0.5倍速で生きると人生が満たされる

車を運転する人なら経験することだが
高速道路を長時間走って一般道へ下ったとき
速度の感覚が掴めなくなることがある

スピード感覚が麻痺するわけだね

そのため出口には速度を落とさせる
工夫がしてあるけども
一般道に出てすぐの40km/h制限などは
日頃の速度の感覚ではないだろう

なぜこんな話をしているのかといえば
タイトルから察せるように
現代の人々の暮らしは
スピード感覚が麻痺した様子にあるからだ

本当は40km/hの一般道を走っているのに
気持ちばかりが焦って
つまり不安と焦りに急かされて
本来の速度と一致していない
すなわち本来のあり方で生きていない
ということにある

満たされ充実した人生を歩むには
実際の速度(宇宙の速度)と
精神の速度がひとつでなければならない

高速道路は80〜100km/hで通行するから
その類推でいうならば
0.5倍速の心持ちで生きると
ちょうどよいわけだ

思考も行為も半分の速度に落としてみること
ほどよい速さで満たされた人生を楽しむこと

すると探し求めていた「幸せ」は
ずっと足元にあったのだとわかる

 

1.

「でも半分の速度で生きたら
何も片付かないのでは?」

それは無用な心配となる

なぜなら
“私たちが日頃認識している時間”とは
作り出された幻想に過ぎないのであり
つまりどれだけ急いだところで
その短縮された時間と成果は比例しないからだ

もちろん時間が幻想であるという
その”理解”にあるならば
たくさんの「満たされた成果」を
実らせることができる
それは後述しよう

いま話しているのは幻想の時間に囚われて
それに追われているだけでは
むしろ半分の速度で生きたほうが
“ちゃんとした成果”に繋がるということだ

これまで何度か話したことがあるけども
日本は資本主義社会に侵食される以前
つまり江戸時代までは
「社会的な時間感覚」というものが
そもそも存在していなかった

原始時代からの時間感覚と変わらず
体性的な感覚や天体の様子で
おおまかな流れを察知していた

つまり宇宙の流れとひとつにあった

現代人は概念上で取り決められた時間
すなわち「社会時計」をもとに
毎日を管理して
毎月の経済サイクルを当てはめる

そうして社会時計が
「絶対のもの」と崇められているが
それは資本主義経済を回転させるためにあり
決して「生命的な幸福」のためではない

だから現代人の感覚からすれば
「以前の人類は時間にルーズだった」と言う

確かに”ルーズ”なのだろう
だがそれは何かを見誤っているわけだ

 

2.

これも前に話したことだが
現代人の1日に処理する情報量は
江戸時代の1年分に相当するといわれる

だがいったいどうして
仕事が終わらないのだろう?

どうしていつまで経っても
幸せになれないのだろう?

資本主義はこう答えるだろう

「あなたには速度が足りない
もっと速度が必要だ」

それは果たして本当なのだろうか?

宇宙は40km/hで運行しているというのに
江戸時代も現代も
1日の周期は同じはずなのに
情報だけが365倍も増加しているのだ

頭の中は100km/hで先々へ進んでるのに
実際にはその半分しか進んでいない
そのギャップが大きくなるほど
ジレンマを抱え続けることになる

じゃあ速度に何の価値があるというのだろう
それが何を実感させてくれるのだろう?

スーパーマーケットでカートを押すとき
腕にその振動が伝わる
私はそれを楽しんでいる

必要な買い物を確認するために
用意してきたメモを取り出す
私はそれを楽しんでいる

店内のBGMにビートルズの
Oh Darlingが流れる
私はそれを一緒に口ずさむ

“ここにないもの”は速度オーバーでしかない

 

3.

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