世界は黄金でできている

すぐ近くにありすぎて
見えないものがある

それはとても大事なもので
自分をずっと包んでいるのだけども
普段あなたはそれに気づかない

ゆえにその大事なものを
いつも探している

たとえば会社にいくのが億劫で
毎朝起きるのが辛いとしよう

だけどもどうして億劫で辛いのだろう?

その億劫さや辛さとは
「ここにあるべき何か」が
欠如している
からそう感じるのだ

だからその欠如をどうにか埋めたいとする

なにか楽しい週末の予定を入れて
それまでの辛抱だと言い聞かせたり
気持ちを前向きに入れ替えてみたりする

もちろん辛いままで
ただひたらすら耐えているだけかもしれない

でもその「耐える」ということ自体が
そこに「あるはず」のものを
前提としているということだ

人間関係で嫌な思いをすることもそう

それも同様に「本当はこうであってほしい」
という思いがあるから
つまり「本当はこうであるはず」の何か
その相手との関に見当たらないときに
そう思うのである

だから日々を観察してみれば
「いつも」何かが足りておらず
その足りない何かについて
対処を繰り返していることがわかる

言いかえれば
何かが足りないという思いがあるから
生きていることが実現されているのだといえる

出社が苦痛に感じたり
相手に反発したり
週末の予定を入れてみたり
安らぎや快楽を求めたり
小さなことで苛立ったり

すべては
「満たされたい」という思いが発端にあり
つまり欠如した何かを
「埋めようとすること」こそが
人間が「人間の世界で生きていること」だというわけだ

もう一度言っておくけども
人生とはそれを追い求める作業である

どうして億劫や辛さを感じるのかといえば
満たされたものがあることを
「知っているから」だろう

それを「知っているから」こそ辛いのであり
それを知らなければ
まったく億劫も辛さも感じないわけだからね

希望や期待を持つこと
反発したり辛さを感じること

やっていることがどんなことであれ
すべては
「本来の満たされた状態に戻りたいため」の
手段なのである

 

1.

さてその満たされた状態を
「知っている」から常に欠乏しているわけで
それを埋めるために
正方向にも負方向にも欲望するわけだが
しかしその
「満たされた状態」とはなんだろうか

日々何かしら欲望しているわけであり
それを「知っているはず」なのに
いざその満たされたものが「何か?」と
考えてみてもすっと出てこない

それが先に言った
近すぎて見えないものとなる

つまり満たされているにも関わらず
あまりに近くにありすぎて
それを見失っているのだ

じゃあそのいつも包み込んでいる
「あまりに近くにあるもの」とはなんだろう

たとえば柔らかいタオルを手に取ったとする

そこにはタオルという対象と
柔らかさという感触がある
だが何かを見落としている

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