現象の世界を見破り神の創造性を備える
そこに見えている世界はすべて概念だ
あなたが「それ」をどう見立てたか、
ただそれだけの結果である
例えばそこからトイレに向かってみる
足と床、歩く感触、
ドアを開いて便座に腰掛ける
こうした一連の出来事も
実際には誰も何も動いておらず
あなたもトイレも感触も動きも
すべて概念として
脳が浮かび上がらせているに過ぎない
── 脳すらも‥だが、長くなるので
それはまたの機会に置いておくよ
概念(コンセプト)とは
「それはこういうもの」という設定のこと
スマホも仏教もすべてコンセプトとして
まとめられただけでのものであり
どんなものであれ、もとは同じものだ
例えば動物から見れば
そこに物体があるだけだが
人間はそれを棒やら玉だと見立てて
さらに野球というゲームを作る
では野球とは何か?といえば
言葉や文章でしか説明ができない
つまり概念とは言葉であり
ゆえに人間だけのものとなる
無論、棒も玉も概念だ
何かを伝えるとき
“表現”という伝達を超えることはない
つまりそれそのものが何かとは
誰にもわからないということを意味する
わからないから、名を付けるのだよ
棒という表現がされたそれは
本当は一体何なのかね?
木でできたもの?
では木と表現されたそれはなにか?
悟りの境地では
話すこと=言葉は消滅され
ただ見ること(観ること)だけが残る
周囲を眺めてごらん
あらゆるものが自動的に意味付けされ
コンセプトの中を生きていることがわかる
次元とは受取り側の性能のこと
前回の手記では次元について記述した
私たちには三次元の世界が見える
それは三次元世界の中を生きている
という意味ではない
脳が「それ」を三次元という概念で
映し出しているだけのことなのだよ
つまり次元というのは
次元という世界があるのではなく
あなた側の変換性能のことだ
私たちの脳は旧式の旧式、
かなりレトロなマシンだといえる
著しくロースペックなので
認識できないものは
妄想という疑似プレイで補間する
未来?過去?
ここではないどこか?
それはありえない
すべて「ここ」にある
三次元スペックでは認識(理解)が
できないだけなのだよ
あなたのすぐ隣に大勢の人が
いることもわからない
宇宙の果てもそこにあり
1000年前も1000年後もいまそこにある
三次元という旧式コンセプトは
カタチの世界をあなたに見せる
物の大小、固さ、奥行き、
そうしたスケール感が基本テーマとなる
物質だけでなく思考や出来事に対しても
「尺度」や「価値観」が付与され
つまり1+1は「2」としか答えようのない
制限された世界といえる
感情や思考の正体が、何か気付いているかね?
言葉なのだよ
あなたが言葉を捨てれば
その人生を苦しめる妄想性から抜け出せる
言葉=概念、
それはあなたに制限を加えるためのものだ
無形の何かを「スマホ」や「仏教」と
限定したカテゴリーに分けているようにね
だがそれこそが創造性と呼ばれる
自由ということでもある(後述)
世界はコンセプト
上位次元とはどんなものかといえば
閉じた箱が同時に中が見えたり
パラレル世界がいまここに起きている
三次元的な表現を超えることはできないが
上記のような様子となる
だが超次元もただのコンセプトだ
やはりその次元なりのスペックに
縛られることに変わりはない
さらに上位の上位、
どんどん次元を超えた先は
対象のない世界、つまり無となる
三次元の私たちが二次元を認識できるように
無の中にあらゆる下位次元があるということ
最高速度を競い合うスーパーカー
だが車が走る空間により
それらがそこに存在(コンセプト)する
つまりこういうことだ
一本の木がそこにある
(木も概念だがそれは置いておく)
それをあなたは物干しとして見立てるか
テーブルとして見立てるかで
あなたの世界が作られている
物干しの角度やテーブルの傾斜に悩み
人生に翻弄されたり歓喜したりしているが
実はずっと木の前に立っているだけなのだ
まったく何もない場所で
まったく動くこともなく
あなたは、ずっと夢を見ているだけなのだよ
