“師”をみつける

※読みやすくしておいた。

先日コメントした話に多くのメールが寄せられているので補足を交えながらこちらで回答しておくよ。回答として書いたこともあって、やや長いのでゆっくり読み進めてみてほしい。

さて、まずはコメント文から特に議題となっている箇所を引いておこう。

──

たとえば最近よく耳にする話だけども「いまは映画にしろ音楽にしろ、娯楽はわかりやすくなければ売れない」というのがある。

わかりやすい、つまり即効性のある薬だということだ。

言いかえてみればトイレの記号のように、そこが男性用か女性用かを即座に判別できるような「内容」が今の時代には必要とされている、ということにある。

たしかにUIやバリアフリーなど「記号化」できるものは、その標識が普遍的に認識されるならばそのほうがいいだろう。

スマホのアプリアイコンにしても、駅の案内表示にしても「記号」は子どもか老人かを問わず、また各国の言語も関係なく、さらに各々の識別能力の差を超えて、統一した意思表示となる。

それはある意味では「笑顔」や「音符」のように、国境や時代を超えた統一言語だともいえる。

ところがそのように楽観視するのは早計なんだ。

なぜならそれは多様性の真逆である一元化に突き進むことになり、思考も画一化、均質化され、しまいには何も考えないロボットのようになってしまうからにある。

一般に私たちが「便利な時代になった」「豊かな時代になった」という背景には、いたるところで記号化がされているからだ。

つまり”記号”は単に事物を絵柄化することではなく、複数の事物の関係性、つまりシステムや形式もシンプルなものにする作用がある。

それまで複雑だった手続き自体が、ひとつの記号で済んでしまうようになるわけだね。

いまやスマホをみせるだけでレジでの支払いが完了する。財布から小銭を手渡すこと、お釣りを計算すること、重たい財布を持ち歩くこと、財布にお金が足りないこと、それまであったいろんな”不安”が、記号化によって払拭される。

余計なことを考えなくてよくなったわけで、じゃあそれだけ心にゆとりができたのかといえば、完全にそうだとは言い切れないだろう。

いやたしかに、オートメーションによって暮らしはシンプルになり、要所に神経を張り巡らせていた細かな心配の数は激減した。

たとえば近年よくいわれる「AI化」のとおり、あなたが事業をしているならば、レジバイトを雇うよりスマート決済を導入するほうがコストダウンだけでなく、人為的な計算ミス、横領、欠勤、さらには店主の夫がバイトの子とできてるんじゃないかという諸々の心配から解放される。

また日頃意識しないだけで、10年単位で確実に暮らしはシンプルになっている。

逆にいえば、10年前、20年前、30年前に”普通”に暮らしていたあの時代に、もういまの”普通の感覚”で生活はできないだろう。もしタイムスリップしたなら「こんなに物事に追われていたら自分のしたいことができない」と嘆いているだろう。

だがじゃあ「自分のしたいこと」がこの現代でできているのかといえばそうではないはずだ。

やるべき手数は減ったにもかかわらず、つまり時間やエネルギーは大幅に節約できているにもかかわらず、己は20年前と比較してみればなにも進歩していない。

それはなぜかといえば、単に生活が記号化してシンプルになっただけではないんだ。

思考や認識もそれに応じて、記号化してシンプルになってしまったからにある。

ここで「思考がシンプルになった」ときいて「複雑な苦悩を抱えなくなった」と受け取ってはならないよ。まったくその逆だ。

思考の多様性、つまり”創造”の可能性が”激減”したんだ。

──

 

 

「=」というボタン

さて文中にもあるように、便利に発展する世の中と並行して、その便利さを享受する私たちの思考(解釈や理解)も同様に合理化してしまっているといえる。

一般に歴史の進歩とは「合理化の進歩」といわれる。

つまりあれこれまとまりのないものが、ひとつにまとまっていく。

それは単にスマホ一台で電話もメールもカメラもゲームもできるようになったということに留まらず、たとえばAmazonのビジネスモデルに代表されるように、既存のモデルを独自に組み合わせて省略化して、いわば「Amazon」という名の概念(モデル)を生み出したことにある。

もはやそれは電卓の「=」ボタンと同じであって、一度そうして自動プログラムが完成すれば、以後は何を考える必要もなく、むしろ考える余地もなく、人々は無自覚に「=」を押しているようになる。

