素敵な食卓

少し前に公開した手記なんだけども、改訂中のまま保留になっていたので加筆して再掲しておくよ。よい人生を送るうえで重要な内容となっているのでゆっくり読み進めてみよう。

 

理性という創造力

人間は「理性」を持っている。「あの人は理性的だ」とか「合理的な判断」とかそんな感じで使ったりするね。

理性とは、ものを認識したり判断したりする基本的な知性だけでなく、そうして認識した物事を別の何かに置きかえたり推論したりして、そこにないものを新しく発想していく能力のことだ。

実際あなたも人間関係や人生について、理性があってこそ喜びや楽しみを見出せているわけで、単にそこに物や出来事があるだけ、認識しているだけでは、私たちはそこになんの価値も見出せない。

たとえば「南国の海は最高」とか「あの俳優は素晴らしい」と物事を理解することや、また「素敵なインテリアにしよう」「いつか夢を実現したい」と理想を描くこともそうだし、「あの人の態度に腹が立ったけども、もしかすると何か事情があったのかもしれない」と推理することもそう。

そのように理性とは「自分自身でものを考えていく力」であり、そしてそれは同時にそこになかった価値を生み出すわけだから、つまり理性とは「創造する力」のことにある。

 

新しい現実=新しい法則のこと

ところで上でならべた理解、理想、推理、という言葉だけども、すべてに「」という文字が入ってることに注意しよう。

理とは「ことわり」のことであり、だから理性的であるというのは、ひとつの法則や筋道をその何かにみている様子にある。

「理科」もそうだね、自然の理を知るからこそ、料理や洗濯、衣服や家電製品、乗り物や建物など、自然の元素を変容させて人間に適した何かを生み出す科学が発展してきた。

同様に「理」は人間関係を観察することや相手を思いやる気持ちにも必要であり(道理)、落ち込んだ自分を救い出すことにも有効な手立てとなる。

言いかえれば、こうして新しい法則(ルール)を作り出すときに、それまでの無価値だった日常や人間関係が価値あるものに変わるわけだ。

「仕事がつまらない」とか「退屈な家族」だとか、そのように見えているのは、自分自身から「理」を生み出していないからであり、だがまさにその「理」を土台にして、現実は変化することを覚えておこう。

専門分野やビジネスモデルも新しい「理」の発明であり、それまでと同じ世界に新しい法則をみることで世界が違うものとなる。同じグラウンドでも「ルール」が違うだけで野球やサッカーに変わるのと同じだね。

人間は理性を持つが、理性によってこそ人間は人間の世界を生きている。

 

理性の危険

ところが理性はどこまでも自由に広げていけるために、大きな過ちを生んだりもする。

思い込みや先入観、バイアスも理性によるものであり、むしろ理性によって他人を疑ったり自分を不幸にしてしまう。しかしそうした囚われもまた理性ゆえに見直すことができるわけだ。

逆にいえば、理性は自分を立て直すことができるが、実はその理性そのものが歪んでいるかもしれない。だがその歪みも理性によって気づいたり正したりすることができる。

しかしそうなると「どこに正解があるのだろう?」となるね。

自分自身をみつめるにしても、そのみつめている理性もまた誤っているかもしれない。理性が基準にするものはその都度変化しているからだ。

まるで上下左右が存在しない宇宙空間に放り出されたような感じにある。

じゃあ正解はどこにあるのか。

いいかい、正解なんてないんだよ。むしろ正解がないことこそが正解であるといえる。

まさに宇宙空間のなかで、自分なりの方向性を決めることこそが理性の役割であり、つまりそれが「人生という創造」なんだ。

 

魂の浄化の物語

だけどもそれは自由気ままにやってればいいということではない。

そうではなく、その都度ごとに自分自身を見つめ直し、過ぎた出来事に囚われずに自らを自由に立て直していくという、その”あり方そのもの”に、私たち人間がよりよく生きていくことへの最大のポイントがあるんだ。

だから失敗してもいいし後悔してもいい。むしろそんなのあって当然なんだ。

だけども同じ失敗を繰り返さないこと、もちろん方向を変えた先でもまた失敗を生むだろうけども、そのときもまた反省して生き方を改めること。

たとえば反省とは「すみませんでした」と頭を下げることではなく、生き方そのものを変えることにあるわけで、そうやって変化していくこと自体が「よい人生(創造性)」の実現そのものにある。

言いかえれば、そうして常にいまを起点として新しい創造をしていくことで、古い過ちはどんどん浄化されていくことになるわけだ。

じゃあ、その果てにみえてくるものはなんだろう。

そこで仏教などの宗教は「真理」を語った。ここにも”理”があるね。

しかし仏教が伝えようとしている真理(真如)はそもそも言葉で語れるものではない。「ほら、これだよ」といまここにあなたを含めて満ち溢れているものにある(=大いなる流れ)。

ところが私たちは言葉を介してしか物事を伝え合うことができず、また認識も理解もできず、それゆえに言葉によってどうにか伝えようとしたのが”真理”となる。仏教ではこうして言葉で伝えざるをえないことを「依言真如」という。

だがそれは単に言葉を借りたということではない。

聖書で「はじめに言葉があった」と書かれたのは、まさに人間の認識世界が言葉(=ロゴス)によって生まれるからであり、もっといえば、言葉のなかに私たちそのものが現れているわけで、つまり理性的に自分自身を見直しながら生きることは、己がそもそも何者であるのかを悟るということに行き着くんだ。

それが「言葉の果てにみえてくるもの」であり、「魂の浄化」であり、まさに仏教が伝えようとしている真如(=大いなる流れ)にある。

よく「体は食べ物でできてる(大いなる流れ)、心は言葉(ロゴス)できてる」とキャッチコピーなんかで使われるけども、それは実に深遠な意味が込められているといえる。

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