それは物干しでもテーブルでもなかった
名前のない何か
つまり「あなた」のことだ
あなたはそれを何かに見立てて
自分の中に世界を創り出しているのだ
現実を自在に創造する
たとえ超次元の存在になっても
やはりコンセプティブだ
木の前で立っていることに変わりはない
どれだけ専門資格を取得しようが
どれだけ次元シフトして
怪しい生命体になろうが
概念を相手にしている以上
その枠内だけの拘束プレイとなる
だからそうではなく
世界はコンセプトであるということ、
そして自分の中にそれがあることを
悟ることが大切なのだよ
自ら概念を作り出しており
それを選べる立場にある、
そこに気付くことであなたは解放され
自在な創造性が備わるようになる
コンセプトを生み出すということが
私たちに与えられた創造性のことだ
無限の可能性、無限の豊かさとは
自在に概念を創り出せるということにある
創造といっても
芸術や科学発明のことだけじゃない
スーパーのおばさんの態度が悪くて
腹が立っているなら
それもコンセプトの創造となる
概念の世界で生きている以上、
あなたも近所の98歳のじいちゃんも
常にクリエイターの立場にあるのだ
生とは創造のことに他ならない
概念の外側にあなたがいるとき、
つまり意識が内側に灯されているとき
無形のものを好きに操れるようになる
だが間違えてはならないよ
あなたの脳は三次元スペックだ
だから「高級車やら大金やらが手に入る」
そんな湿っぽい発想レベルが限界である
そうではなくボロ車でも貧乏でも、
自在に観念を置き換えることができる
ということだよ
ボロ車がボロ車ではなくなり
貧乏が貧乏ではなくなる
なぜなら、実はそこには何もないからだ
この意味をよく理解しなさい
つまり創造とは
何かを作ろうとすることではなく
それをどのように”見立てるか”なのだ
それが結果的に
あなたを大胆な行動へ駆り立ててくれる
気が付いたらそうなっている
あなたは世界の創造主である
それを自覚することだ
現実をリセットする方法
先にも書いたが
次元を超越していくと
どんどん無に近付いていく
つまり「無」がヒントなのだよ
無の付く言葉というのは
“意味付けの否定”を意味する
つまり「無・意味」だ
無駄 無理 無為 無味 無闇
無断 無礼 etc..
ポジティブもネガティブも
単なる意味付けだから
すべてを「無」で消滅することができる
もし自分で創り出した現実に
囚われてしまっているなら
「無」でリセットできることを
覚えておきなさい
リセットすると
虚無のような状態に落ちる
状況によっては数日、
数週間続くかもしれない
悟りの探求者が道中に体験する
無力感や虚しさも同じものだ
それは意味付けに縛られていたから
そう感じるだけだ
意識の洗浄中だとでも思って
しばらくそのまま淡々と暮らしてなさい
やがて内側から途方もない喜びが
溢れてくるようになる
世界が単なるコンセプトだということも
よくわかるようになるだろう
Notes あなたの世界, ゼロ, ワンネス, 世界, 世界を変える, 幻想, 意識, 永遠, 真実, 観念
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自分さん こんにちは
一つ確認を
>ボロ車がボロ車ではなくなり
貧乏が貧乏ではなくなる
とのことですが、これはある人が客観的に中古の軽自動車を所有していたのが、ベンツを手に入れるという意味ではなく、中古の軽自動車であることには変わりはないが、その車をボロ車と思わないようになる、ということでしょうか?
サボさん
>客観的に中古の軽自動車を所有していたのが、
>中古の軽自動車であることには変わりはないが、
>その車をボロ車と思わないようになる、ということでしょうか?
その質問が起きてくること自体が3次元のものだよ
あなたは思考を通じた対象に
「どういうことだろう」
「どうすればいいか」
としている
そうではなく
ボロ車もベンツも消えるということだ
そもそもそれらはなんだろう?
