シンプルさの”なか”にこの複雑な世界がある
今年の5月26日に皆既月食があった。国立天文台によれば次に日本で見られるのは来年2022年11月8日となる。
そんなに正確にわかるの?と不思議に思えたりするが、次回だけでなく数年後、数十年後、そればかりか数千年前の月や星の様子もわかるんだ。大きな変異がなかったことが条件となるけども、現在からの延長としてなら天体の動きは計算で弾き出せるからにある。
これはつまり、天体がとても単純な円運動を繰り返しているからだが、しかしなぜそんなにシンプルなのだろうか。
もしかするとすべてはこのように「本当は単純なこと」なのではないだろうか。
人間の世界がそもそも錯覚
もちろん人間のみている世界は緻密で複雑に動き続けている。
他者との関係、世の中の景気や経済もそう、毎日をぼんやり過ごしてるだけでもいろんなことがあって、すべが予測不能で単純な計算では割り出せない。
経済学者は経済の普遍的な法則を発見しようと試みてきたが、どれも失敗に終わってきた。だがそれは、そもそもそうした関係性をみていること自体が錯覚だからではないだろうか。常に失敗するのは、それは”逆向け”に探求しているからではないのか。
つまり本当に起きてることは、たったのひとつだけであって、それが蜃気楼のようにいろんな見え方を生み出し、さらにはそうしたいろんな見え方を合理的に平均した「大まかな了解」のようなものが生まれて、その了解が人間世界での真実となっているのではないだろうか。
“経済”にしろ”天気”にしろ、結果を原因として捉えてしまい、さらにそこから”その謎”を解きはじめようとする。だから”謎”は一向に解けない。謎など本当は存在しないからだ。
あなたの日常もそうだね。どうしてあなたは不幸なのか。どうして人生に「まだ解決していないこと」などがあるのか。
目の前を過ぎていく様々な幻、”それら”を眺めながら「これはこういうことだ」という臆見が生じ、そしてその「こういうことだ」という”一般的な常識”と、いまここにいる自分(これもまた蜃気楼の集まり)とを比較して、惨めになったり不幸を感じたりしているだけではないのだろうか。
あえて疑問符的に書き連ねてみたけども、まあそんな感じで「信じきってるこの世」に対して別の観点を持ってみることだ。
すべては一方向へ進んでる
人であれ物事であれ、それらの関係性のなかからではなく、関係性を外から眺めるとき、太陽と月の関係が実はとてもシンプルだったとわかるように、つまり月食や日食が「不吉の前触れ」などしてきた、そういう「人間が創造している世界」を外側から捉えることができるようになる。
わかるかい、日食のときに不吉なことが起きたなら、それもまた人間が創り出した「合理的な了解」においてそうなんだ。
その了解を否定しろといってるわけではないよ、それこそが人間の豊かな世界、文明や文化、思想そのものであり、そうして人間が創り出した世界のなかで、たしかにダメなところも多いが、輝かしいこともたくさんあるからだ。しかしそれは天体や地表の自然のように抽象的であるほどいい。
もっといえば神話や詩のようにしか語れないような、了解の重ね合わせが極めてシンプルなものこそ、人間の世界でも”光”を放つことになる。つまり「自分はこれだけのことをしてるのだから、あの人は相応に報いなければならない」とか、そんなことを考えてる人間関係に光は漏れ出してこないということだ。
なにより人間の「了解」そのものを捨て去ることは私たちにはできない。それは私たちははじめからその了解のなかに出現しているからにあり、あなたもまた、”己”の存在という自覚は合理的な了解そのものとしてみえている幻にすぎない。
だがそれでも了解そのものの”原理”を見出すことはできる。なぜならあらゆるすべては、その”見かけ”はどうであれ、ただ動いているという純粋な帰結に導かれるからだ。
だからこそ「心を眺めよ、汝自身を知れ」と伝えられてきたんだ。“私たち”を外からみている眼差しによってね。
安らいでるもの
ではそうして動きそのものを眺めたとき、つまり人間の観念としてみえている関係性ではなくそれを外側から眺めたとき、そこに本当にあるものはなんだろう?
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