ガチョウは外だ
有名な禅問答がある
禅問答とは”それ”を
指し示すためのもの
“それ”は言葉で伝えられるものではない
「それ」は「それ」ではないが「それ」である
つまりすべてを超越し
包括したものが”それ”である
禅問答
「ガチョウは外だ」
瓶の中で育ったガチョウのヒナがいる
身体が大きくなってしまい
そのままでは瓶の外には出すことができない
そこで師匠が弟子に問いを与えた
「瓶を割らず、ガチョウも殺さず、
ガチョウを外へ出す方法を答えなさい」
弟子は考えた
どうすれば外に出すことができるのだろう?
様々な考案を師匠に伝えるも
師匠は合格を与えない
弟子は昼も夜も悩み続けた
何ヶ月、何年もの歳月が過ぎた
あなたはどう答える?
どうすれば
外に出すことができるのか
弟子はあることに気がついた
瓶、ガチョウ、「ガチョウを外へ出せ」という
師の問い、そしてそれを見る弟子自身
それらはあるがままに
そこにあったことに気が付いた
全体という視点に立つときには
「答えなどない」ことを知った
そうかと弟子は手を叩く
「問い」が答えなんだ
問いがただそこにあり
思考による「思考」は幻だった
人は「意味」を求める
物事に「個別」を与える
因果を作って「理由」を考える
「1+1=」がそこにあるとき
それは「2」ではなく
「1+1=」がただそこにあるのだよ
観念世界の住人ならば
この意味がわからないだろう
そりゃそうだ
実に意味などないのだから
弟子は答えた
「ガチョウは外におりました」
師匠は微笑んだ
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自分さんお返事ありがとうございます。
この手記読んで思ったんですが、自分が「こうだったらいいなー」と思う現実と今の現状って何の関連性もないんですね
マインドは現状を見て「こうだったらいいなー」に向けて頑張ろうとしますがそれは瓶に入ったガチョウを外に出そうとしているのと同じ
外に出ていたガチョウは瓶に入ったガチョウとは関連性のない完結したシーン
だから弁護士になりたければ弁護士になればいいのかと納得しました
今、弁護士になればそういうことは勝手に起こってくるんですね
それは頑張って努力して勉強することかもしれないし、どこかの学校に通うことかもしれない
マインドレベルではそれは現実的な対処と同じやろ!と思ってしまいますが、弁護士になりたいと「渇望」して頑張って努力することとは違う
見たら見えるですね
「弁護士になりたい」を見たら「弁護士になりたい」が見える
「弁護士になった」を見たら「弁護士になった」が見える
誰でも弁護士になれる
誰でもなれるんだけど・・・
この前自分さんがコメント欄でおっしゃっていた特性の問題ですよね
意識しなくても六法全書を覚えられる
呼吸をするみたいに
それは頭が良いという訳ではなくてその人の特性
あれが好き、これが好き、努力しなくても呼吸をするみたいにできること
それは人それぞれ違う
だから普通に生きればいい
何かをしようと、何かを成し遂げようとしなくていい
マインドから身体に意識を明け渡して今を生きればいい
結局ここに行き着きますね(笑
長々とすみません
それにしてもこの弟子やりますね
「ガチョウは外におりました」は「答え」ではなくてウィットに富んだ「返し」だったんですね
ワモノさん
大事なポイントは
師匠とは世界で
弟子とはあなた
世界はあなたに
あるがままを見せる
だがあなたはそこに「問い」を見てしまう
「どうやったら弁護士になれるのだろう」とね
ここから弟子の苦悶がスタートする
今回あなたはひとつの見解を述べた
それは一見、超越しているかのように書かれている
だが、あなた自身はそれに溶けたのだろうか?
もしあなたが弁護士を目指していたら
その話の通りで納得できるのかね?
