明したり、何かを求めようとするとき、それを言語化しなければ進展させることができない。
ところがこの言語化が人類一般の”基本テンプレート”を再利用しているだけでは、相手はただ幻滅するだけだろう。
もちろん私たちそれ自体がそもそもテンプレートであるけども、つまり魅力や楽しさや付加価値というのは、テンプレートそのものを自己省察において改変させることで、ようやく生み出すことができるんだ。
実際そうだね、他人の目や世間体に振り回されている人たちのなかかで、そこから抜け出せる人というのは、自分が振り回されていることに気づき、そしてそれまでのフォーマットではない別の足場を見出してこそにある。
釈迦の”自灯明”はこのことであり、そしていまこうして話している私たちの原理を理解してテンプレートそのものを俯瞰する教え(真理の教え)を全うことが、”法灯明”となる。
だから私たちを司っているのは言葉なのであって、パン生地に型抜きをするみたいに、ただ連続していた無形のところに区切りを入れてそこに名前がつけられたとき、新しい命が生まれるんだ。
ここでいう”命”とは、すべてに行き渡る生命エネルギーはもちろん宿しているけども、だがこうして言葉によって生まれた命とは、私たちが自ら生み出している幻想の世界を支える部分そのもののことにある。
つまり幻想上での命の誕生、マリオのゲームのなかに新キャラクターや、新しいアイテムやステージ構成などの新概念が与えられたのと同じ。
聖書でいうなら、
──
神である主は、あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた。人がそれぞれをどのように名付けるかを見るためであった。人が生き物それぞれに名を付けると、それがすべて生き物の名となった。
人はあらゆる家畜、空の鳥、あらゆる野の獣に名を付けた。しかし、自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった。
創世記 2:19-20 聖書協会共同訳
──
この一節で重要なのは、土から作られた人(アダム)は、たしかに名付けることで世界を生み出していったが、彼はそのどれもに本当の安らぎを見いだせなかったということだ。
つまりこのあとすぐにアダムそのものからエバが生まれるのだけども、それは言葉の分割によって現れた見かけ上の命ではなく、より奥深い生命(すべてに行き渡る生命エネルギー、大いなる流れ)を象徴する存在の現れを意味している。
これはまさに私たちの日頃の光景を表しているね。
いろんなものを手に入れたしいろんなこともやった、だけども虚しい。
本当に触れたいのは、”言葉”ひとつで価値の変わっていく見かけ上の個物ではなく、言葉によって揺るがない(感情や状況によって揺るがない)不変の温もりであるからだ。
むしろその不変の温もりを感じているなかでこそ、名付けの世界(創造世界)を楽しむことができる。
さらにはそうして名付けたひとつひとつの背後に不変の温もりを感じ取ることができる。つまり愛することができる。
だからあなたが話してくれていることは的を射ているわけでね、
──
言葉をどれだけ知っているか、言葉を知っている分だけ、ただここに在るだけのものたちに名前や印象を与えることができる。様々なニュアンスと種類の言葉を知ることで世界をより精彩に感じ取ることができ、より唯一無二(というのも変な感じなのですが)の世界を創り上げることができる。
──
実にそのとおりにある。
ただし”言葉”だけじゃ足りないんだ。愛し合う2人は言葉、つまり理屈を超えているからこそ、愛し合っているからだ。
なにかに充実したり情熱を注げるのもそう。たしかになんらかの”現実的な目的”はあるのだろう。だけどもそれが深い満足に包まれるのは、もはや現実的な目的は”そのため”の架け橋でしかないときにある。
その意味で争論みたいなことが起きてる場というのは、それは言葉の次元に留まっているからであり、だから場を調停する”正論”や”論破”というのは、救いがないんだ。
資本主義も法もそれ自体にどこか不条理な冷たさが感じられるのは、表面的な形象ばかりが色濃くなりすぎて、その背後にあるはずの満ちているものが漏れ出てこないからにある。当然その盤上で揉みくちゃにされていれば、人生は暗く重いものであり続ける。
私たちは呼吸するように、いかなる物事からもその背後にあるものを感じられてなければならない。家庭生活にしてもね。
たとえば前回ヘーゲルの話をしたけども、彼の哲学は聖書に劣らないぐらいの解釈が人それぞれあるわけで「きっとこういう意味で言ってるんだ」という様々な理解がひしめき合っている。
