すべてはただそこに起こるだけ

禅問答には師と弟子が登場する
師は弟子に難題を与える

それが禅のスタイルだ
覚えておきなさい
師とは世界のことで
弟子とは自我のことだ

あなたの毎日、日々が「師」だ

起こるがままに
あなたは師からの教えを学んでいる
だがあなたの自我が教えを乱してしまう
だから素直に至福を受け取れない

師と弟子
世界と自我

その間で起こる出来事
自我が消えると師は消える
弟子がいないからだ
共に消える。ただひとつの場が残る
それはまさにゼロだ
起こりつつも同時に消化している

あなたが日々起こる出来事を

ただ受け取るように対応していく
それはまるでひとつのように
最初から何もなかったかのように
自我が引き起こす理不尽が現れず
ただ水のごとく川を流れていく

 

ガチョウは外だ

禅問答の
「瓶を割らずにガチョウを外に出せ」
という題目の真意とは

「出来事」が「ただそこにある」
ということを現している

だが自我は答えを求める
意味を求め理由を求め
そこに努力をする
目標を立て解決や解釈をしようとする

そうじゃない
ただそれがあるだけなのだ
出来事に意味も理由もない
「意味」や「理由」の世界を捨てるのだ

あなたが目を閉じて佇んでいるとき
どこからか子ども達の
はしゃぐ声が聞こえてきた

ただそれだけのこと

あなたに起こる毎日は
師が与えているということなのだ
あなたが弟子(自我)である以上
師はいつまでもいる

だからいつか師を超えるとき
それは自我が消えたということだ
この記事を書く私は
あなたの世界、つまり師だ
だがこの記事を読むあなたは
私の世界、つまり師だ

あなたが関わる他者、出来事、
光や音、感覚のすべてに至るまで
それが「師」だ

 

ゼロの境地に立つ

意味も理由も格付けもないのだから
優劣もなければ損得もない
それをあなたに気付かせるため、
あなたが自ら陥った幻想から抜け出すため
ずっと教え続けてくれている

何もないところに置かれたあなたが
勝手に幻想に陥っているのだ
だが相変わらず「何もない」という師が
いつもそこにいるから
あなたはそこから元の場所を
思い出さなければならない

あなたの「自分」という観念と
世界が溶け合ったとき
ただひとつのそれがある
そのとき純粋な「体験」だけが残る

出来事はただ起こるだけ
ただ宝物が溢れているだけ

解脱とは死ではない
日々と溶け合っている状態だ
そこはゼロであり
ゼロの境地からすべてを眺めている、
ということだ

 


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