つまり今回のあなたの見解ですら「問い」なのだ
なぜならば、そこには解釈があるからだ
私の手記ですら
言葉で書いている以上
超えた部分を伝えることができない
そもそもそれができるならば
禅問答などないからね
この理不尽にも思える話
この問答が理解できれば
あなたはガチョウを外に出せるだろう
弟子が最後に見たもの
それは世界がひっくり返った光景だ
歴史上のすべての覚者が同じ道を辿った
釈迦ですらそうだった
ただ、あなたはユーモラスに受け取った
それは素晴らしいことだ
それは限りなく「それ」に近い
だが、まだ「希望」がある
あなたが完全に腑に落ちるとき
ガチョウは外に出ている
すみません、全然溶けてないです
あーやっぱ駄目かー
わかったと思ったのになー
そうですよね、禅問答は解釈で理解できるものではありませんね
いつもありがとうございます。
瓶、ガチョウ、瓶の中で育ったガチョウ、外に出せという問い。
たしかに、ガチョウは外にいたのかもしれません。
途中で送信してしまいましたが、
今まで、そこにある問いを見て、瓶の中にガチョウを入れる事を繰り返し続けていたんだと思います。
>ワモノさん
>Kzさん
あなたが見るべきポイントは
ガチョウでも瓶でもなく
それが起こっている空間なのだよ
ガチョウも瓶も「意味付け」だ
それらはいったい「どこ」で意味を付けられているのだろう
日常の中で背景にある全体へ
いつも意識を向けなさい
すべての物事は
解決する必要もなく
解決していたことに気が付くだろう
こんにちは。
ワモノさん同様にさっぱりです。
おっしゃられるように見るべきのは空間ならば、なぜわざわざガチョウだのと言ったのでしょうか?
言葉 思考 外側を認識して取り込む時に 問いを問いとして認識して取り込むと問いが起き。
外側に起きてきた言葉も空間として取り込むとき、問いではなく
起きては流れ 諸行無常として受け入れるでしょう。
たぶん
>愚人さん
>梵天花さん
ついさっきの光景を
思い出してごらん
数分前のことでいい
記憶が映像となり流れだす
では同じように
いまそこでしていることを
記憶のように見てみなさい
静かにじっと
動き続けるその光景を
眺め続けてごらんなさい
眺めている者に気付くことできたなら
あなたのその現実は
ただフィルムが回っているだけだ
ならばガチョウを外に出す”努力”に
何の意味があるのだろう
その努力、苦悩は
勝手に思い込んでいるだけなのだよ
これは人はその物事をありのままに
受け取らない、ということを意味する
この問答は見方に応じて様々な表現ができる
今回のあなたの問いに対しては
このように伝えよう
瓶は現実
ガチョウはあなた
この問題に苦悩する以上、
あなたは瓶の中にいる
だがフィルムを眺めている者になるとき
つまり瓶の外に出たとき、
ガチョウは外にいるのだよ
あるがままに光景を観なさい
思考してはならないよ
>-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
少しわかるようなわからないような。
難しいですね。
愚人さん
思考すると難解となる上に
答えは見つからない
国会などで議論しているシーンがあるが
そこに加わるのか
それとも
ただ眺めているのかの違いだよ
人生の当事者にならないとき
あなたはすべての拘束を脱している
つまりガチョウは外だ
-自分- 涅槃さん、ありがとうございます。
いわれば理屈ではそうなんだと思いますが、実感できませんね。ただ、-自分- 涅槃さんがほかの項で云われた、自分の後ろで常に見てる ”私”?の存在、年齢を重ねても子供の頃と変わらねそれは常に実感してはいますが。
愚人さん
>後ろで常に見てる ”私”の存在、それは常に実感してはいます
ならばそれを前提に伝えるよ
コメントを書くとき
相手さんの理解がどれぐらいあるのか
不明なものでね
最初はいつも広義として伝えている
さて
別の手記でもよく書いていることだが
いまあなたがしていることとは
すでに過ぎ去った記憶を観ているだけだ
指が動く
それは動かしているのではなく
動いたものを観ている、
いや、「観ていた」となる
ガチョウを瓶の外へ出すことについて
それを理詰めで挑むということは
「どうやって指を動かそうか?」という枠の中で
四苦八苦しているに過ぎない
だが「どうやって動かそう?」と苦難している
自分を観ているエリアに気付けば
それはあなたのことではないことが判明する
ガチョウの公案とはうまくできている
ガチョウは記憶の中に捕らわれたあなたを意味し
ガチョウが外に出るとき
それは記憶を眺めている主体を表している
つまりガチョウ(あなた)は外に出ていたのだよ
>-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
頭だけ、理屈ではおっしゃってることはやっとわかりました。
こうやって文字を打ち込んでるのも過去?ですよね?
