見られる者が見ている者である
見られる者が見ている者である
あなたが黒い車を見ているとする
その車が横暴な運転をしているとか
そういう動作についての思考や印象
さらに「黒い」と「車」だ
それを認識している時点での思考
思考をしているあなたがいる
スピリチュアルでは
思考を観察しなさいという
黒い車を思考しているという出来事
それを眺めよう
さて一体何がそれを眺めているのか?
または誰かがあなたに話しかける
その言葉を聞いてあなたは何やら思考する
よくある光景だ
ではその思考を見ているのは何だ?
思考を見ているということを思考する
それは思考のエリアだからそれは違う
何も超えてはいない
マインドの範疇だ
では黒い車を見て「黒い車」と思考する
その思考を見ているのは何か
こう考えてはどうかね
黒い車と思考したのはなぜ?
それは黒い車がそこにあったからだ
あなたが黒い車と思考したのを「見ている」のは
実はその黒い車なのだよ
あなたは黒い車と認識した
なぜ認識したのか
それは黒い車が黒い車と知りたいからだ
文章にすれば人間的な解釈だがね
対象 を見ているという思考を
「さらに見ている」という壁を越えると
ある場所に行く着く
その「対象」だ
あなたを超えて
元の場所に行き着く
あなたは中身のない 縦笛のようになる
例えばあなたが誰かの話を聞いて思考している
それを見ているのは「その誰かの話」そのものなのだよ
「それ」は自らを知ることはできない
だからあなたという媒体を通じる
どんなに立派な人がいても
それを知る人がいなければ立派には成り得ない
どんなに美しい花があっても
それを見る人がいなければ美しいには成り得ない
その存在さえ成り立たない
存在とは「成り立つ」ことだ
成り立つことにより存在は成り得る
だからあなたという五感を持った媒体が必要なのだよ
だけどもここでの「あなた」とは
本当のあなたではない
鏡の役割
あなたとはその感じている対象のことだ
だけどもその物事じゃない
その関係性
例えば美しさ
例えば儚さ
見ている者が見られている者
あなたがそのことを体感すれば
確実にあなたは消える
あなたが見ている景色
見ている者とはその景色そのものだ
そこに全貌がある
聞こえる音
音があなただ
見える物
見える物があなただ
触れる物もあなただ
あなたとは
すべての根源となるもの
なぜならば
それがなければ
それに対して何も思考しないからだよ
思考を見ているのは何か
その思考の対象のことだ
つまり世界とはあなたのこと
だけども漠然と全世界があなたなのではない
世界とはあなたが認識している範囲のことだ
その「今そこにある小さな世界」
それがあなたなのだよ
あなたの経験こそがあなたである
経験のない思考、
つまり今そこで明日のことを考えているとする
それは経験ではなく
ただ思考がある
それほど無意味なことはない
なぜならば対象となる「それ」はなく
ただ妄想があるからだ
大切なのはグラスを持ったときだ
グラスを持ったその感じ
その感じを見ているのは何か
答えは
「グラスを持ったこと」だ
そこには経験がある
実体があるのだよ
一度その実体にダイブしてみなさい
怒濤のような安堵感に包まれるだろう
なぜならばそれが「あなた」だからだ
だから「いまここ」が大前提なのだ
実体のある経験
それがあなたである