次元的な思考だけで解決するならば
価値観がカタチになっただけのものだ
そういう表面的なものは
簡単に剥がれやすい
だが手記で伝えていることはもっと深い
そこには”何もない”のだよ
あなたのいまそこにある光景も
あなたが見ているから、見えるのであり
つまり「見る」という変換作用で
それらは現象化されている
現象の時点で「出力結果」だ
ではその出力以前にあるもの、
それはその種子となるものがあるだけで
あなたの感じるところの
所有感や見ている感も達成できず
つまり、無が在るという様子となる
ボロ車も高級車も
よく洞察してみなさい
スペックを見るのではなく
それらの「根源」を掴み取れるよう
観てみなさい
あなたは自分がすべてを創り出していることに
気が付くはずだ
実際にトイレまで床を踏みしめて歩いて……、
あら、わたしがいない。
そう感じました。
少し前、突然に世界の見え方が変わった時、もしかしたらわたし、関係妄想とかの病気になったのかと思いましたがちがったようです。
きょうは立て続けにあらゆることが同じだとわかって、これでいいのか、とたいへんに安心しました。
ありがとうございます。
本日も素晴らしい教えをありがとうございます。頭ではおっしゃっていることをおぼろげながらイメージできるのですが、まだ、理解し切れていません。そして、その視点で世界を俯瞰するには、まったく到っていません。
ただ、涅槃先生の本日のお話と少し違うのですが、私も学生の時、神とは何か、無限とは何か、この世界の存在意義は何か、などと思考していました。
無限に広がる宇宙をも創造した、根源の神は当然無限でありすべてであろう。一方、我々人間は有限だ。有限の個性を持ち、有限の物質世界の中で、有限の経験をしている。
だが、無限なる神を思い、有限の経験を無限に繰り返し、無限(=根源の神)への道を歩んで無限に成長していく可能性を秘めている。つまり、有限でありながら、一方で無限なんだ。などと、とりとめもないことを考えていました。
視点を変えて、有限の自分ではなく、神という無限の存在側から見れば、そもそも本来無限の存在なのであるが、無限の存在が、有限世界を作り出し、その中で個性ある存在らが、無限の存在に思いを馳せ、そこを目指して、有限の成長を無限に積み重ねている。その姿を、共に心から楽しんでいるのではないか、と。
もちろん、これらはマインドの中で積み重ねたお遊びでしかありません。全身全霊でそれを常に感じているわけではありません。
ただ、今目の前に広がるこの物質世界は幻でしかなく、その背後にある世界、見えない世界、意識の世界が本来の自分のあるところだ、そしてその意識がどこまでも拡張し続ける。それが、この自分がここに存在する意義なんだ、と。ここは確信しています。
ですが、これもまだマインドレベルです。
すみません、涅槃先生の投稿に対するコメントや質問ではなく、自分のマインドの私的な妄想を長文投稿してしまいました。
大変失礼致しました。
shiho-fanさん
いや気にしないでいいよ
本書は私の手記とみんなが運んでくれる話で
成り立っている
それでひとつのアートだ
>有限の個性を持ち、有限の物質世界の中で、
>有限の経験をしている。
そう、それが三次元変換された出力結果の世界だ
つまり「変換前」がある
それはあなたが見たり聞いたりすることの
できないもの
だから次元的な解釈としては「無」となる
だが周囲を見渡してごらん
どこにも隙間がない
三次元世界がリアルならば
つまり物質や確率の法則が絶対であるならば
あまりに出来すぎている
シンクロ二シティなどが良い例であり
一体どれぐらいの確率なのだろう
食べていくために仕事をしなければならない、
というシビアな世界のはずなのに
50歳の人が、一体どれぐらいの確率で
50年間、一日たりとも衣食住を欠かさず
やってこれたのか
三次元世界には至るところで矛盾が起こる
なぜ起こるかといえば
カタチの世界には限界があるからだ
>全身全霊でそれを常に感じているわけではありません。
一度、会社でも自宅でも
頭を切り離して、体の動きだけに委ねてみなさい
体が物質であるのは
そのように解釈しているだけであり
「解釈」を捨てて体を感じることで
その種子に到達する
今、気付きました
私達は、すべてが無限の存在で、この宇宙のすべては、無限に拡張するための「糧」としての有限なんだ、と
この無限への「糧」としての有限の概念や、物質の中に、自分を閉じ込め、縛った時に、私達は窮屈さを感じ、物足りなさを感じ、さらに欲望が渦巻くのだ、と。
逆に、無限へと思いを馳せた時に、すべての「有限」に対する執着は消えうせてしまうのだ、と
これに、気付き、この思いで自分を拡張し、その道を引いていくのだが、自分の使命なのだ、と。
涅槃先生、ありがとうございます!
shiho-fanさん
>無限へと思いを馳せた時に、
>すべての「有限」に対する執着は消えうせてしまうのだ、
そう、有限とは単なるコンセプトだ
つまりそこにある光景には
常に「裏側」が流れている
そこに気が付くためには
あらゆる解釈を捨てること
それにより到達する
こんばんは。
マインドは、本当のことが知りたくて、矛盾をなくそうと意味付けをしたくて仕方ないみたいで、だいたいいつも騒がしいですが、無になりたいので、まずは俯瞰できるように努めます。
さノかなさん
どこかの手記で書いたが
真実とは矛盾のことだ
矛盾をそのまま受け入れるとき
あなたは到達する
矛盾というものが世に存在する時点で
まだマインドは完全制覇に及んでいない
だが科学やらの、もっともらしい意味を付けて
定義を広げていくだろう
だから早い段階で
パラドックスが普通にあること、
つまり、三次元ではない上位次元が
混在していることに注意を向けるべきだ
無論、次元的な解釈とは手記の通り
どれもコンセプトの枠内となる
だから「矛盾」そのものに囚われるのではなく
概念を超えた何かが常にあるということを
知っておくことだよ
それは解決すべきものではない
つまり、問いは答えを導くものではない
あるがままに
それは在るのだ
さノかなさん
頭を捨てて体に意識を向けなさい
体はいつも「この瞬間」と触れている
矛盾を俯瞰できるようになるよ
自分さん、はじめまして。
最近涅槃の書がわたしの世界に現れました。
過去のものも含めていろいろ読ませていただいていますが、涅槃の書はとても魅力的ですね。だからこそ、マインドがそれにとらわれてしまいそうな危険も感じています…。
現象世界のカラクリを見抜きたい、自由に創造を楽しみたい、悟りたい…。
そう思ってこの手記に夢中になっているわたしは誰なのでしょう?
