私たちは何者なのか(4)

私たちの正体は時代ごとの思考であると話してきた。思考の外側に「自然の世界」を措定したとき、その自然の世界を包む巨大なガスのようなもの、そのガスのなかで私たちは「人間の世界」を生きている(思考している)のである。

つまり時間の流れや歴史が直線的に進んでいるというのはあくまで「人間の世界」において考えられているだけの錯覚であり、実際は古いも新しいもなく、何かが改善されたというわけでもない。「常に新しい状態」がいまここにあり、よって古さという過去が「記憶という思考」としていまここに同時に浮かべられているにすぎないのである。

煙や雲が内部で蠢いているように「思考のガス」は同じ場所で常に変化を続けているだけであって、私たちはその変化を時間の流れや生死などとして受け取っているだけなのだ。

さて、では私たちの正体であるその「思考」とはそもそも何なのだろうか。「思考すること」とは一体何を意味しているのか。無意識であれ意識的であれ、私たちは世界を認識しながら生きている。逆に言えば認識することが世界をそこに在らしめているということになる。つまり常に思考は行われているわけだ。

思考とは何か。それはAとBをくっつける糊のようなものだ。「関係性」の糊、すなわち「関係性」そのものが思考なのである。考えるという行為は、すでに存在している何かを別の何かと関連付けていく(組み合わせたり比較したり)ということにある。逆にいえば禅でいう「ノーマインド(無思考)」というのは何も関連させない状態、すべてが解き放たれて独立した素材が点在しているということになるが、実際はもっと分散されやがて無に帰している様子をいう。AやBという「素材」も思考により関係付けられて生成されたものであるからだ。

関係付けるという作用

近年は時代の先端を進むアメリカの大手企業などもマインドフルネス(瞑想)を採用しているが、それは凝り固まった観念をほぐし、再構築する契機を得ようとすることが目的にある。禅の完全なる境地までは到達せずとも、インスピレーションの恩恵を受けることができる。

以前にも話したように、どのような天才であれ、彼が浮かべることのできる斬新なアイデアとは既存の何かを組み合わせたものとなる。すべてが揃っている「自然の世界」から材料を取り出してそれを「人間の世界」のなかで形を生み出すこと、そしてその生成とは「関係付けること」により為されるのである。

それが「思考」であり、そしてその関係付けるという「作用」こそが、私たちの正体なのだ。だから日常の暮らしの中で、同じ見方、同じ感情といった「同じ現実」を繰り返している限りそれは生きているとはいえない。だが私たちを取り巻いているこの西洋的な価値観の時代とは、未来に掲げられた目的だけが「生きる意味」であるがゆえに、満たされていないという不安が常にまとわりついている。その結果、安定や安心という「無変化」を求めるようになっている。

それは自らで「生を放棄している」のだ。もちろん安心をすることがだめだと言っているのではなく、その安心に至るまでの生成変化こそが大事なのだ。安心は遠い先にあったのではなく、いまここが変化して現れたものであり、その安心に留まろうとする限り、次々と起きていく変化を阻止し続けなければならない。それがいわゆる苦悩というものとなる。安心を得るために苦悩していると錯覚しているが、実際はいまの自分を手放したくないがゆえに、苦悩しているのである。だが「自分」とは常々変化していくことそのものであるがゆえに、留まろうとする限り人は心がバラバラになり続ける。

成功を手にしたら誰もが虚しくなる。それがなぜだかわかるだろう。己という動きが止まるからなのである。哲学者ベーコンが言ったが、読書とは書かれたものをそのまま信じ込むことではなく、熟考するためのもの、つまり読書は作者の書いたものを「見る」だけじゃその価値がなく、自らの能動的な思考を持ち込んで、その紙上を制作のキャンバスとすることが「読む」ということにあたる。つまりただ見るだけの暮らしを送るから虚しいのである。

現実を生成する

新聞や雑誌を眺めてみる。そこには文字が散りばめられている。ひとつの文章ができあがるためには何が必要なのか、それは関連付けるという意図である。あなたが言葉を話すとき、文を書くとき、当然「伝える」とか「記す」という意図がある。その意図こそが「糊」なのだ。

頭の良い人というのは、柔軟に関連付けをする人のことだ。それは学歴などは関係がない。そういう人は人生をうまく作り変えながら望みの世界を歩んでいる。固定した観念にとらわれず、感情に振り回されることもない。つまり現実のルールさえも彼の立法の下にあり、人間関係も仕事もライフスタイルもすべてが「手の内」にある。世界は自分が作り出していくということ、そのことを理解しているのである。