すると当然「自分の方が正しい、あの人の理解は正しくない」という言い争いになったりする。
だが大事なのは、その解釈の”射程”がどこにまで届いているかであって、つまり「自分は相手の意見とは違うぞ」というレベルではなく「たしかにお互い別々のことを言ってるが、実は同じことを言ってる」ということに気づいているかどうかなんだ。
つまりなにをどのように解釈してもいいが、その解釈や持論が”言葉”の次元をかき分けて、その奥にある「ひとつ」にまで根ざしているかどうかにある。
たとえば以前にmoonriverさんのところで話しているように(あなたによい回答なのでまたあと全文を読んでほしい)、
──
それゆえ、どのような対立も結局は同じひとつを目指しているのであって(もとがひとつが分断しただけなのだから)たしかに表面的には真逆にみえて、とても同じにみえないが、それでいてその2つは互いに結びついているんだ。
それは子どもからみている親の夫婦喧嘩のようなものだね。
夫婦は相手と真反対のことを言い合っているつもりでいるが、子どもからすれば彼らが同じことを言ってるのを見抜いている。
──
子どもと同じまなざしを両親が得たならば、もちろんこれからも議論はするだろうけども、それは揺るぎないものに包まれたなかでの戯れとしてあるはずだ。
つまり、”私たち”は一体なにをしているのかといえば、同じひとつのなかで自ら亀裂を生み出して”分割”し続けているだけなんだ。
それは中身のある(背後の温もりの感じられる)ものであるなら創造性や豊かさと称されるだろうけども、なんら実りのない外面だけの世界とは、冷え切った家庭や会社奴隷のようにディストピアでしかない。
その真理に気づいて逆に”統合”に向かうためには、まず私たちの正体が一連の言葉の動きだけなのだと見抜かねばならない。
私たちは自分でものを考えていると思いこんでいるけども、冒頭で話したように認識も思考や感情もはじめからあるテンプレートに規定されているわけで、つまり言葉はただ言葉そのものを求めて泳ぎ回っているにすぎない。
なにかが起きればお決まりの心の反応があり、誰かが何かを言えばお決まりの思考が働きはじめる。
そうした”言葉の群れ”が人間の世界という幻想を描き続けている。私たちはそんな言葉の動きを自分のことだと思っているだけなんだ。
またたとえば音楽は音楽理論のなかで創られてこそ、私たちはそれを音楽だと認めるように、だからたとえ思考の路線を変えたつもりでいても、それは単なる定型パターンの変奏やバージョン違いでしかない。
だから”気づく”というのは、この泳ぎ回る言葉の群れを見据えることであり、同時にそれが画一性から離れることにもなるだろう。
なぜならそのとき言葉の次元ではなく、本当の生命の次元、すなわち”愛”に降り立っているからだ。
ゆえに以下の変容も容易となる。
──
【私は●●な人間である】という、自分を定義するもの全部捨てちゃえって思ったからです。
絵描くのが好き、歌うのが好き、文を書くのも好きだし踊るのも好きです、かわいいお洋服を着るのも、アニメや漫画を見ることも音楽を聴くことも大好きです、でもそれらが、これがわたしだと思ってたものが全部重たく感じるのです、もっと身軽になりたい、もうすぐ破れる殻の中にいるようなもどかしさに頭を打ちそうになります、アイデンティティこそが執着で、自分の輪郭に逆に行動を縛られる、自分だと思ってたもの全部が足枷のように思えてしまって、お風呂でうわごとのように全部捨てよう全部いらないと呟いていました。
ただ在るだけになろうと思いました。
今生の肉体と魂の特性というか、世界の奥底に流れる何か大きなものを表現する媒体として上記のものを選びやすい傾向があるというだけでわたしは何者でもなく、また何者かになろうともしなくて良い、心の奥底から湧き上がるもの、心や全身を震わすそれに導かれるまま行動して生きていこうと思いました。
──
とてもよいことだ。これまでの表現を使えば、自分を定義しているテンプレートを捨てて「在るだけ」となるわけだね。
つまりそれはあなたなりの足場を基盤にするということであり、そしてそれはこれまでのように既存の土台の上に立っているのではなく、あなたのなかに世界があるということにある。
するとあなたは「何者でもない」だろう。もはやあなたは個別の小さな魂ではなく、上昇した高次の魂として、その内側にたくさんの”あなた”を眺めているようになる。
ただ安らぎ、ただ思いやりに溢れ、ただ嬉しくて、言葉に支配されないあなたは自由に世界を取り扱うことができる。
それはまさに「何者でもない」からであり、そして何者でもないからこそ、”魂の導き”に素直に応じていくことができるんだ。
ありがとう。