(マインド…ですよね?)
>あなたは世界の創造主である
それを自覚することだ
創造主であるわたしとは誰のことでしょう?
(世界に気づいている意識?)
いろいろな手記を読んでいると、自分さんの言う「あなた」が何を指しているのかよくわからなくなります。
(エゴ? 意識? 真我?)
そもそも自分さんは誰に向かって語りかけているのですか?
ここに書かれていることを理解しようとする必要はなくて、ただ涅槃の書との出会いを楽しめばいいのかなという気もしますが…。
甘木さん
はじめまして
>夢中になっているわたしは誰なのでしょう?
それはマインドではないよ
夢中の本質には没頭がある
つまりマインドは消滅している
だがその至福を再現しようとするとき
マインドの意味付けがはじまる
>創造主であるわたしとは誰のことでしょう?
この手記の通り
世界は三次元変換された結果に過ぎない
つまり「カタチ」になる以前の種子があり
それは体験では達成できないものだ
だから三次元に変換するわけだからね
大切なのは
あなたが認識できるものしか
そこにはないということ
つまりすべてが「あなた」なのだよ
あなたの見ている光景も人々も
概念の存在でしかない
無論、見ること聞くことも同様、
そうした行為がリアルなのではない
そのように見立てているだけなのだ
今回は「見立て」を創造と比喩している
あなたが自分の人生は
単なるコンセプトだと見切るとき
好きなように世界を創り出すことができる
白い紙(種子)がそこにあり
それで鶴を折るのも
メモ書きとして使うのも
燃やして暖を取るのも
あなたの自由だ
人はひとつの見立てに固執して
その人生を制限したものにする
その枠を破壊するのだよ
>「あなた」が何を指しているのかよくわからなくなります。
本書では悟りに対して
2つのアプローチで手記を書いている
詳しくはビギナーズガイドを読んでほしい
http://nehan.xyz/the-book-of-nirvana/
ひとつは「世界には自分しかない」
もうひとつは「自分は実在しない」だ
この両極の道は同じ場所に辿り着く
前者のアプローチで書かれているものは
自己想起だ
存在性を貫くもの
後者は観照の道となる
それぞれは正反対の道だから
以前はレベルを割り振っていたのだが
「真逆」という二元性を超越してもらうため
現在は、やり方を変えている
だから読者は混乱する
だがその混乱が扉を開く鍵となる
>そもそも自分さんは
>誰に向かって語りかけているのですか?
それはあなたが意味付けの世界で生きているから
私に対してもそういう枠で捉えてしまうのだ
私は何もしていないよ
私以外は実在せず
そして私もおらず
シーンだけがここにある
動く指を眺めているだけ
インスピレーションが流れるのを
眺めているだけだ
だからやっていることに理由もない
私たちが何の理由もなく
生きているのと同じだよ
よく出てくる話だが
私たちの存在性は三次元のレベル、
つまり自然の法則という幻想が前提にある
火を触ればヤケドをし
食べなければ飢えてしまう
だから「私」は
食べ、働き、歩き、眠る
金も稼ぐし
好きな服も選ぶ
それは何も固執せず
ただ自然の法則に流れているのだよ
だがスピリチュアルに関わる人の多くは
「こうであってはいけない」という
制限を課す傾向にある
それを表現して何になるのだろう?