上のコメントの原文で話していることだけども、仮に「1+1=2」という現実の物事があったとしよう。「あれをしたからこうなった」とか「あれが原因でいまこの結果にある」といった具合だね。あなたなりに置き換えてみようか。

そうして私たちは「1+1=2」について考えるとき、つまりその”現実”に直面したとき、「1+1」の数値を増減して変化させようとするか、結果である「2」にばかり頭を抱えてしまう。

だが”現実”というのは「1+1」でも「2」でもないんだ。

いいかい、”現実”を生成しているのは「=」であり、その「=」のボタンに書き込まれたプログラム(信念体系、思考法則、価値観、バイアス、イデオロギー、etc..)にこそ、いつも自分を翻弄している真の黒幕にある。

言いかえれば「=」こそが現実であり、本来無関係な要素だったものが「=」を通過させることによって、因果関係で”結ばれる”ことになる。つまりその統合が現実なんだ。

それほどに重要な「=」だが、ところが「=」のボタン自体が意識されることはない。

実際そうだね、電卓で長い計算をするとき、意識的になるのは数字を入力ときであって、その計算結果は”当然のもの”として考えているだろう。いまスマホやAmazonが当然のものとしてあるようにね。

これはさらに拡大していえば、どうしてこの世界は三次元世界なのかという問いにもつながることになる。三次元世界なのは、ここが三次元世界だからなのではない。人間が三次元としてしか認識できないからだ。

つまり日頃無意識に「=」を介しているわけであって、もちろんこの「=」には世界を三次元として認識するプログラムがセットされている。

 

関係性はすべて「=」

というわけで、文明の発展、社会や経済の発展とは「=」を設定していくことにある。

すべては「仕組み」であり、どのように広範に散らばっている物事であれ、ひとたび「仕組み」に組み込まれたならば、もうその孤立していた物事はその仕組みのなかの、つまり“現実”の何らかの役割を着せられることになる。

身近なところなら商売や人脈もそう、それを成功させたりうまくやりたいならば、個を磨き上げるよりもまず仕組みを作らなければならない。

「軌道に乗せる」とはそういうことであり、新たな形式を打ち立てて無数の要素をひとつに構造化すること、すなわち「=」ボタンをつくることが、個のスキルアップよりも先行してなければならない。

つまりモンテーニュ(16世紀のフランスの哲学者)が言ったように、

──

目指す港がないような航海をしていたら、どんな風が吹いても助けにならない。

──

というわけだ。

たしかに個を磨き上げているうちに潜在意識の法則において、同調する類が自然に集まってきたりするけども、だがたとえばそれが生業であるならば、その調和が安定して保たれなければならない。家賃や光熱費の支払日は毎月やってくるからね。

ゆえに応用の範囲を一挙に広げるには”意図して”構造を作る必要がある。だがそれが創造性と呼ばれるものであり、そもそも人生それ自体が、同じプロセスでひとつの仕組みとして組み上がっている。

わかりやすい例でいえば、友人との関係は「=」そのものにある。

あなたのその友人はなぜ友人なのか。考えれば考えるほど、奇妙な感じがしてくるだろう。

その人が友人であること自体に理由や根拠があるわけでもなく、ただ偶然的であるけども、かといって他の誰でもその代わりになるわけでもない。つまりその人と己との間で「=」が押されているんだ。

ゆえに商売にしろ人間関係にしろ、あなたなりの「=」が設定されたなら、あとはもう呼吸しているだけのようなものとなる。

「=」について考える必要はなく、たしかに刻々と要素自体の変化があったり(たとえば売上げの増減とか、友人が持ってくるトラブルとか)その出力結果の数値は変わるけども、要素とその出力を結んでいるプログラム自体は恒久的にあり続けている。

つまり仕組みさえ出来上がっていれば、あとは要素と出力のバランスだけみていればいいんだ。あなたの家計もそう、収入と支出の”バランス”があるのは、その天秤の中心点が定まっているからだ。

 

「=」はその世界のすべてを司る

だから「=」こそが、たとえば知識だけあって始めたことのない人が決して”みえない”ものであり、そしてそうした人たちにとって”最も不可解なもの”の正体にある。

いつか起業しようと考えてはいるが、どうも不明瞭で足踏みしてしまう一線、つまり実際に自営している人にしかわからない感覚がそれにある。

それは単純にその人が、その飛び込もうとしている世界の「=」に組み込まれていないからにある。

店を経営している友人たちとよく話をするけども、たとえば水商売の世界なんてのは正直なところ、”保身的”に金銭勘定をする人は苦労することになる。魚やイカや貝など多様な生き物たちが暮らしている海は「同じひとつ」であること、その水の流れがお金の流れであると理解しなければ、ただ自分を確保するということは”海のなか”では致命傷となるわけだ。