ガチョウはすでに外にいるのに瓶に入っていた過去を見ていると。
これを本当に実感するのは簡単ではないでしょうね。
愚人さん
例えば何かに触れてみなさい
それは「いま」かね
いまかどうかといえば違和感があるはずだ
触れたことと
それを察知していることの空白
その隙間に入りなさい
そこに観照が起こる
つまりあなたは瓶の外にいる
>-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
他の項で
”何かを触れているとき 「触れていること」を見るのだ”
とおっしゃってることですね。
それが、いまということに違和感があるかと言われるとそんな気もしないでもない、ぐらいです。
>-自分- 涅槃さん
追加で失礼します。
一分間レッスンでおっしゃってる、”それ”とは”私”のこどですよね?
愚人さん
>いまということに違和感がある
それは「いま」を時間的な”現在”として
捉えているからだ
本書では、人生のすべての体験は
「死が見ている回想である」
と表現している
例えば、5分前の記憶を蘇らせてみる
その感覚を維持したまま
いま目の前で起きていることを観る
するとすべてが記憶であることがわかる
つまり時間という意味での「いま」は常に「過去」だ
そうではなく
回想(記憶)を観ている者のエリアが
“常”に「いま」なのだよ
そこに時間の経過はない
1分間レッスンで伝えている「それ」は
確かに私であるが
そこにいる個人のあなたのことではない
あなたの経験しているすべてという
“私”のことだ
あなたがコップを持ったとき
「あなた」と「コップ」の間に何がある?
それが”それ”だ
突き詰めていけば、あなたもコップもなく
“それ”だけが意識という空間に起きている
つまり回想を観ている「いま」のことだ
あなたは聡明な目を持っているので
近いうちに理解に到達するだろう
だがその後は理解そのものを捨て去りなさい
そこにすべてがある
>-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
”5分前の記憶を蘇らせてみる
その感覚を維持したまま
いま目の前で起きていることを観る”
これはいまいち掴めないです。
”「あなた」と「コップ」の間に何がある”
これはなんかわかるような気はします。
近いうちに理解できると言ってくださいましたが、こういう状態が長くつづいている、現実に振り回される実に未熟な身です。
ただ、お話したように怒ったり、悲しんだり、喜んだりしても、それを醒めて見ている背後の私は常に感じてはいますが。
愚人さん
記憶のままにそこにあるものを観るのは
単にひとつの技法だから
馴染まなければ忘れなさい
>それを醒めて見ている背後の私
あなたがその現実を
夢のように捉えているならば
すでに観照は起きている
だがなぜ現実に振り回されるのだろう?
人生という夢見の中で
確かに”苦難なあなた”や
“歓喜なあなた”は登場する
だが”森を見るあなた”は
それが循環の小さな一部であることに
気が付いている
しばらくは修練が必要だ
物事に対峙しているとき
あなたは現実に囚われる
だが後になってひとりのとき
背後の自分に戻っている
さっきのことを思い出しながら
いまそこで「背後」にシフトする
だから人と話しているとき
仕事をしているとき
どんなときも想起をすることだ
それが永続できるようになれば
あなたは誰にも何にも影響されなくなる
物事は夢のままに過ぎていく
インスピレーションが
すべてを繋いでいることにも気がつくようになる
-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
確かに以前よりも現実は実感が薄れてはいます。観照というものの入り口なのでしょうか?背後の私に意識を置くことに習熟する必要があるということですね。
-自分- 涅槃さん
追加で失礼いたします。今日、寒かったのでそれを風景として見ようとしました。そうしたら寒いという認識が少し違った感じがしました。
愚人さん
>背後の私に意識を置くことに習熟する必要がある
簡単な表現をすれば
意識を内側に向ける、となる
人は誰もが
世界の中を四苦八苦して生きている
社会やら他人やら
食事や洗濯に至るまで
それらに振り回されて生きている
意識が完全に外側に向いているのだよ
そうではなく
自分自身をそこに存在させるのだ
気が向いたら、5分でいい
自分がいまここにいることを
じっと感じてみる
意識というのは慣性がある
つまり、5分間内側に向けていれば
その後は意識しなくとも
しばらく内側に向いたままとなる
そうして自分に光が灯された状態で
物事に接してごらんなさい
「あれ?今日はちょっと違うな」というものが
たくさん起こるようになる
それが本来の正しい在り方なのだよ
>-自分-涅槃さん
ありがとうございます。
そうですね、背後の私というより、内側に意識を向けるという感じはわかります、ただいま、うまくいかないながら実行しています。
それで
最新項目の”現在という錯覚を溶かす”に
”記憶を観て観ている人”と”いま目の前の物事を観ている人”とわけて書かれましたが、どちらも記憶で、観ているひとは同じではないのですかね?
