感謝の循環
お金という概念がない世界を
イメージするとき
社会の背後に流れる何かが見えてくる
はじめてみよう
街はいつも通りで本屋も八百屋もある
ただ金銭のやり取りがない
つまり本が欲しければ本屋に行って
好きな本をもらえばいい
八百屋も同じ
好きな野菜をもらえばいい
あなたは店主に礼をするだろう
つまり「感謝」が交換される
八百屋の店主は店に並べる野菜を
市場に毎朝もらいにいく
市場の人も農家に毎日もらいにいく
農家の人も必要な肥料などをもらって
野菜を育てている
どこまで辿っても
「お金」はなく「感謝」がある
すべては循環している
貰う人がいて与える人がいる
あなたが最後にその野菜を手にする人だ
野菜を食べ体の栄養となる
あなたはあなたの活動を行う
その活動に誰かが感謝をする
そうして繰り返していく
結局は「ありがとう」が
循環していることがわかる
つまりお金の正体は
「ありがとう」だったということだ
これを稚拙な話だと捉えてはならない
そもそもこの「ありがとう」とは何なのか
すなわち
感謝とはそもそも何の現れなのかを
突き止めなければならない
もしあなたが八百屋の店主であり
誰にも野菜を譲らず独り占めしたりすると
当然誰もあなたの店には来ないだろう
感謝の連鎖は止まる
だからあなたは
「自分の役割」を通過させる必要がある
循環の歯車を止めてはならないわけだ
あなたが循環を止めるとき
あなたには「ありがとう」が集まらない
そしてあなたも誰にも感謝を言えなくなる
だから本当に「感謝」をしたいのであれば
店で代金を払いならばも
お金のやり取りを忘れてみることだ
「お金」という観念を取り払ってみれば
ただそこに店があること
ただそのために店主が現れていること
ただ私のためにすべてが与えられること
まるで雲が去った青空のように
人間世界の背後で流れる何かが露わになる
それはお金で買えるものではなく
そして喜びに満ちた安らいでいるものだ
あなたがそれを知ったとき
「ありがとう」と言わずには
いられないだろう
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