この海の様子もまた「=」にある。

また以前もどこかで話したが、どんな職業でもそれに長年携わって備わる「ノウハウ」も同様で、直感的に「これはいける、これはだめ」というのが察知できるのは予見というよりもその人自体が「=」だからにある。

サッカーならペレやメッシはもうその存在自体がもはやサッカーであり、バードやマイルスもその発言や呼吸に至るまで彼ら自身がジャズそのものだといえる。

 

己の思考の「=」に気づく

さて話が遠回りしてしまっているが、ここまでに話してきたのは、同じ「合理化」でも、思考の単純化の話とは真反対に位置しているものとなる。

Amazonやスマホのように既存の要素を合理化して、それでひとつの記号とするのは、たしかに私たちの社会において価値あることであり、そのおかげでさまざまな労苦から解放されることになる。

電話機と一眼レフカメラとパソコンとゲーム機をバッグに入れて持ち歩かなくていいわけで、さらにそれらの区分けをまたいで一元的にデータを管理し、送信したりできる。

ところが上の引用でも話しているように、その便利な時代の恩恵を受けている人間の思考もまた「合理化」されてしまっているわけだ。それゆえ「わかりやすいもの」しか受け付けられなくなっている。

しかし「わかりやすい」とはなんだろうか。それは合理化された情報(与えられた情報)にそのまま従うことにほかならない。そうして思考はどんどん合理化されていくが、もはやそれは思考ではなく、”反応”でしかない。

さらに厄介なことは、そうして合理化された思考からは、その時点での”解像度”が最大値となるゆえ、まさか自分の思考が以前よりも単純化しているなんて”考えること”さえできないということにある。

解像度が違うということは物事を受け取るときの情報量が違うということであり、それは思考の多様性や可能性に直結する、つまり現実の見え方、そして人生の目標や理想像がまったく気づいていないままに拘束されているものとなる。

たとえばSNSでそれなりの肩書きのある人が、政府の無策について正論を語っている様子がよくみられるね。

たしかにそれは”正論”にある。言ってることは間違えていない。だが当事者たちを離れて眺めているとき、なんだかすっきりしない感覚にあったりするだろう。

それは彼らが「=」として考えているからであり、ところが「=」そのものについては考えが及んでいないからだ。

その意味でいえば、彼らは自らの正論のなかで、その人生が常に制限されていることになる。

 

あなたの家に勝手に棲みついている何か

これはもちろん誰にもいえることであり、いまあなたもこの文章を読みながらなんらかを考えているだろうし、もしかすると反論が浮かんでいるかもしれない。

だが「どうしてその思考」なんだろう?

その思考において、それがその通りになされれば、あなたは「うまくいった」と感じる。人生全般もそうだね、願っていたことがそのまま実現されたならば、あなたはそれ以上の満足はないだろう。

だけどもどうしてそれを願っていたのか。”それ以外の願い”では当然だめなわけだが、しかしどうしてだめなのか。

もしあらゆる方向にあなたの願いがあるならば、もはや願うことすら無用となる。必ずそのどれかが実現するからだ。しかしそのようになれないのはなぜだろう?

つまり思考の「=」が時代とともにあまりに合理化されすぎて、周知のように、不寛容や自己保身ばかりの世の中になってしまったわけだ。

いつも話しているように、あなたの現実はあなた独自の見え方として現れているが、その独自の見え方の”模範”となっているものが自発的なものではなく、すでにあるものにただ翻弄されているだけのものであるならば、時代の精神に常に揺さぶられることになるだろう。

つまりその世界が、”あなた”という意識世界のなかに現れているわけであって、それは言いかえてみれば、望まない何かがあなたの家にずっと棲みついているようなものにある。

だからこそ「=」という無自覚な前提、その枠組みに気づかなければならないんだ。

 

