原因と結果の法則を超える

「原因と結果」
これは実に古い概念だ
だがこの「考え方」には
未だに多くの人が奴隷となっている

「こうなれば、きっとこうなる」

くだらない
あなたが失業し貯蓄を食い潰す
そんな状況をイメージしてもらいたい
その後はどうなる?
あなたは悲観的な光景を浮かべるのだろう
だからお金は神であり
それを失うと自身が崩壊する
そのようにしている

なぜそのような概念を持ち続けているのか
それは簡単
毎月生活費を払って生きているから

明快な理由だ

生活費とは何か
出ていくお金のことだ
出ていくものがあるならば
入ってくるものが必要
そう考えるのはシンプルな思考である
それはいい
その通りだ

だがなぜまだ起こっていないこと
「ここで会社を辞めたら大変なことになる」
そう思い込んで胃がキリキリする日々を
抜けられないのかね?

覚えておきなさい
答えは答えのままにある
つまり問題から答えが導かれるのではないのだよ
常に「その瞬間が答えである」と理解しなさい
「見たら、見える」だ
見たから見えるではない
見たからそれがあるのだ

あなたはいつもその「解答」に立っている
仮にいま様々な問題を抱えているとしよう
借金や人間関係
孤独、病気、挫折
なんでもいい

ではその「状態」がスタートライン
つまり「今産まれたばかり」にしてみなさい
あなたが黒人ならば
黒人の赤ん坊として産まれてきたようにね
過去も経緯もない
それを備えて「いま」出現したのだ

いま産まれたばかり
最初から「それらのこと」はそこにあった
あなたが虫なら動物や鳥に襲われる心配があるし
あなたが金持ちの家に生まれたならば
多くの人付き合いと面倒なマナー、不信感
常に誘拐や強盗に恐れなければならない

いま産まれたのだ
あなたはたったいま産まれた
その状況がスタートラインであり
そしてゴールである

原因があり結果があるのではない
それはただの妄想だ
結果があり結果があるのだ
そこを生きればいい

あなたが明日一文無しになる
ならばそれを生きればいい

「それ」を生きている限り
あなたは凄まじいパワーを発するだろう
だから常に「いま」なのだよ

あなたが25歳でも40歳でも
25年とか40年という経緯はない
いま産まれたのだよ

世界はいくらでも変容できる
あなたが変わればいくらでもね
常にパワフルでありなさい
簡単に金持ちにでも貧乏にもなれる
どちらでもいいのだ
あなたがそこにいるから世界はあるのだ

あなたが命を絶つとその世界は消える
あなたが憧れた金持ちも
あなたが好きだった有名人も
すべて消える

全部あなただったのだからね
彼らが微笑む光景
彼らが誰かと愛し合う光景
その責任はあなたにある
あなたが彼らを幸せにしているのだ
あなたが彼らを不幸にしているのだ
すべてあなたの見たもの
すべてあなたが見たいもの

その世界にはあなたしかいない
これは絶対的な視界だよ
彼らが幸せそうだとか
誰が決めるのだい?

「幸せな彼ら」はあなたの世界にしかいない
「憧れのアイドル」はあなたの世界にしかいない

他の誰かの宇宙には
あなたの世界の人々、物事、興味、好奇心
美味しい物、美しい芸術、最高に笑えた映画
そんなものはないのだよ

全部あなたの生きている中
そこでのお話なのだ

だから苛立つ上司もあなたが作り出したもの
ワクワクするスピリチュアルも
あなたが作り出したもの
目の前にいる人の感情のすべて
それもあなたが創ったのだ

いいかね
あなたが見ている
その意味をよく理解することだ

世界のすべての人々の辛さや不幸
理不尽さ、大変なこと
そういうことを吸い込みなさい

そして
世界はこんなに楽しいものなのだ
そういう思いを吐き出しなさい

呼吸は単なる空気の入れ換えではない
あなたと世界
その境界線を司る

あなたが思いを吐けば
その世界が表現される
だから世界はそんなものじゃない
新しい何かを得るとき
あなたはそういう呼吸をしている
そこに気が付いてるかね

だから世界には
色々な体験があって
色々な楽しみがあって
色々な悲しみがあって
本当に最高のもの

そう伝えなさい

 


