置物になるときあなたは悟る

置物は自ら居場所を選べない
買われた先で貴重に並べられるか
それとも埃を被ったゴミとなるか
まったく売れずに店の倉庫で眠るのか

ちょっとイメージしてみよう
置物から見た世界とは
一体どんなものなのか?

自ら移動もできない
思考もできない

置物が買われて
どこかの家の棚に並べられたとき
つまり店の棚から家の棚に移動したとき
「移動した」のは何か

置物ではない
風景の方

刻々と風景が変わる
自らの意思で移動したわけではない
世界がそのように変化したのである

置物は思考を持たないから
その風景が良いか悪いか
幸せか不幸かそんな判断はない

ただ変化する世界があるのみだ

窓から差し込む陽の光の角度が変わる
彼はただそれを知覚しているだけ

手を合わせてみなさい
それが「いま」を示す針だ
完全に止まった風景
いわば映写フィルムのコマ映像のひとつ

置物は悟っているから
彼の世界ではすべてが止まっている

だが「止まる」は人間的な言語だから
実際は止まるも動くもない
「漠然とした世界」がただそこにある
それが永遠と呼ばれるものだ

置物の様子をあなたの人生に読み替えるなら
たとえばジェットコースターに乗っているとき
あなた自体は動いていないが
風景は刻々と変わる

急なコースや緩やかなコースを眺めている
まさに人生はそのようなものだといえる
どれだけコースが激しく変化しても
その座席は同じままだ

つまり時間が経過しているようにみえても
あなたはずっと永遠の場所にいる

だから置物になりなさい
激しいコース人生の浮き沈みは幻想にすぎない

 

 


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コメント・質疑応答

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  1. ishiyama より:

    最終的に探していたものが自分なのだからそれはなかなか見つからないですよね。自分が自分を探していた、自分が自分を求めていたというのもなんという皮肉というかパラドックスで。駄目な所も愛の一部だったんだなと思うと今は刹那さしか感じないです。

    愛という言葉には照れくささがありますが自分が愛という事は認めざるをえないので明日は1ミリでも世界を優しい眼差しで見れるようになれればいいかなと思いました。もう何もかも急いで生きるのは止めようかと思っています。最近ひとりよがりになっている様な連続投稿が多くてすいません。

    涅槃の書自分さんと今これを読んでいる方にも本当に感謝申し上げます。おそらく皆様がいなかったら私はここまで理解出来ていなかったと思います。なんとなく今はそれを感じるんですよね。なんかいい意味でのせつなさです。振り返って見ると、自分が苦手な「内面を探る作業」を血を吐く思いで命懸けでやった数十年だったかと思います。少し大げさかな笑 でもこんなに時間がかかったのは知らず知らずの内に一番苦手な事をやっていたからだと思いたいのですが。。

    • 涅槃の書-自分 より:

      ishiyamaさん

      素晴らしいメッセージをありがとう。

      たとえば私は、古今東西の宗教や伝承などを手引きとして手記を書いたりするけども、そんななかで「〇〇教を信仰しています、あなたの話に感銘を受けました。」という具合のメールをよく頂く。

      そして大体は「一緒に〇〇教について語らいましょう」と続くのだけども、感謝と共に丁重にお断りしている。

      理由は単純であって、私はそうした宗教について主張している人たちとはまったく共通点がなく、彼らと議論すべきところがどこにもないからだ。

      その意味で、少しひねくれた言い方をさせてもらえば、それは宗教の本質を見失っているのであり、信仰の意味を理解していないといえる。

      もちろんそれぞれのスタイルがあるからそこを否定しているわけではない。

      しかしながら彼らは”形式”について語ろうとしているにすぎないのであり、それは本書が日頃話している要点を逃していることになる。そもそも宗教とはその形式を超えた「向こう側」を示唆する門のようなものとしてあるわけだからね。