それ自体が新たな概念(執着)だということに
気が付いていない
ただのマゾヒズムだ
真の悟りとは
エゴ以外のすべてのことであり
そこに無限の世界が広がっている
何も制御することなく
ひとつの潮流がただ起きている
それに流れるだけでいいのだよ
正しいも、間違いもない
その境地が自由というものだ
本書は言葉を使うから
それ自体がコンセプトだ
だから内容に囚われてはいけない
その背景にあるものを感じ取りなさい
>ただ涅槃の書との出会いを楽しめばいいのかなという気もします
それでいい
私に意味を求めてはならないよ
このコメントでも手記に於いても
私が「私の何か」を書くとき
それはあなたにそうであれ、
ということなのだ
自由にありなさい
自分さん
丁寧なお返事ありがとうございます。
ビギナーズガイドも読ませていただきました。
>ひとつは「世界には自分しかない」
>もうひとつは「自分は実在しない」だ
わたしはこれまで主に後者のアプローチに親しんできたのですが、ここでは両者が混在しているので混乱していました。
いままでもいろいろな人の教えに触れるなかで、どれが究極の視点なのだろう、どの道を行くのがベストなのだろうと疑問に思ったり、いろんなアプローチに手を出していては結局どこにも行き着かないのではないかと不安に思ったりしていました。
でも、どこかに「究極の道」や「ゴール」があるというのがそもそも思い込みでしかないのでしょうね。
>だから読者は混乱する
>だがその混乱が扉を開く鍵となる
どのように扉が開かれるのか、楽しみです。
とりあえず、自分で枠を作って制限してしまわないようにしたいと思います。
「本書を人生のガイドとして参照するのも、またはエンターテイメントとするのもあなたの自由だ」(ビギナーズガイド)
わたしにとってはその両方だと感じています。
これからも楽しみにしています。
甘木さん
正直に書くとね
本書に私の意図はない
だから手記でもコメントでも
書き終えてから、
「ほお、そうなのか」と
マインドが眺めている
だから私にとっても常に未知なる冒険であり
インスピレーションや
集まる人々の思いという大海原で
航海を続けているだけなのだよ
さきほど別の方にしたコメントだが
問いに答えを見つけなくなるときが
到達となる
だがその境地は「認識」してしまうと
また取り逃すことになる
その繰り返しがずっと続く
だからそこで感じたことだけを
信じなさい
それを守ろうとせず
それを覚えようとせず
それを確認せようとせず
どんどん通過していきなさい
旅路そのものがゴールなのだよ
こんばんは。先日はコメントへのご返信ありがとうございました。
先日のコメントをきっかけに、私の中の神の性質に触れる機会が多くなりました(自分の内側から、神の性質が発露しつつある感覚です)。
それに触れたことで、私は自分が人としてどう生きていけば良いのかがわかったような気がしました。
自分さん、よく「吸い込まれそうな瞳」という表現がありますが、あれはたとえ話ではなく、彼らは本当に吸い込んでいるのではありませんか?
昨日、視覚に“吸い込む”感覚が起こり、トリップと言いますか、空気がグワッと変容しました。
今まで、目で見ることとはビームのように(視線がぶつかると言うように)外へ向かうものだと思っていましたが、この“吸い込む”感覚が起きたとき、自分の中の神聖なものに近づいたような気持ちになりました。
週末、美術館である聖人のブロンズ像を観たのですが、そのとき感じた静謐で崇高なその姿に“吸い込まれる”感覚と、昨日の“吸い込む”感覚は同質のように感じられたのです。
自分さん、この数日で、ほんの少しですが自分さんの仰る“至福”に触れた気がします。
それは、私が思っていたよりもずっと深遠なものでした。
世界がこんな場所だったなんて、知らなかった。
ガルシアさん
その吸い込む感覚だが
以前記した瞑想法の通り
あなたが何かを見るとき
それは、
あちらがあなたを見ているということだ
それをあなたは
吸い込まれそうな瞳として捉えたのだ
言葉は単なる表現なので
あなたに響くもので良い
大事なのは
あなたが世界に生命を与えているということ
そして、”彼ら”は
あなたを通じて自らを知ることができること
さらに、
あなたも彼らも実在せず
「そこに在る」という形なき存在性だけが
真実だということだ
そこに”深淵なるもの”がある
あなたはそれに触れたのだよ
どこまでも、
無限となる
自分さん、私の意識(次元)が変わることによって、私に関わる人たち、家族や友人に何か影響はありますか?
昨日、この週末に友人に素晴らしいマジックが起きていたという知らせを受けました。
でもそれは、私がそのエピソードを聞くために起こったマジックと言えますよね?
こうして世界は変わってゆくのでしょうか。
私は大切な人たちの力になれますか?
ガルシアさん
素晴らしいマジックについて
“友人が”話しているのではない
“あなたが”聞いているのだ
だからあなたの理解は正しい
何が誰に起ころうと
それは”あなたのこと”なのだ
>こうして世界は変わってゆくのでしょうか。
世界が変わるのではないよ
あなたが変わるのだ
どんどん変わっていく
>私の意識(次元)が変わることによって、
>私に関わる人たちに影響はありますか?