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コメント・質疑応答

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  1. さばみりん より:

    ふと(無意識)見たものが全て、そこにある、………
    考える必要はない。思考(意識)は迷いだ……。
    ただのありのままを、あるがままに「いる」ことがいいのですね。
    言葉や論理で説明しようとすると逆に色々な矛盾を生んでしまうのでしょう。
    原因と結果というと確かに誤解を生みやすいですね。

    釈尊も本当は氏の仰るようなことをお伝えになろうとしていたのかもしれません。

    • -自分- 涅槃 より:

      さばみりんさん

      釈迦の残したものは
      私もたくさん学んだよ

      伝承はどうしても人々の解釈を
      通ってしまうから
      その真意が薄まってしまう

      だが彼の教えとは
      そういったことを超えたものだ
      つまり解釈されるものではないということ

      つまりあらゆるものは
      いくらでも言葉(解釈)となるが
      そういうことを捨てたときに
      本当の生がある、ということだ

      人は「誰かのため」ということに
      囚われ過ぎて自分を見失っている

      自分を見失うとき
      その世界は暗雲に染まる

      だから自分が生きるのだよ
      生きるために活動するのだ
      そうした在り方のとき
      因果は力を失う

      なぜならば、いまここにいることが
      すべてとなるからだ

    • Xenon -ewigkeit- より:

      何にも囚われずに生きれる世界は、常にずっと広がっているのでしょうか。

      様々な他の解釈(言葉)が蔓延るドロドロのものが煮え滾る釜のようなこの場所から、純粋な自己のみであり続ける世界が創造される。それはどこか別の場所を創造するのではなく、いまここという実にシンプルなところに留まればいいだけなのですか。しかし、難しい。難しいから考え続け求める姿勢で在り続けるという悪循環。

      姿なき答えを追い求めています。

    • -自分- 涅槃 より:

      Xenon -ewigkeit-さん

      見えている光景がどんなに広くとも、それはあなたの中で起きている世界だ。

      どんな体験をしようともその体験が偉大なのではなく、それを受け入れているあなたが寛大なのだよ。

      神社に参拝にいくとき、たくさんの参拝客がいるだろう。みんな色々な思いを抱えてやってきている。

      だがその「思いを抱えてやってきている人々」があなたの中にいるのだよ。

  2. shiy より:

    むかしニーチェの馬の映画を見た事があった。
    モノクロ映像のただ親子が淡々と日々を過ごしている光景が続く

    しばらく見ていると色々浮かんでくる

    「また芋!味付けなし···。」
    「お風呂入らんのやろか?」
    「花でも飾ったらいいのに····。」
    「この映画、笑いのテイストで見てみようか···。」

    当事者じゃないから思える事だろう

    本当にあの状況に立たされたら
    同じ余裕があるだろうかと
    思った事があった。

    それでも心持ちで変わるから
    なんとか切り替えようとはするかもな
    出来たり出来んやったりはあっても。

    種を残さんように感じて

    でも辛い体験が繰り返し残ってる事は
    それを払拭するのは中々大変
    出てくるからな勝手に
    それも忘れた頃に

    これは記憶だ!

    仕事探しは困った経験がないからか
    比較的なんとかなる

    ここを辞めたら次が···。
    みたいなのはない。

    何かあるやろうと思ってるからか
    なんか見つかるのかもしれない。
    そのお陰で転職は数知れず(笑)

    なんとかなるさ~♪

    • 涅槃の書-自分 より:

      shiyさん

      >何かあるやろうと思ってるからかなんか見つかるのかもしれない。そのお陰で転職は数知れず

      とてもいいね、その心のスタンスで常にあるといい。ならば仕事だけでなく、いろんな出会いが”あなたに許されて”やってくるようになる。

      つまり理由も根拠もないけども「どうにかなる」と深い安心にあなたがあるとき、それはすでに描かれている一枚の絵を感得しているんだ。

      いつも話すように、その一枚の絵には「過去と現在と未来」が”同時”に描かれている。

      だからあなたが「どうにかなる」と自分を許せるのは、“自分”にとってこれから訪れる未来をすでに知っているからにある。

      これは言いかえれば、日頃は”自分”によって絵がみえないということであって、まさにそれゆえに自分は”絵”を信頼できず、同じ場所で止まってしまう。

      “未知”が恐ろしいからだね。

      つまり”自分”という小さな覗き穴は、まさに己が小さな覗き穴であるがゆえに絵の全貌を眺めることを”許さず”、だから自分というのは常に、あなたがここにいる”本当の目的”を邪魔している様子にある。

      たとえばあなたは自らの人生をどのように語れるだろう?