      さらにいえば、その向こう側を理解するならば、それは別に宗教という形式でなくても構わないのだ。

      芸術であれスポーツであれビジネスであれ、それらは「同じ向こう側」をどのような形として現前させているかの違いでしかない。こうした表現のバリエーションの違いが、私たちの各々の人生として現れている。

      その意味で「どんなこと」でも向こう側を掴んでいるならば、自ずと加減を知るようになる。その加減によって人生は順調を保つことができる。

      だがこれは誰もが自然に実践していることなのだ。

      「最近食べ過ぎだから、ちょっと控えようかな」とか「いくら口喧嘩でもこれは言っちゃだめだな」とか、そうしたセーブしようとする意思が働くのは、一辺倒に流れ続ける欲望とは異なる「別の次元での流れ」を捉えているからだ。

      もちろん、それでも欲望に流されると「向こう側」は遠いものとなり、あまりに離れすぎるとセーブするという意思も起きなくなる。

      最近はそういう人たちが増えてきた。個人主義、拝金主義、物質崇拝の行き着く果ては、日夜報道されるニュースの通りとなる。つまり「欲望に流される」とは形式に飲まれていることを意味する。

      民主主義の重要性が叫ばれるけども、それも一歩間違えれば、個人の際限ない欲望の主張にすり替わってしまう。すると社会的弱者やマイノリティが当初理想としていたものがだんだん見失われて、やがては主張する活動自体が己を苦しめていくことになる。

      つまり人々の多くが「形式のみ」にこだわっているわけで、その形式の整合性がいかに保たれるかにのみエネルギーを注いでいるわけだ。

      そうなると人生はただ辛いだけで一向に満たされない。だけども崩れそうになる形式を保たなければならないというエゴが働き続ける。そうある限り堂々巡りを続けていく。

      だからあなたが気づいた「愛」とは、目の前で繰り返されているやりとりの「向こう側」に触れたということだ。

      愛を知るとき、人生は順調となる。それは形式から離れたから(執着から離れたから)である。だから何を始めるときも、愛に基づいていることだ。ゴールが先にあること。

      先の返答の通り、そのときあなたは己の”なか”にこの世をみている。

  2. ishiyama より:

    自分さんありがとうございます。宗教の話もありましたがなんでも形式になってしまうのが、難しい所ではありますよね。

    • 涅槃の書-自分 より:

      ishiyamaさん

      >なんでも形式になってしまうのが、難しい所ではありますよね。

      だけども「形式」こそが人間の世界の豊かさ、創造物なんだね。

      だから私たちは野球を楽しんだり、哲学や科学に取り組んだり、欲しいものが出てきたり、他の人のライフスタイルに憧れたりする。

      そうして「形式」を創り出していくことによって、人生はどんどん豊かになっていく。資本主義はまさにその土壌となる。むしろ創造することを人は学んだからこそ(”神”から離れたからこそ)資本主義はどんどん発展していった。

      ただし油断してしまうと、己が創り出した枠に己自身が閉じ込められてしまう。ミイラ取りがミイラになる。

      こうした教訓を示唆する寓話アレゴリーは太古から各地であるけども、実際人間の歴史の悲劇のすべては、このことだけが原因であるからだ。

      争いあったり、どれだけ所有を続けても、いつも不満足な顔を浮かべることになる。

      よって大事なのは形式の背後に流れるもの、宇宙のエネルギーをみつけることだ。創造世界のなかから「神なるもの」を再発見すること。

      仕事でも人間関係でもそうだね。

      あらゆる形式はその流れを具現化したものにすぎない。だから表面上の意味に振り回されるのではなく、常に「ここに流れるもの」を直観しておくことが肝要となる。

      他人や物事の表面上の意味に囚われないというのは、逆説的に自分が解放されることにある。

      自分が解放されるからこそ、揺るぎないものを感じ取ることができる。

      つまり友情や信頼関係とよばれるもの、また「大丈夫」という安心感は、意味世界上に根拠があるのではないということだね。

      意味世界のなかでその理由や根拠を探すから、すぐに見失われてしまうのだ。「幸せ」も同じである。

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