これは思考的存在としての方向性、つまりこのあり方こそが「生きることの真の意味」である。イエスの言った楽園とは己のなかに広がるものであり、ヘルメスなどの神秘思想が伝承してきた錬金術とはこの内的な宇宙の生成にある。ローマが民衆支配のために捻じ曲げた外的なユートピアや外的な神による救済ではないのだ。

現実生成についての話をしておこう。

雑誌などをめくってほしい。書かれた内容を理解しようとせずにただ眺めてみる。そこには文という集まりの中にたくさんの単語が並べられていることがわかる。固有の意味を持っているそれぞれの単語が「ひとつの文章という意図」に集められて並べられている。この私の文章もそうだ。「雑誌」「眺め」「並べ」といった具合にね。こうした単語は様々な用途に応じて、都度並べ替えられて道具として使われる。

つまり私たちは言葉を話したり文を書いたりするとき、「伝える」「書き記す」という枠組みが条件としてあり、そこに「知りうる限りの単語」が並べられるというわけだ。先にも話したようにその「枠組み(意図)」という「糊付け」が私たちの実態となる。

さてこの「単語と文」の関係というのは、あなたの現実世界そのものを表している。いま周囲を眺めてごらん、固有の意味を持った様々な要素で溢れかえっているだろう。壁とか床とか机とか、そうしたものは「部屋」というひとつの意図のなかで配置されている。他人の姿も同じく、髪型や顔の各部などもそうであるし、声や性格などもそうだ。つまり一冊の本のように様々な「単語」が集まってその人を形象している。

単語を原子とするならば、いくつか組み合わさってそれが分子となる。たとえば自分が働いている「会社」についてなら、その会社は様々な単語から成り立ったひとつの印象を作り出している。そしてその分子がまた別の集合した分子と融合して大きな集合を作っていく。そうしてあなたの暮らしている現実世界となる。つまり原子と原子を結合させる引力、化学的にいえば、電子を共有する「関係させる力」がそれらを具現化させているということだ。この理解を持った目で、いまそこにある自分の周囲を眺めてみるといい。

己の世界の限界を知る

ここで重要なのは、上での文中にも含めた「知りうる限りの単語」という部分だ。つまり知識のことだ。知識は体験により備わっていく。それは「学ぶ」ということだが、それは机に向かって勉強するということだけではなく、日頃の人間関係や暮らしのなかでも「学ぼうとする姿勢」がある限りは、どんどん新しい知識として蓄えられていく。いつものおなじみのあの人を、ちょっと違う角度で理解してみようとか、そういう意思を持つことが「学ぶ」ということを意味する。

だから先のベーコンの話のように、読書などでも書かれたものをただ飲み込んでいるというのは「読み方」をわかっていない。一本道のストーリーであってもそこに記された情景を深く洞察しながら読むことだ。その「目」が養われてくると現実のすべてが学びの場であることがわかってくる。それがわかるとこれまで目を奪い続けていた現実から解かれて「視点の向き」が変わるようになる。人生において最も大事な問いとは「学ぶこの私とは何者か」であることに気づくようになる。それは一個人としての見解を超え、人類全体との連関、総体的な自己につながっていく。つまりそれが今回の連載の中心にあるものとなる。

さて「知りうる限りの単語」というのは、あなたの現実を構成するための素材であり、道具でもある。たとえば木材を切断するというのにカッターナイフしか持っていなければ苦労する。だがカッターナイフしか持っていないとき、ノコギリという存在をまったく知らないのだ。それが私たちが生きている各々の「人間の世界」なのである。カッターナイフ以外の道具は未知なるものであるゆえに、ノコギリを揃えようという発想すら浮かばない。木材を切るために「カッターナイフを使う」ということが前提として浮かんでいる。だから「木材を切ること」は「とても大変なこと」であり、億劫な気持ちにさせ、できれば避けたい物事となる。あなたの現実はこのようにして凝固しているものとなる。

ではどのようにしてカッターナイフ以外の道具を知ることができるのか。それは「切る=カッターナイフ」という常識を自ら破らなければならない。そのためには現実(つまり固定的な捉え方をしている自分)を常に疑っている必要があるというわけだ。それが「学ぶ」ということである。

学ぶということ

たとえば「お金」は人の手を渡ってやってくる。じゃあ働くしか方法がないのか、働くのは苦痛だ、というのがカッターナイフしか知らないという世界だということだ。だがそこで「投資?起業?」という発想もカッターナイフの世界から抜け出ていない。つまり同じ水槽のなかで泳がされているだけでしかない。

つまり完全に違う領域に出なければならない。たとえば「お金に困っていないひと」というのは、

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