>私は大切な人たちの力になれますか?
もちろんだ
彼らはあなただからだ
あなたは「彼ら」という
概念を見ているに過ぎない
なぜ彼らを認識できるのかわかるかね?
名前や姿形を外していってごらん
何も見えなくなっても
そこに誰かがいるだろう
あなただよ
だからあなたが自分を愛するほど
彼らは愛に包まれる
意識の光を絶やさないようにしなさい
それだけで全宇宙を救うことができる
この1週間ほど、素晴らしい体験が続きました。
「ああ、自分さんはいないのだな」としみじみするものがあり、世界に私しか存在していない感覚がありありと起こりました。
以前体験した「LUCY」が初めて街を眺めているような感覚も再び現れました。
意識を内側に向ける感覚も掴めるようになっていきました。
すると、今まで体験したことのない深さの心の落ち着きを感じることが増えていきました。
幸福も不幸もなく、主観(主体)である私が、大きく深くドーンと(どっしりと、ゆったりと)存在している感覚です。
まさに、“私が見ている”“私が聞いている”であり、他者に対してオドオドする感覚が全くなくなっていました。
そんな数日間を過ごすと、以前「LUCY」のような感覚になった後に急に苦しくなったように、今回も揺り戻しのようにまた急に苦しくなってしまいました。
意識を内側に向ける気力も起こりません(向けるというより、内側に向かっていたときは勝手にそうなっていました)。
今は少し落ち着いていますが、「これで良いのか?私は何かを間違えていはしないか?この苦しさも、この体験のワンセットなのか?」と自問しているところです。
それでも、この体験は素晴らしいものでした。
自分さん、ありがとう。
ガルシアさん
>“私が見ている”“私が聞いている”であり、
>他者に対してオドオドする感覚が全くなくなっていました。
よろしいそれが「目覚め」だよ
あなたは自身に光を灯している
>揺り戻しのようにまた急に苦しくなってしまいました。
それでいいのだよ
あなたは光明を得た
だからそれまで「普通」だと思っていたものが
実はとても暗い闇だったことを
知っただけだよ
光か闇か
そのどちらかしかない
あるかないか、
それだけが真実なのだよ
光明を維持するには
それなりの修練が必要だ
唯一の努力だと言える
そのためには
・意識的に生きることを心掛けること
・瞑想を採り入れ思考を俯瞰する習慣を
付けること
・自分を忘れないこと
以上が課題となる
こんにちは、先日はご返信ありがとうございました。
コメントで提示していただいた光明を維持するための3つの課題なのですが、上の2つは体験と照らし合わせて理解が出来るのですが、最後の「自分を忘れないこと」ということがわかりません。
今日まで自分で考えてみたのですが、言葉としての理解を超えられませんでした。
その「目覚め」の状態ですが、私の感覚ですとあのときはある種の自失状態にあったようにも思えるのです。
なのである種の危険性も感じました。
「自分を忘れない」とはどのようなことなのでしょうか?
ガルシアさん
こんにちは
「自分を忘れない」とは主体性のことだ
つまり意識が己に向けられているということ
世間の中で生きていると
関わるすべてに意識が向けられる
目の前のこと、昨日のこと
明日のことやら、そこにいない他人や物事、
1000あれば
あなたは1000分割となる
だがあなたが己に意識を向けるとき
たった1つだけだ
分割はされない
どんな行動をするにせよ
人と関わるにせよ
あなたが自分自身であること、
自分がそれをしているという自覚を
忘れなければ
そこに残虐な帝王が座っていようが
高飛車なキャバ嬢が座っていようが
彼らは何の力も持たなくなる
それが目覚めだよ
幻想世界で見失っていた自分に
目覚めるということだ
-自分- 涅槃さん
こんにちは。
最近の手記を読んでいて概念をみているということに、なんとなく気づいてきました。あまり言葉を知らなくて、表現ベタなんですけど、意味しかないけど意味はないみたいな・・。