      それは実際のところ、”同時に”すべてを語る必要があるのではないかな。

      現在を語るにしても、それには過去があったわけで、そして未来への目的があるからこそ現在がある。

      自分という小さな覗き穴は、絵を少しずつ眺めていくしかない。だから”時間の幻想”が生まれるが、そればかりか、損得や憎悪や惨めさといった「本来は絵には描かれていない負の幻想」を覗き穴に浮かばせてしまう。

      それは青いサングラスをかけているのを知らずに世界が青いと思っているようなものであり、これが厄介なのは、本当はこんな色じゃないと自分は思い立って、赤や黄のペンキを世界にぶちまけてしまうことにある。

      すると余計に世界は不自然になってしまうが、ところがそのペンキもまた、世界そのものではなく覗き穴のレンズにのみ塗られているんだ。

      だがあなたがありもしない幻想に囚われず、”絵”に描かれているものだけを信頼するとき、すべては順調となる。それはそもそものあなたの望みが現れてくるだけでなく、自分という恐れのないあなたによって、さらに絵は素晴らしいものに描き変わるからだ。

      たしかに信頼しようといっても”覗き穴”からは絵を一望することはできない。だが「絵」を感じてそれを信じることはできる。まさにそれが”神を信じる”とか、”自分自身を信じる”というのと同義であり、言いかえれば自信や守られた実感というのは、他のなにかがあるからではなく、己が本当の己とひとつにあるからこそ、覗き穴から漏れ出る光に包まれている様子にある。

      そうして恐れが消え去るわけだが(というより恐れがないから光に包まれるわけだが)話したように、すべてが”良い流れ”となる。

      それはモーセが海を割ったみたいに、まるで「正解への道はこれだよ」と案内されているかのように眼前に世界が展開していくが、しかしそれは”自分が選んでいるのではない“ことにあなたは気づいているがゆえに、ある神秘に気づくことになる。

      わかるかい、想定外の縁や出会いがやってくるが、それは”常に絵全体が描き変わっている”ということなんだ。

      ここに絵を信頼するということの「本当の意味」がある。

      これはいわゆる成功法則の鉄則でもあり、つまり順序など無用なんだね。順序にこだわるから、覗き穴は同じ場所を旋回していることになる=絵は古いままに固定される。

      もちろん順序は無用だといっても、物理的な制約や社会的なルールを無視しろということではない。

      金持ちになりたいから銀行強盗をするというのは、すでに描かれている絵のなかでの自分の考えによる”順序”に結局は従ってる。

      だが”あなた”という絵そのものは、過去から未来に順番に描かれているのではなく、すべてが一挙に描かれるのであって、むしろ物理的な制約や社会的なルールは、”あなた”によってここに現れていることを理解しなければならない。

      この”逆転”が大事なんだ。

      あなたの人生(あなたの絵)というのは、自分だけの活動があるのではない。”この全体”が一緒に進展し、すべてが互いにまったく依存し合って動き続けている。

      そしてここが重要だが、こうした全体の進行は、自分がそれをどうにか理解しようと、なんらかの”区別”を差し込んだところで、そんなことはおかまいなしに展開していくということだ。

      ならばあなたはどちらを信頼するだろう? 自分かそれとも絵か。

      さらにいえば、絵を”信頼”するとき、同時に自分という恐れを捨てているわけだが、だがそうして恐れを捨てるとき、絵とあなたはひとつになるということだ。

      だからいつも楽しんでいること、どんなことも「本当は意味などない」と見破っているといい。なぜならそれは区別を差し込んで捉えているだけだからだね。

      するとあなたは古代の神話や伝承のように、海を割ったり山を動かしたりなどいった奇抜な記述が本当は何を意味しているのかを理解し、実際あなたもこの世界で同じ奇跡を起こしているだろう。