人生が豊かになる原理

たとえば最近どうだろう、レジに並んでいて前の客がゆったりしているのをみて、イライラしたりしないかな。前はそんなことはなかったんじゃないかな。

たしかに世の中が不寛容だという話は耳にするだろうけども、どうしてそうした世間の、いわば他人たちの心情が、あなたにも染まってしまっているのか。

もうここに「この世が本当はどこに現れているのか」が明らかになっているんだ。

だけども、あなたがスマホやAmazonをつくったわけではない。むしろあなたがゼロからつくったものなどなにひとつない。

ガラスもプラスチックも飛行機も高層ビルもテレビ中継も、さらには日本語もはじめからあった。

“私たち”ができるのは、既存のなにかを組み合わせて、新しい秩序を創造するだけであり、その記憶のバトンの受け渡しがずっと続いているんだ。

文明の進化や人生の発展、もっといえば”人間の眼前に現象する観念世界”の進歩とは結局のところ、刻々と生まれる多様な創造とその合理化の繰り返しにある。だがら自発的な創造性にブレーキをかけてはならないし、そうして生まれた多様性がひとつの秩序にまとめられるときに世界の質(人生の豊かさクオリティ・オブ・ライフ)が高まることになる。

ゆえにいくら「あなたの人生」とはいえ、そこに独自の像がなければ、人生はすでにある構造に乗せられているだけのものとなる。

もちろんそのなかでも、いろんな体験があり、いろんな発想も浮かぶだろうし、大勝負に出ることもあるだろう。

だがここで話しているのは、創造性が止まってしまって、しなびれた古い秩序(過去の繰り返し)を生きること、その見えない枠組みのなかに閉じ込められていること自体に気づいていないこと、自らの思考の息苦しさは感じているだろうけども、かといってそれを曲げるわけにはいかない、頑固な意志のその理由に気づかなければならないということだ。

言いかえれば「それに従うか、それに反発するか」の二択しかないわけで、まさにそのどちらかしか道がない様子こそが解像度の低さにある。

実際その二択以外にいったいどんな選択があるのかと、それを想像することさえできないわけだからね。

 

“師”をみつける

だからこそ「何もないところを目指せ」という話をよくするのであって、それはつまり、枠組みのなかに出現している自分がどれだけ葛藤しても、その理想とするものや目標とするものは、その枠組みによって与えられているものに他ならないからにある。

まして「葛藤していること」さえも、”与えられたイベント”なんだ。

それゆえ根本的に“自分以外”のものを発見しなければならない。それはいろんな出会い方をする。

“納得いかない”相手の主張もそうだし、また釈迦があれほどこだわっていた苦行を捨てたときに受けた村娘スジャータの”施し”だったりもする。

またはじめて訪れたコンサートやスポーツ観戦の熱気や興奮かもしれない。そうして「=」の内部構造が変化する。

もちろんそれらを結局以前の自分の解釈で塗りつぶしてしまっては、また振り出しに戻ることになる。

つまり、自分ではいまいち腑に落ちない、いまいち落ち着かない、だけども”それ”を足掛かりにして枠組みの外に飛び出さなければならないということだ。

その意味で古来からよく言われるように、自らの心を探究をする者は、必ず”師”をみつけなければならないとされてきたのも同じ理由からにある。

だが話しているように、いまある”自分”とは違う観点や意見を持っている他の存在を師としてみるとき、その人が己を枠組みの外へと連れ出してくれる契機となるということ、その意味でなら書物でも飼い猫でもあなたの師となる。

ただし”師”としてその本を読まなければならない。決して既存の自分の理解、自分の解釈、自分の納得で読んではならない。それゆえに何度も何度も、同じページから”別の意図”を見出す努力が必要となる。

やがて”そのとき”は偶然に到来する。それは昼間の仕事に励んでいるときかもしれないし、料理をしているときや綺麗な夕焼けをみたその瞬間かもしれない。

それが”師”の導きなんだ。

 

解き放たれた世界

するとあなたは既存の「=」を抜け出し、それまでいた「=」の限界をその”外側”からみているだろう。

だがそれは正しくいえば、古い自分を抜け出て成長したのではなく、古い自分を結んでいた糸が解けて、新たに結ばれたのであって、もし「以前の自分はまだ青かったなあ」と浮かべていたとしても、その以前の自分とは、いまその想定のなかにのみ現れている存在にある。

だけども、”星座”が結び直されたことによって、新しい星々が取り込まれていることになるゆえ、人生の可能性は”格段”に開かれるようになる。

つまりそうして”現実”は変わるんだ。これもまたいつも話しているように長い苦難の脱却やトラブルの解決も同じ。大事なのは、それは自分の葛藤の成果ではなく、自分が執着をやめたからこそ、世界のほうからそれらは解決したということにある。

というわけで家族に対しても、また世の中に対しても、すべてがあなたを導いてくれるが、それは

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