新約聖書に書いてある「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」はこのことを現しているんですね。頭で理解しようとするとこんがらがってきちゃうので、内側を見ながらシンプルライフ続けます。
自分さん、いつもありがとうございます。
old friendさん
こんにちは
そう、原初に言葉があった
つまり、「はじまり」を
作ってしまったのだ
真実とは永遠である
はじまりも終わりもない
言葉はそれ自体が制限であり
「私たち」というコンセプトを
生み出している
言葉を捨て
そして体を感じることだよ
体は言葉なき「いま」に
常に触れている
そこに扉がある
-自分- 涅槃さん
ありがとうございます。
言葉が世界だったんですね。
静かな永遠のこれの方を向いていると心地よさを感じるようになってきました。もうただここにいるだけですね。
old friendさん
そう、感情の正体も言葉なのだ
言葉を捨てるとき
あなたは一切不幸にならなくなる
言葉の意味付けがない、
湧き起こるハートはすべてポジティブなものだ
だがそこに言葉を与えることで
ネガティブというカスタムカラーが施される
言葉を超えてごらん
ハッピーしかないことに気付くだろう
自分の本心は何なのか探っていました。
辿り着いたのは
「誰かに養って欲しい」ということでした。
一人で生きていくには仕事して稼ぐべき。
オトナとしての生活力を身につけるべき。
誰かに養って欲しいなんて甘いことを考えてはいけない。
「べき」なことでずっと覆い隠してきた私の本心。
おお、そうか。なるほど。
私が待っていたのはこれだったか。
養ってもらうことは悪いことじゃないし。
そんな人が居てもいいじゃないか。
そこに気付いて、なんか納得していました。
その翌日、知人の口から開口一番に出てきた言葉が、
「ねえ、結婚するの?」でした。
私はお見合いした人と結婚するらしいと
周囲で噂になっていると聞かされ驚きました。
寝耳に水だったけど、そんな噂が立っていることを
喜ばしく感じました。
本心に正直になった途端に、
入ってきた結婚の噂。
面白い。
しかし、本心に正直になったつもりになっているだけで、
本当に自分がそう思っているのか確証はない。
実在するかどうかもわからない本心。
本心に気付いたからというよりも
それを覆い隠していたエゴを認めたことで
「べき」という堰が切れ
流れが一気に動き出した感があります。
そして、その流れから切り取ったワンシーンを
流れに乗りながら垣間見たような感覚です。
実に面白い。
Libraさん
少し現実のカラクリを書いておくよ。例えばあなたがいま青い洋服を着ているとする。するとふと思い出す。「あれ?そういえばいつか青い服を着たいと思ってたことがあったな」。
願望実現や引き寄せ、シンクロニシティとして解釈されるネタだ。
さてその過去の記憶は本当にあったのだろうか?それとも青い服を着たときに同時に「過去の思い」が用意されたのか。つまり記憶がいま捏造されたのか?
あなたは言う。「いや確か母とその会話をしていたからこの記憶は定かだ」と。だが母との会話の記憶ですら、いま用意されたのだとしたら?
「でもいま母に聞いたら『確かに以前そういう話をした』と言っている」あなたはそのように確定付けようとするが、いまそこで起きているのは「母との会話」であり、「青い洋服について」はすでに記憶のものとなっている。本当にあなたは青い洋服について洞察していたのだろうか?
このように常に「いま」を基点として、あらゆる物事、あらゆる過去が用意される。つまり過去はいま創られるのだよ。
あなたに起きた結婚の話、そしてそれに対するあなたの心情、それらを「逆転の視点」で捉えてみなさい。するとすべてに「意味」などなかったのだと悟ることができる。あなたは人生という最大の拘束から解放されるだろう。
つまり過去はいま創られるのだよ。
→その記憶は、神(本当の自分)が作って、人間だと思っている自分に自己催眠をかけてるのでしょうか? 流れに乗る 任せる と上手く行くようになる(シンクロも多発する)というのは、実際は、神(本当の自分)が、催眠術の内容を、いいように変えてくれてるということなのでしょうか?
