偽りの私を消して正しく世界を生きる
あなたは日頃
自分の目でものを見ていない
思考のフィルターがあり
いつもモヤがかかった状態で
世界を見ている
だから「私が見ている」
と意識しながら前を見なさい
あえて「私」を意識することで
あなたは自我を察知できる
普段は自我(エゴ)すらも見えていないのだ
だからあなたは「思い」に囚われる
反応だけの毎日を送っている
反応は思考の作用だ
覚えておきなさい
あなたが本当に生きているとき
まったく反応が起こらない
誰かが何かを言う
→あなたは腹が立つ
誰かが何かをしてくる
→あなたは嫌な気持ちになる
自我が消えると「思い」が消える
思いがエゴそのものだからだ
すべてのネガティブな感情は
思考の参照によるものであり
すべてのポジティブな感情は
沸き起こるインスピレーションだ
つまりあなたが自分を見つめることで
自我を俯瞰することができる
自我とは違う場所から世界を感じ取る
「思い」も遠いあちらの方にあるようになる
さて今日の本題だ
あなたが前を見るとき
「私が見ている」
あなたが食べるとき
「私が食べている」
口に入ってきた食べ物が
私の舌に触れる
私が味わう
私が食べている
そのように「私」という主体に
意識を向け続けると
「私」が消えて
「食べていること」だけがあるようになる
逆説に聞こえるが
実はちょっとしたトリックなのだ
やってみなさい
普段の無意識状態ではなく
「私が見ている」とものを見ると
いつもそこにあった「思い」が消えている
その思いが日頃錯覚している「自分」だ
偽りの私、つまり自我
あなたはいつも
私が見ているとしていたが
それは”思い”が見ていたのだ
つまり主体(思い)と客体(対象)から
主体としていたものが消える
主体のない客体
言い換えれば「客体という主体」が
残ることになる
これは二元間の「主・客」という概念を超え
メルロポンティが到達した世界に
踏み込むことになる
目の前にテーブルがあるならば
テーブルを「見ている私」と「テーブル」がある
だが「私」が察知しなければテーブルはない
その関係の上で「私が見ている」とするとき
「私」は消え、テーブルだけが残る
つまりテーブルだけがあったのだ
テーブルが他の誰よりも
テーブルを知りたかったのは誰だろう?
テーブルだ
テーブルはテーブルであること
そうして認められたのだ
いつも「私が見ている」とき
見られたいのは誰かを考えなさい
この世界の真実の一面が垣間見えるだろう
だが「知りたかった」や
「見られたい」というのは人間的な解釈である
実際は何が起こっていたのか
「見えるため」があるのだ
ここに大きなヒントがある
「見えるため」
「聞こえるため」
「味わうため」
それが世界だ
そのために世界はあるのだ
あなたを包んでいる充満性
それらをしっかりと感じてみる
世界はあると書けば
それを感じる主体が浮かぶが
前述のようにそうではない
「感じていること」
それがあなたなのだ
散歩の道中に観音菩薩像が立っているとする
それはなんだ?
意味も理由もない
主客の概念を超えた先にあるのは
観音菩薩がそこにあることを「見ていること」だ
世界は「見えるため」にあり
それがあなたである
突き詰めればテーブルも観音菩薩像も
実在しないということがわかるようになる
ただ「そこにあったこと」という関係性が
起こっていたのだ
だからあなたはもっと多くのことを
見て、聞いて、味わったり
そうして本当の己を感じていくべきである
あなたがそこに生きているだけで
それはとても強烈なことなのだよ
だが同じことばかりをして
同じことばかりを考えていては
同じものしか感じ取れない
本来の「無限」であるあなたの小さな一面だけが
繰り返されていく
だからほんの些細なことでも
常に新しい風を採り入れるようにしなさい
新しい音楽
新しいテイスト
新しい分野
新しい交友
新しい朝
好奇心旺盛になることが
真実を知る唯一の手掛かりなのだ
すべては「感じること」のためにあり
その行為自体があなたの正体なのだよ
あなたが息苦しいのならば
それは同じ場所に居続けているからだ
常に「私」を更新していく
別にお金はかからない
ただ、あなたが更新されるほど
経済も豊かになっていくだろう
真実とは幸福を超えた幸福のことなのだから
好きなようにライフスタイルを築くのだ
自分が最も楽しいように
そうして瞬間瞬間を生きてみなさい
私を意識すれば
私(エゴ)は消える
これは有効な技法となるから
いつも実践する癖をつけておくのが良いだろう
Notes エゴ, マインド, 充実感, 幻想, 生き方, 自己想起, 観念, 観照
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