      >むかしニーチェの馬の映画を見た事があった。モノクロ映像のただ親子が淡々と日々を過ごしている光景が続く。

      その映画は語るところが多いけども、作中に登場する食べ物や出来事すべてが”暗喩的”なモチーフにある。

      そして最後のあのシーンに収斂していくのであって、それはちょうどtomonoriさんがマンスフィールドの小説について話してくれていたが、彼女が描く世界のように、個としての意識が解き放たれていくその境域のギリギリを描いているといえる。

      それは魂にとってとても苦しいものだ。だがその苦しみはやがて別のなにかに変わる。

      「ニーチェの馬」はかなりの悲壮感が漂っているが、しかしそれはあなたの見解のとおり、どのように受け取るかにある。だからその意味でいえば、自分を着飾ることをやめて愛する家族と一緒にいれるだけでいいと思えたり、没頭できるこの仕事に一生を注いでもいいといったポジティブな決意も同じにある。

      では苦しみが何へと変わるのか。

      それはまず個人として備えていた自由意志が失われることがきっかけとなるんだ。

      ニーチェの馬もマンスフィールドの短編も、また愛する人とともに生きることも、それらは自由の喪失であり、あるがままの世界に委ねるしかないという、ただひとつの道しか残されていない状況に自らが置かれるということにある。

      たしかにそれは一見すれば神の暴力であり、巨大な宇宙の渦に飲み込まれていく悲惨な出来事に思える。

      それがどうして苦しみからの離脱なのか、どうして自由が失われることが苦の脱出なのかといえば、自由な意志がなくなるということは、物事にそれが善か悪かを選択することがなくなり、また誤ちを犯すことも誘惑に惹きつけられることもなく、さらには救われたいという願いを抱くことさえもなくなるからにある。

      「それは廃人のような虚無じゃないか」とあなたはいうかもしれない。だが虚無として捉えている時点で、そうありたくないと抵抗している”自由な自分”がまだ居残っているんだ。

      だけどもただ苦しみとひとつにあり、だがその苦しみにただ漂っているうちに、やがて”それまでの境域”を抜ける。あなたは世界の”外”に出る。

      このプロセスこそが“自分”からあなたが解放される(すべてが許される)ということにある。

      世界を許そうとする”自由な自分”がいるのではなく、そんな自由さえもなくなるからこそ、世界はありのままに許されるんだ。

      いわば海上に浮かんだ小舟にただ委ねているようなものであり、もちろんやがて自分は”死ぬ”ことになる。

      だが死ぬのは自分であって”あなた”ではない。なぜなら死ぬも生まれるも”出来事”は、あなたのなかで”現れる”からだ。

      だから「ニーチェの馬」のあの荒野の光景を、そしてあの絶望へ向かう始終を「己の心の世界」として眺めてみるとき、あの映画がなにを伝えているのかがわかる。

      絶望とはひとつの精算であり、覗き穴の自分にこだわることをやめることであり、つまり古い魂のままでは新しい魂へは移行できないことを学ぶだろう。

      だがこうした魂の転生(=絵の描き変わり)は、あなたの日々の暮らしのなかでひたすら繰り返されていることなんだ。

      そのことをまっすぐにみているならば、あなたは”真の自由”を得ることになる。

      それはこの宇宙がすべて同時に動いているのと同じ自由なのであって(大いなる流れは”ただひとつだけ”だということ)、それは無限の創造性であるだけでなく、私たちが「どうにかなる」と奥深くで感じられる”安心”そのものなんだ。

    • shiy より:

      自分さん ありがとう。

      抵抗する自分も健在やし
      そんなに離れてる事もないから
      引き続きで

      今日、仕事帰りにスーパーで買い物して
      レジに並んだら
      ちょっと苦手意識を感じてる人が
      レジ担当だった。

      違和感を事に気づいたから
      その違和感を感じてた
      いつもは感覚を感じるだけやけど
      今日はその光景をただ見るに集中してた

      そしたら「スー」って感じで
      この光景が正常です
      みたいな感じがした
      (特にその人が何かするということはない)
      上手く表現できないけど