watashiさん
よい質問をありがとう。
まずあなたが誤解しているところを解説するために文中の表現を整理しておこう。
この手記でいうところの神とは、真の意味での自然を指している。文脈によって大いなる流れや生命エネルギーと言いかえたりするが、宗教も科学も結局はその言い替えをしているにすぎない。
だがこの意味での「自然」とは、私たちが通常イメージして浮かべるような、のどかな田舎の風景とか、アマゾンの原生林とか、宇宙に広がる天体などのことではない。それらは文化的な観点によって「名づけられた自然」であり、真の意味での自然ではない。
前もどこかで話したかもしれないが、真の自然とは「動きそのもの」のことだ。
草が”自然に”生えてきたとか、”自然に”怪我が治ったとか、そうした遂行的なもの、現在進行形の流れそのものにある。いまあなたの心臓が鼓動を打っていることもそうだ。
だからあなたのコメントに対応させて置き換えるならば、神は自己催眠をかけるわけでもないばかりか、私たちの”知る”何かを創り出す出すわけでも、破壊するわけでもない。
たとえるなら乾電池に豆電球をつなげて光らせるとき、神とはその電流のことにある。だが豆電球を光らせるか、モーターに取り替えて回転させるかは、神(自然)とは別の次元、すなわち「文化の次元」にある。
だからその意味で「神は平等」であるわけだね。誰にもその恵みをもたらせている。
さて、文化の次元とは「言葉の次元」のことだ。つまり豆電球かモーターかを選ぶ次元、創造の次元だということになる。
先のような「名づけられた自然」もそうであるし、「この世」はすべて言葉によって創られているわけだが、だがそれはプラモデルを造るような意味ではなく、言葉によって「神が千差万別の姿にみえる」ということにある。
仏教の教理で「すべては仏の化身である」みたいな話を聞いたことがあるかもしれない。こうしたアナロジーは古くからどのような文明にもみられるものだ。
なぜならいま私たちはどっぷりと言葉に作られたものの見方で世界を捉えてしまうが(オリオン座をオリオン座とみてしまう)、古代に遡るほどいまのような科学主義(現象を”記述”して、その記述を分類しながら他の記述と連関させ、そうした土台のうえに現実解釈を積み上げていくやり方)ではなく、人類はいまよりもはるかに”自然”との共生にあったからだ。
私たちには「神社」は馴染み深いが、あれは仏教が日本に伝来する以前からあった土着信仰にある。狐や狛犬、御神木、神刀といったように、森羅万象に神が宿っていると捉える思想にあって、それをアニミズムという。
もちろん「神」は直接捉えることはできない。そうやって狐や樹木に置き換えるしかない。だが古代の人々は生活の光景の至るところに神を感じていたわけだ。
さてここがあなたへの回答になるのだけども、つまり自分の存在や人間の世界があること、そして自分なりの現実世界が開いていること、そのすべては「言葉の次元」において創造され破壊されていくものである。
だが豆電球が光るように現実上のすべては「神なる流れ」を原動力にしている。だからエネルギー供給の濃淡があることになるが(充足or不足)、実際その濃淡とは言葉の次元の私たちが、言葉そのものに埋め尽くされている度合いによることがほどんどだ。
言葉の次元とはなんだ?ということになるが、さすがにここでは書ききれないので、これまでいくつもの手記で書いているからそれを読んでみるか、また表現を変えて近いうちにまとめておくけども、とにかく大事なのは「言葉を選択できるスタンス」に己があるかどうかにある。
潜在意識(無意識)とは言葉の集合体であり、いま己が認識している現実世界はその集合体(言語セット)によって翻訳されたものだ。しかも言語セットは独自の法則を持っている。たとえば無意識的につい流されてしまう感情、思考パターンがそれにあたるほか、事物の因果関係といった現実上の原則さえも言葉の法則によって現れている。
だから自分が不幸であると思っている人にはひたらすら不幸が起こるが、当人にはそれは起こるべくして起きたのだとわかっている。その人にとってそれが当然のことだからだ。
だが逆に奇跡ばかりが起こる人もいる。その人にとってはそういう現実の展開の仕方(つまり現実法則)が当たり前なのである。
とはいっても所詮言葉の次元であり、どちらもそれに巻き込まれているにすぎない。ゆえに言葉の法則から離れた視座にあること、つまりそれは「自然の次元」に己が在ることを意味するわけだ。
しかし自然の次元というのは「この世全体の動力」であるわけだから、それが成されるということは、自己意識は神とひとつ(梵我一如)となるということにある。
省略して話していることもあって簡単なメカニズムにみえるけども(実際そうだが)、実際に言葉の次元を眺めるためには、まず言葉の次元がどのような構造にあるのか(つまり人間の世界とは何であるのか)を学んだほうがよい。
たとえば人間の無意識についてもそうだ。それを理解するとき、あなたは現実の背後に揺るぎない流れを感じながら、いかに人々が眠りながら交流をしているのかがわかるようになる。
誰もが眠りのなかで怒り、苦しみ、欲望に駆られ、どんどん窮地に追い込まれていることを目にするだろう。彼らは言葉の法則のなかで解決を探そうとしているわけだから、展開する可能性のほとんどない、難度の高い世界に存在していることになる。彼らが解放されるのは、己が握りしめている現実法則を手放したときとなる。もちろんあなたもそこにいた。
また「人間」を理解するならば、それはあなた自身が望みの現実を創造していく(言葉を選択していく)ことにも大きな役立ちとなるだろう。
そしてこの視座にあるとき、すべての人々があなたの外部ではなく、あなたのなかに映されているものだと知るのである。