未熟なもので理解が足りません。
愚人さん
>どちらも記憶で、観ているひとは同じではないのですかね?
そうだよ、同じ人だ
だが人々はそれを別のものだとする
だから手記にはあのように書いている
本書は毎日1000人近い人が訪れていてね
当然理解の幅も様々だ
だからまだ真理について浅い方々に対し
マインド寄りに書くことも多い
そこから理解を深めていければ、と考えている
だが「体験」がすべてなのだ
だから本書の内容に囚われないよう
最後にはすべてを捨てなければならない
あなたは書かれていることに
内容を見てはならないよ
ただそこにある、だ
それが真実の扉となる
>-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
”人生という幻想を見破る”の項で呼吸さえも幻想、食べることもと、おっしゃってましたが、最近は大して食わなくても平気で、それはある程度は実感はしてはいます。(それでも夢の中ではがっついて食ったりしますから、全然かもしれませんが)これは現実感が少し薄れていることが関係あるのかもしれませんね。内の存在は一応、実感しつつも、全然日常に振りわされ続けているから、しょうがありません。
愚人さん
呼吸をする人や食べる人は
あなたではない
あなたはそれを見ている者だよ
いまそこで息を止めてみなさい
すると思考が止まる
思考が止まったとなぜわかるかと言えば
あなたが思考ではないからだ
どうかね、これで少しは
日常に振り回されなくなるかな?
>-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
息を止めても思考が止まったようにはいまいち感じないようです。
未熟だからでしょうね。
先は長いことになるでしょうね。
愚人さん
思考が止まるとは
あなたが思考に
同化しなくなるということだよ
息を止めてみなさい
思考を思考として
見ることができるはずだ
>-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
思考は観察してるような風には部分的にはなるみたいですが、それは、いつも喜怒哀楽しながら、覚めた内なる自分が見ているという感じで、だから完全に思考と同化してるわけではないかもしれないとは感じてますが。息を止めての実感には至っておりません。なんとも鈍いですね、わたしは。
愚人さん
>思考は観察してるような風には部分的にはなるみたいですが、
それでいいのだよ
まだ思考を俯瞰するということに
違和感があるだけだ
あなたはマインドが自分であると
思い込んで生きてきた
だが、
>部分的にはなる
これが意味するところ
それは自分を自分ではなかったと
認めているということだよ
最初は練習のようなものだ
続けているうちに
「ああ、そうか」と腑に落ちるときがくる
>-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
最近の”願望は何もしないから実現〜”についてですが、どうでもいいことは勝手に叶って(というか、起こって),シンクロニシティというものも割りと、そのどうでもいいことに関しては起こってる感じがします。自分が本当に望むことは生まれてこのかたさっぱりですがね、まあ、これらすべても結局、意味はないのでしょうけれど、未だに覚醒には程遠いと実感している私にとっては未だ苦しみではありますね、こういうことも。
愚人さん
マインドの都合を立てると
あなたの解釈となる
あなたが生きている世界を100として
あなたのマインドの割合はどれぐらいだろう?
1にも満たないはずだ
電車も街路樹もテレビも
すべて「マインド」の意図ではない
だがそれらはそこにある
あなたにそのカラフルな世界を見せている
あなたが覚醒したいなら
マインドから離れることだよ
その二人三脚はあなたを振り回すだけだ
-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。すべては解釈、受け取りかたの問題だし、本当はなにが起きようとも大したことではない、それを、そうわかっている自分がいるんですけどね。
愚人さん
大事なのは理屈や知識ではなく
真実というシャワーを浴びるということだ
ただ浴びればいい
今朝の散歩で
目をやった先の葉が雨で濡れていた
ただ濡れていた
何の抵抗もなく
何の訴えもなく
ただ雨の雫で濡れていたのだ
五感を含め認識出来るものは自分ではないのではないかと考えるようになったのですが、ガチョウは視覚や思考で認識出来るため自分の外にあるものということではないかと思ったのですがどうなんでしょうか?
