寿命という幻想

飼っていたメダカが姿をみせなくなったと
近所の爺さんがいうので一緒にみてきた

そのメダカのことは私もよく知っている

大きな睡蓮鉢に水草や大小の石をいれて
自然の水田のようにして育てていたが
私もそれを手伝ったからだ

あれから3年ほど生きていたことになる

ジャングルのようになっている鉢を前に
しばらく話していたのだけども
たしかにメダカの姿はどこにもなく
浮草の根のあいだからは深い安堵が覗くだけ

初めはつがいの2匹だけだったので
縄張り争いもなく守られた環境で
“夫婦”は暮らしていた

ところが繁殖を前に奥さんのほうが姿を消して
それから1匹だけの世界となった

だがメダカに孤独はなかったはずだ

朝の光とともに目覚めて
気温がさがってくれば水草のなかで眠る

彼は太陽の下で祈りを捧げて生きていた
だから3年の寿命に長いも短いもない

なぜならその祈りはいまも続いているからだ

 

人間の”基準”が悲しみを生みだす

メダカと同様に
私の親族、友人たちの多くも
もう姿をみせなくなった

95歳まで姿をみせていた人もいれば
40歳でみせなくなった人もいる

最後にみたのは病室だったり
「じゃあまた来年」と見送った背中だったり
様々あるけども

いつも私たちは
「あの人は長いこと生きた」とか
「あの人は短い生涯だった」とか
そんなふうに人生の「長さ」に価値をみてしまう

それゆえ幼い子の生涯が閉じられたときなどは
胸が締め付けられる思いをする
もっとたくさんの楽しいことを
あの子は経験できたはずなのにとね

だが実のところをいえば

95年も40年もそして3年も
同じ長さ」なんだ

 

時間という幻想に気づく

もしあなたが
未来に期待ばかりをもって生きていたら
人生が何万年あろうとも短く感じるだろう

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