      今日の事で
      めちゃめちゃペンキ塗りたくってるな
      と感じた。

      絵の全体が分かればいいんやろうけど
      さっぱり分からん(笑)
      知らない方がサプライズなのかドッキリなのかどっちにしてもいいのかもね。

    • 涅槃の書-自分 より:

      shiyさん

      こちらこそありがとう。

      >今日はその光景をただ見るに集中してた そしたら「スー」って感じでこの光景が正常ですみたいな感じがした

      それが一番大事なことなんだ。これまで「楽しみ」として積み上げられてきたこの世が、やがてその創造の根拠を忘れて、積み上げられたもののなかに閉じ込められてしまう。

      そこで”初期状態”に戻るためのリセットが必要なんだけども、積み上げられたもののなかで探したところで、その探している行為自体が積み上げられてしまう。

      もがけばもがくほど「迷いの塔」はどんどん積み上がっていくわけだ。

      すると娯楽や嗜好品で気を紛らわせるしかなかったり、信仰やスピリチュアルで自分が解放されるという”気分だけ”が形骸化する。

      こうして作られた”枠組み”を以後も求めるようになるが、まさにそれが積み上げられているものにある。

      いつも話すように、そのような「誤ち」に気づかせることが宗教やスピリチュアルが真に語っていることであって(偶像崇拝の禁止だね)、だがこうしたことは結局のところ、人間とはそもそもなんであるのか、もっといえば「なぜこの人生を体験しているのか」という根源的なところに問いを向けるということでもある。

      少し考えてみよう。

      いったいなぜあなたはいまここにいるのか?

      なぜこのおなじみの現実世界を生きながら「うまくやっていかなければならない」という苦しみに常に見舞われているのだろう?

      つまり、いつも眼前に現れているこの「一切合切のなか」に苦しみやそれを癒すものが溢れかえっているが、しかしなぜこんなところに己は放り込まれているのか?

      そしてこの「一切合切のなか」で人生の目標を立ててそれに向かって歩いているが、そもそもなぜそのように生きなければならないのか?

      このゲームを終わらせるには、じゃあ死を選ぶしかないのだろうか?

      だけどもそうして死を選択することさえ、ゲームのなかで選んでいるだけではないのだろうか。マリオがマリオワールドのなかでジャンプしてコインを得ることと落下して死ぬことは、実は同じではないのか。etc..

      といった感じの問いだね。

      この流れで浅めの探求からはじめていくが、たとえば宇宙はとても広大な空間だと”教室”では説明される。

      だけどもその広大な宇宙とやらは、私たちが「考えるとき」にだけ存在するように、つまり人間の”なか”に宇宙があるように、その”選択できる死”もまた「生のなかにある」というパラドクスにある。

      “それゆえ”に死は苦しみの最頂点として生のなかに君臨している。

      だがそれはこの現実の解放なのだろうか?

      つまりこの現実に”内在”する単なる設定として現れているすぎない死に救いをみて、そこに至ろうとすることこそ、まさに悪霊に導かれてより苦しいものをつかまされようとしている罠ではないのか。

      つまり本当に求めている「死」とはこの現実上の選択のひとつではないんだ。

      それは選択によって選ばれるものではなく、選択そのものを超越したところにドンを控えている無限の領域、いわば雲が去ったあとの一面の青空の”ように“ある。

      ゆえにそれはマリオワールドのなかの死ではない。また”広大な宇宙”でも”雲が去ったあとの一面の青空”でもない。

      人間によって不可知なもの、知ろうとしてしまえば、たちまち人工物に成り下がってしまう、そのみることも触れることもできない源泉そのもの、まさにそれが真の死であるけども、もはや「死」と呼ぶ必要もない。

      逆にいえば、その何かはいろんな呼び方ができる。たとえば「愛」や「安らぎ」や「ワクワク」や「幸せ」のようにね。

      いわばそれは「生命の喜び」そのものであり、つまりこの「真の死=生命の喜び」という、どんな形あるものにも置き換えることのできないその「なんでもなさ」は、普段からあなたの日常のなかで隙間から漏れる光のように差し込んでいるんだ。

      それは「解決がみえているわけではないが悩んでることがバカらしくなってきた」というそのときや「別になにもないけども穏やかに過ごせている時間」や「なにかをしてもらったわけでもないのに相手の温もりを感じた」といった瞬間にその光はあなたの暗い意識世界に”外”から差し込んでいる。

      以前メール相談の方に回答した話だけども、

      ──

      たとえば不幸なとき「なんだか不幸すぎて笑えてくる」という気分になったなら、それをそのまま保ってみるといい。その笑いは見かけの世界を”拘束せず”、あるがままに流してくれる。

