素晴らしいこの世界

“理不尽”について少し考えてみようか。

たとえばあなたの会社の社長が週末留守にするからと、犬の世話を強引に頼まれたとしよう。

断ることもできず休日が台無しとなる。予定していた行事は延期となり、渋々犬の世話に出かけた。

ところが散歩中に偶然すれ違った人に犬が吠えてしまい、その人は驚いて転んで大怪我をしてしまう。

あなたはやり場のない怒りを覚える。つまり理不尽な気持ちにはまる。

 

不幸がうまれるとき

まさにタイミングが重なって起きた不幸だね。

その日だったこと、その場所だったこと、その人が歩いてること、犬が吠えること、そうした個々の要素はそれ自体では幸せも不幸でもどちらでもないが、こうして他の要素と関わり合ったとき、その”交点”に幸不幸の意味づけが生ずる。

言いかえれば、交点こそが人生をさまよっている”自分”なのであり、むしろ他の要素が絡み合った関係性があるところに”のみ”、自分は生まれる。

つまり休日をつぶして社長の留守で犬の世話を頼まれたことに対する「怒り」や「嘆き」こそが、自分そのものということだ。

そしてそんな散歩の途中にわざわざその人が現れて怪我をした。その後に面倒な展開になっていくのは言うまでもない。”自分を生きてるあなた”はただ理不尽な気持ちしかない。

 

冤罪

さて、なにが理不尽かといえば、それはどこにもあなたに原因がないということだ。

「私はまったく関係がない」という気持ちで一杯だろう。なのにあなたの責任とされる。

しかし踏み込んで考えてみれば、もしそれが自分の犬だったとしても、やはりあなたは理不尽を感じていたかもしれない。

たとえばその犬はあなたの意思で飼ったのではないかもしれない。家族が勝手に連れてきたとか、偶然通りがかった道で捨てられていた子犬を放っておくことができなかったとかね。

あのときあんなことがなければ、人に吠えて怪我をさせてしまうような、そんな不幸はなかったわけだ。

たとえペットショップで出会ってあなたが犬を選んだのだとしても、なぜその日に店の前を通ったのだろうか?

それもまた偶然の出来事であり、その日になんらかの別の用事があったとしたら、じゃあその別の用事はなぜあったのだろう?

同様に社長の話を断れなかったのは、あなたに生活があって家庭を支えているからかもしれない。別にあなたは働きたくて働いているわけではない。もちろん社長のために生きてるわけでもない。

いろんなことに影響するがゆえに、いま保たれている”自分の世界”が揺るがないように、犬の世話を断ることができなかっただけだ。

 

押しつけられた”責任”

というわけで、そうして辿っていけば人生のどのような局面にも、どこにもあなたに原因をみつけることができないことがわかるね。

すべてが受け身だったのであり、あなたは人生で起こる出来事をただ経験していくしかなかった。

なのにどうして病院に運ばれた人はあなたに責任を取ってもらうと怒鳴り散らすのだろう? どうして社長は「なんてことをしてくれたんだ」とカンカンなのだろう?

なぜ家でもみんなに「そんな会社辞めてしまえ」と言われるのだろう?

だけども辞めてしまったら、あなたたちはどうやって食べていくんですか?

話したように自ら求めた何かがあったとしても、それを求めたいとあなたに思わせた広告や誰かの話が飛び込んできたからだ。もちろんそれらの話に遭遇することになったのも、やはりそうなった”経緯”がある。

何かがあなたをその気にさせたり、そうせざるを得ない状況に直面したりして、あなたはただ流されてきたにすぎない。

それなのに「あなたに起こるすべてのこと」が”あなた”の責任にされる。「お前のことなんだから責任を持て」と叱られる。これを理不尽といわずしてなんだというのだろう?

 

人生は理不尽そのもの

いいかい、これまであなたはなにひとつ選んでいない。

容姿や性別でさえ、あなたが選んだものではない。

突然にこの姿を押し付けられて、それを背負って生きている。

バレーボールの選手になりたかったのに背が足りないとか、親に放置されて育ったせいで人生にどんな選択があるのかを知らずに大人になったとか、美形なら毎日が違ってただろうし、家が金持ちだったら社長の下で働くこともなかっただろう。

そうした不満を”我慢”することが人生の暗黙の前提にある。

つまり強いられた”条件”の上であなたは生きてるんだ。

だから「人生そのもの」がそもそも理不尽からはじまっているのであって、ゆえに散歩の件だけでなく他のどんなことであっても私たちは「自分が責任を取らなければならない」ということに、どこか納得のいかない違和感を常に感じている。

つまり「いったい私がなにをしたっていうの?」という納得のいかない怒りだ。

その怒りが社長や怪我した相手や、疑いの目でみてくる警察官や救急隊員、怪訝な顔であなたを眺める野次馬たちに対して心で爆発しそうに煮え繰り返っている。

だがそれはそうした惨事のときに限らない。

この違和感は”平時”であっても心の深層にいつも漂っているわけで、つまりそれが表面に浮かび上がってきたとき「理不尽」として感じられるんだ。

 

人生とあなた

さて、こうして「原因の原因、さらにその原因・・」という具合に辿っていけば、どこにもあなたに原因はなく、もっといえばこの人生のすべては「あなたにまったく無関係だった」という衝撃的な事実がみえてくる。

変な話だね、あなたの人生なのに、この人生はあなたとは無関係だった。

だからこそ、何かが起きると”苦しい”のであって、つまりそれは出来事に直面したとき、原因の原因という「奈落の底」への旅を辿りながらも、”最後”まで落ち切らずに途中で引っかかると理不尽になるということだ。

「社長に頼まれたから自分の休みを潰してまで手伝っただけなのに・・」「だって社長に断ったら次の昇給に響くかもしれないじゃないか・・」「まだうちには小さい子どもや住宅ローンがあるんだ・・」

こうして原因の原因への追及が途中で終わってしまうと「理不尽な自分」となるわけだね。

 

奈落の底へ

じゃあもし”一番下”まで、つまり理不尽の最果てまで落ちたらどうなるのか。

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