お寿司さん
どこかの記事でも書いたがね、禅の話には必ず「師と弟子」が出てくる。またはそうした関係性の2人が出てくるようになっている。
師とは全体を意味し、弟子とはマインドを表している。つまりあなたの人生そのものが禅の話に表現されているのだよ。
「瓶を割らず、そしてガチョウ殺さずに外に出せ」
この公案はあなたがその人生で解決不可能なものを意味している。だが「この問いを解かなければならない」「努力すれば何か見えるかもしれない」そんな気持ちに押されている。これが弟子の視点。
だが弟子はあることに気付いて師の視点になる。これが悟りやら光明やら言われるレベルだ。
ずっとそこに注意を注いでいた。どうすればこの問題が解決できるだろうとね。だが弟子は「すべて私の見ている目の前で起きている」ということに気が付いた。
つまり問題事は確かに「そちら」にあるが、問題事を見ている「こちら」はなんだろう? それに触れるとき、問題事は問題事としての質を失う。すべての本質は「私」にあることを悟るのだ。
つまりガチョウはすでに外にいたのだよ。
瓶も在らず…。
ガチョウも在らず…。
まだ師匠の問いも在らず…。
そして、弟子も在らず…。
ガチョウも、瓶も、
師匠も、弟子も在りませんでした…。
色即みっちゃんさん
その通りだ。
「問い」とはマインドだ。マインドを落とすとき、あらゆる意味づけは落ちていく。最初からここには何もなかったのだよ。
全然分からない つまりアートのような抽象的な世界があって それを私は理性で変換して 五感で感じてるわけですよね
隙間をみる…この変換する前の世界 例えるなら映画の住人が観客に気がつくようなものですよね…
そんなこと可能なのか…
嗚呼、覚醒したい…
アキラさん
>つまりアートのような抽象的な世界があってそれを私は理性で変換して五感で感じてるわけですよね
それも違うよ。すべては「その通りのまま」だということだ。これはあまりに当たり前のことなのだが、人はそのようには受け取れない。
「これはどういうことだろう?」「どういうものなのだろう?」という見解を経た受け取り方をする。つまり個人的な世界の中で生きているということだ。
例えば朝玄関を出たら誰もが後ろ向きに歩いている。あなたはなぜ「え?」と疑問に思ったのだろう?
その疑問を「OH!!!」という驚嘆に変えなさい。目の前にそびえ立っている巨大なクエスチョンマークをエクスクラメーションマーク(!)として受け取ることだ。
人々が後ろ向きに歩いている光景を見て「疑問を持つな」というのは、決して無意識になれ、無関心になれというのではない。その逆だ。常に驚きの中にあれということだ。
疑問というのは過去の自分がそこにいるということだ。つまりそれを脱ぎ捨てると本当の世界がそこに現れる。何の制限もない世界が、ただ広がっていたことにやっと気がつくのだよ。
なぜガチョウを”そこから出そうとしなければならなかった”のだろう? 人生の問題はいまここに葬られる。
自分さんへ
いつも手記楽しく拝見しています。
長い間、本を読むたび羽をバタバタさせている瓶の中にいるガチョウが、突如、こちらに振り向き二度見し、向こうからは認識できるはずがないのに、こちらをずっと見つめて笑っていました。
トゥルーマンショーの鏡に石鹸で宇宙人の絵を描くシーンがよぎり鳥肌が立ちました。「かごめかごめ」の歌や「通りゃんせ」の歌もよぎり涙が出てきました。
歌の解釈は諸説あり、解釈も自由でしょうけど、勝手にタブー化し、勝手に瓶のガラスの厚みを増してました。しかも瓶の穴は頑張ったら通れそうな大きさやったんですよー。(笑)
ふーー。
色々ありがとうございます!