      ──

      「不幸すぎて笑えてくる」とき、それは積み上げられた「迷いの塔」の基礎構造を骨抜きにするものだ。つまり“この現実”の因果法則を完全に無視している。

      実際そうだね「不幸な気分」と「笑うこと」は両立するものではない。

      それらが両立するとはどういうことか。

      それは正面と後ろが同時にあるということであり、昼と夜が同時にあるということであり、過去と未来が同時にあるということ、すなわち「塔の崩壊」なんだ。

      いつも自分にべったりと張りついている、当たり前を「当たり前」だと思わせている何かはこうして落とされる。

      つまり”因果”という時間の流れが葬られ、それはあらゆるすべてが同時にここにある「ひとつの空間」へとあなたは意識が解放される。そう、塔が崩れ去ったあとの光溢れる果てしない空間のことだ。

      さてこうして「不幸すぎて込み上げてくる笑い」をあなたが許すとき、奇跡が起こりはじめる。

      これも相談者の方に話していることなので続けて引いておこう(一部改訂しておく)。

      ──

      不幸続きな自分が笑えて仕方ないとき「不思議なこと」が起こりはじめるんだ。

      たしかに現実に再び意識が吸着すれば「ああどうしよう」となるが、しかし吸着しなければ「心の重さ」がない。

      つまり雲と背後の大空を”意識は行き来”している様子にあり、それは雲の整合的な体系を完全に無視しているからにある。

      では「不思議なこと」とはなにかといえば、それは己の現実は己の潜在意識の投影ゆえ、そうして既存の体系が崩壊するほど、それまでありえなかった出来事が到来してくるということだ。

      新しい出会いだったり、想定外の展開が起きたり、そして日頃頭に浮かぶ思考もまた”出来事”ゆえに、それまでなかった思考にある。

      つまりもう”以前の自分”ではないんだね。

      これもまたあちこちで話していることなので省略するが、仮に完全に既存の信念体系が変容したならば、いまの自分の記憶や世界は存在しない。

      これは言いかえてみれば、いまの記憶や世界において”あなた”は苦しんでいるのであって「どうすることもできないこの不可避な現実を耐えなければならない」と”考えていること自体”が、いま現れている世界の思考だということだ。

      その既存の世界が完全に”終わる”のは、あなたが別の体系として、つまり別の雲のなかを体験しはじめたときであり、だがこうして雲は不動の大空のなかに生まれては消えていく。

      あなたが到達したあのときの心の平和は、雲を離れたからこそにある。

      だから”いまある自分”の常識や価値観を疑ってみることだ。

      ──

      引用は前後の文脈の途中のものなので掴みづらいかもしれないが、つまり塔から抜け出そうという”考え自体”が、すでに出口を塞いでいることになるわけで、そうした一切から手を引かなければならない。

      マリオがどんなに頑張ってステージを進めてもやはりそれはマリオワールドだろう。

      投げ込まれたこの現実のなかで、自分は思考し、自分は感情を抱き、自分は目標を設定し、自分はそこへ向かおうとする。

      だがその自分の”一切が”この現実によるものだ。

      このプログラムを打ち砕くには、いわゆる「バグ」にならなければならない。

      バグとはプログラムの”欠陥”でありプログラマーにとっては修復の対象にある。その小さなエラーが構築世界全体をやがて崩してしまうからだ。

      あなたもそうだね。「こんなに不幸なのに笑うなんて、単なる気休めだ」とバグを修復する自動プログラムが発動する。どんなときもそうだろう。

      「どうせやっても無駄だ」とか「こんなことしてなんの得にもならない」とか「自分ばかりが辛い思いをしてる」とか”無意識な修復”がなされる。

      つまりそのような唐突な「ひらめき」は人生における欠陥であり、そうして欠陥を封じることで既存の世界を保とうとする。

      だがまさにそこにバグが小さなものではないことが暗黙されているんだ。

      プログラマーにとってバグとは単なるエラーではない。辞書を参照してみれば「意図した動きと違う動作をする原因を総称してバグという」とある。

      そう、バグによって意図した世界が変わるんだ。

      動きが変わるとは現実の常識、価値観、見え方が変わるのであり、そうして見え方が変わるとは、起きてくる出来事が違ったものになるということでもある。このことは先日の手記が理解の助けとなる。あるがままの出来事が結ばれるその”交点”が変わるということだ。

