他人の心を知る正しい方法

誰もが他人の心を知ろうとする
それは自分を優位にしたいためだ

実際そうだろう

あなたが親であって
我が子が何を考えているのか知りたい

恋人に対しても
仕事で関わる人に対しても
街ですれ違うだけの他人に対してもだ

そうして他人の心を”読み取る”ことで
己はその関係の支配者になれると考えている

しかも厄介なのは相手が考えていることを
自分は薄々はわかっていると
思い込んでいることにある

今回はこの誤謬がもとで起こる
人間関係の不調和とそれによって
「自ら作り出し続けている不幸」について
話していこう

 

1.

ところで他人の心から読み取れた
その「知り得たもの」を
あなたはどのように使うのだろう?

その人と口喧嘩になったときかな
「だってあなたはいつも〇〇でしょ」

または陰でその人の噂話をするときかな
「あの人って〇〇らしいよ」

どちらにしても
「私は相手をこんなにも知っている」と
誇示したいだけでしかない

あくまで「自分という使用者」がいて
相手のことを己の手のなかで
都合よく取り扱いたいわけだ

だけども自分が誰かに
「あなたは所詮こういう人間だ」と
手のなかに収まるかのように
決めつけられたら
いい気分はしないだろう

確かにそう言われる一面も
あるかもしれないが
それがすべてではない

たとえ外からひとつの行為にみえても
それにはたくさんの気持ちが
複雑に絡み合っている

だから誰と接しても
完全に自分をわかってもらえていない
誤解を常に受けているような
そんな感覚になるわけだ

だがあなたが他人を外から判断するとき
同じことをその人に対してやっているのである

逆にこんなケースもある

困っているようにみえる人がいて
手を差し伸べてやりたいと思うが
本当は困っていないかもしれない
自分の思い違いかもしれない

そんなときにも
「相手の心を読まなければならない」と
人は苦心する

それももちろん自分が恥をかいたり
迷惑がられたくないからだ
ここにも関係性の優位に立とうとする
「見苦しさ」が見え隠れしている

たとえ間違えているとしても
なぜ手を差し伸べることが
できないのだろうか

どうして躊躇してしまうのか

それはもちろん
他人の心を完全に知ることなど
できないからである

無論そんなところでウダウダやってると
誰も助けることなどできず
そして自分の思いを伝えることもできない

つまり「素直」に生きることができない

 

2.

日本人と西洋人の本質的な違いに
「恥」を重んじるか
「罪」を重んじるかという相違がある

これらは真逆の視座にある
つまり日本人は外的な目を気にして
西洋人は内的な目を気にしている

また恥を重視するということは
それは自分だけではなく
他人の恥も「許せない」ということだ

よって日本では「空気を読むこと」や
「建前と本音」という文化が成立してきた

だがこの考え方が
「素直な自分」を阻害してしまう

人助けの話で言えば
手を差し伸べる”べきか”という
「己の恥(立場)」よりも
手を差し伸べないわけにはいかないという
「己の罪(尊厳)」を
西洋人は重視するというわけだ

これは西洋が優れているという話ではなく
単に文化の違いの話であり
もちろん西洋文化にも問題点は多い

ただ対人関係に関していえば
日本の習俗はスマートではない

義理やら忠義やらという
自他ともに「恥をかいてはならない」という
概念に囚われて余計な幻想に
縛り付けられていることになる

会社でも恋愛でもなんでもそうだ

そしてこれは日本人が
単に消極的であるというだけではない
先にも言ったように
自分が恥をかくことは許せないが
他人の恥もあってはならないという
厄介な観念を持っているということにある

その無意識的な前提にあるゆえ
悪質なクレームを放つモンスター客や
また学校や会社、SNSなどでの
「集団いじめ」のような現象が
日本で溢れかえっていることになる

芸能人の不祥事などで起こる
いわゆる「炎上」などをみれば
そこに参加している人々は
その「恥」をこき下ろすための
カタルシスを感じているだけの様子にある

確かにそれなりの「主張」を唱える人もいる
「私はこれはおかしいと思います」
それは結構なことだが
どうして彼はそこに参加しているのだろう

そこに加わらなければならないかのような
強制的な呪文にかかっているかのようだ

西洋圏でも同様に「炎上」はあるけども
あちらは「恥」が「罪」に前提が置き換わる

自分が罪人であってはならないし
他人が罪人であってもならない
同じように罪人は晒し上げられるが
だが罪は「償うこと」ができる

つまり罪は許される
だから西洋では不祥事を起こそうが
リカバリーが可能となる
平然と芸能活動なりを再開している
社会がそのように認めるからだ
すなわち「罪」には寛容性がある
もちろん罪の質によるのは当然だがね

だが「恥」は徹底して許されない
それは数値化できない何か奇妙なものだ

恥を負う者は武士時代のような切腹
戦時中の特攻隊のような相討ちという
己(恥)を滅するという道しかない
それゆえ日本人社会は
奇妙な合理的観念の世界にあるといえる

他者のミス(恥)にも寛容になれないのは
己がミス(恥)を極端に恐れているからだが
西洋文化が罪に寛容になれるのは
己にもその可能性があるかもしれないことを
受け入れているからである

だから恥と罪は似ているようで違うのだ

恥は他人の目を意識し
罪は己の目を意識する

キリスト教圏との違いといえるが
だが釈迦は「恥を知れ」なんてことは
一言も話していない

だからこの独自の「恥文化」は
仏教発祥ではないということだ

これらはまたあとで詳しく述べるけども
まずはあなたの人生の「後悔」を
振り返ってみようか

どうしてあのとき
スッと動けなかったのだろう?

どうしてあのとき
もっと優しくできなかったのだろう?

それらの根源のすべては他人の心を
「読み取ろう」としてしまう悪い癖
染み付いていたからだ

 

3.

さてこんな感じで
他人の心を読み取ろうとすることは
そもそも不可能なうえに
己自身の幸福も逃してしまうことになる

じゃあ他人が何を考えているのかは
一切気にかけずに
つまり無神経に生きていけばいいのか?

誰かが困っていると思われるときは
ただ厚かましい顔で接していけばいいのか?

だって相手の心など読めないのだから
そうする以外にないはずだと
あなたは考える

確かに他人の心を知ることはできない
せいぜいその一面をかする程度でしかない
だがそういうあり方が
素直に生きるということなのだろうか?

なんだか違う気がするね
どちらを選択しても重苦しさがある

では他人と接するときは
どうあればよいのだろう

つまりこの次元での問答は
ただ袋小路にはまりこむしかないわけだ
だから議論の争点を上昇させる必要がある

するとある別の道が見えてくる

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