      ゆえにバグは暗い塔内に差し込む一筋の光であり、その隙間はやがて塔の崩壊へとつながる。

      たとえば引越しのための下見で回るとき、なにも置かれていない空間はいろんな可能性に満ちている。

      「あの角にはスタンドライトを置こう、あの壁にはおしゃれな絵を飾ろう、ここにソファを置いたらいい感じになるかもしれない」といった具合だが、ところがそうして家具やらを敷き詰めていくと、残りの空間に置くものが”限られて”くる。

      同様に人恋しくなって誰かを求めて、たとえ相手が目の前にやってきたとしても、どこか妥協している自分がいる。「本当はこういうことじゃない」という底知れない感覚があるが、しかしその本当のことがなんなのかがわからない。

      それはすでに現れている世界への相対的な根拠や意味しか見出せないからだ。

      ところで昨日の手記のなかで「カンフーごっこ」が出てきたのだけども、以前にどこで話したのかなと調べてみたら、あなたへのコメント回答だった。

      あとで読み直しておいてほしいが一部引いておこう。

      ──

      車も自転車も、物を運ぶ腕や移動する足の替わりであり、ダウンジャケットのような冬物は動物たちがまとっている毛皮の模倣にある。

      ハンマーやハサミも手の拡張であって、つまりすべては「裸の人間」がこの自然界でより適応できるようにと、自然世界そのものをヒントに模倣したものにある。

      そして”その延長”に文化が発展してきた。

      武道もそうで、たとえば中国拳法は虎や鷹や蛇など、動物の動きを模したりする。ダンスもまた「白鳥の湖」なんかは誰もが知る典型だが、だからちびっ子たちが動物の模倣をするのは「裸の人間」に備えられていく創造性を養うための重要な過程にある。

      つまり人工的な創造物で埋め尽くされた人間世界なかで、その根本的な基礎である自然界への模倣を忘れずにいるならば、人工性そのものに窒息することなく、原点に立ち返えられるようになる。

      たとえば人間関係にしろ生活の見直しにしろ、八方塞がりの状態から再び自由に創り出していけることになる。

      あれだね、カンフー映画なんかでよくあるように、主人公が形に囚われたことを脱して、突然鷹のポーズを始めてパワーアップするようなものだ。

      だが自然そのものは、あくまで人間界における模倣に留めておかないと、歯止めが効かなくなったりもする。

      たとえば「狂気」と呼ばれるものはその現れのひとつだといえる。だけどもその自然の力が注ぎ込まなければ、型にはまった自己を超え出ることはできない。

      だからほんの少し狂ってるぐらいがちょうどいいんだ。

      趣味にしても仕事にしても恋愛にしてもね。むしろ恋愛は狂気そのものだろう。

      ──

      この回答は、積み上げたものがそもそもどこに積み上げられているのか、つまり「人生を積み重ねていくこと」に対して”真逆”の方向を示している。

      つまり「積み上げているもののなかに自分は生きている」ということに気づこうというわけだ。

      しかし積み上げられる以前にある「なにもなさ」とはなんなのか。

      それは積み上げられた自分からすれば、論理が破綻し、一切が矛盾しているような支離滅裂なものとして受け取られる。

      それは“正常な自分”からすれば狂っているとしていいようがないものだろう。

      もちろん”人工的な観念”で構築された社会生活を営むには、筋道のある論理的な生き方をしなければ破綻することになる。

      だが本当に狂っているのは”どちら”だろうか。

      たとえばパスカルはこのように残している。(原文は長いのでエッセンスだけ汲み取って超訳しておく)

      ──

      古代ギリシアの哲学者たちは堅苦しいまでの体系的な考えをいろいろ残したけども、だが実際の彼らといえば、日頃はみんなと楽しく談笑したり、簡素で静かな生活をしていた。

      ではなぜそのような小難しい思索を残したのかといえば、その話を聞かせる相手がこの”人間世界”という巨大な精神病院で自分が王や皇帝であると思い込んでいるからだ。

      その思い込みによる他への危害を抑え込むために、哲学者たちはこの狂った世界に規則を与えたのだ。

      ──

      私たちは「正しい考え」を求める。だが正しいとはなんだろうか。それは整合的であり、できる限り全体が円満であるという論理的な帰結だろう。

      ところが何かを認めれば別の何かが不都合となり、こうして倫理や民主主義はいつもシーソーゲームを繰り返しているわけで、そうなると「正しい考え」とはいかに矛盾を打ち砕くかにあるといえる。

      ところが現存する世界にしろ、また現存する”あなたの人生”にしろ、すでに無数の個が存在するなかにおいて「すべてに都合のいい方向」というのはあり得ないんだ。

      なぜなら「個」そのものが、全体から独立することで生じているのであって、存在している時点で全体性とは相容れないからにある。

      これはあなたの世界で”自分”がいつも苦難しているのと同じ。

      そして自分が都合よくなれば、今度は周りの他人や物事が苦難してしまうように、常に胸の痛みがついてまわることになる。

      ところがあなたが無条件に安らいでいるときや、大したことではないけども胸が躍ってワクワクしているとき、それは誰も被害を被っていない。すべてが幸福であり、つまり切り離された個が存在しないまさに”ワンネス”にある。

      そのように構築された体系の”外”にこそ、その体系自体の難問アポリアを超える鍵があるんだ。

      地上では昼と夜は同時に並べることはできないが、地球を飛び出せば、昼と夜という概念さえもない領域へと超越する。そのときようやくどちらも同時にあることがわかる。同時にあるとは昼でも夜でもない、別のなにかだったということだ。

      当然それは”地上”からすれば理解不能であり、すべて同時にあるなんてまさしく狂った視点だろう。だけども本当に狂ってるのはどちらなのか、ということだね。

      さて前置きが長くなってしまったけども、あなたがスーパーでレジ担当のその人を前にして、その光景を「ただみるだけ」にあったとき、つまりただの「目」としてそこにあったとき、そのときのあなたは何者だったのだろう?

      それは”地上”ではない。つまり昼や夜に支配されてその矛盾を超えられない”自分”ではなかった。

      あなたは地球を飛び出して外の空間とひとつにあった。だからその目は空間そのものの目であり、つまり「空間そのもの」だった。

      そのときあなたはその店員のことがよく理解できる。しかしそれはあなたがこれまで同化していた”自分”をよく理解したということだ。店員の態度や姿を”受け取っていた自分”を、あなたはその店員を通じてみていた。

      だから以下のようにあなたが語れるというのは、とても重要なことにある。

      ──

      そしたら「スー」って感じで
      この光景が正常です
      みたいな感じがした
      (特にその人が何かするということはない)
      上手く表現できないけど
      今日の事で
      めちゃめちゃペンキ塗りたくってるな
      と感じた。

      ──

      あなた魂の内部、つまり己の観念世界をただあるがままに眺めていた。

      >絵の全体が分かればいいんやろうけど

      未来や過去に心を振り回されるのではなく、そうしてただあるがままにみている「いまここにあるもの」が”絵”なんだ。

      以下の手記の”自然”を読み替えてみるといいね。

      ──

      思い切ってやってみたことが
      とんだ災難を引き起こすこともある

      そんなときは
      自分の欲望を満たすことが動機だったり
      せこい考えが含まれているからだ

      あなたの不自然さは
      “自然”によって正される

      つまり”あなたの向き”が
      変えられようとしているのであって
      その変化が一時的に災難として映っているにすぎない

      当然ながらその災難でさえ反発し続ければ
      川面に浮かんだおもちゃの風車のごとく
      豪快にくるくる回り続けることになる

      世界はめまいを引き起こし
      あなたはふらふらになるが
      回っているのはあなたのほうなんだ

      だから忘れてはならないのは
      「すべては自然に従う」ということ

      じゃあなにが”自然”なのかといえば
      あなたが自分にこだわるのをやめたとき
      そこにある世界のことだ

      必要なものは自然にやってくる

      ──

      絵のなかを自分はさまよっている。自分からすれば”絵”は塔のようにみえるが、しかしあなたからすれば、それは当初の目的である「楽しさ」として現れている。

      なぜなら、あなたは塔を包みこんで満ちている光そのものであるからだ。

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